第40話 世界が変わった日
光が消えた後の戦場は、嘘のように静かだった。
大穴があった場所は銀色の花畑へと変わり、瘴気は一滴残らず浄化されている。空には雲一つなく、昼下がりの陽が、戦場のすべてを平等に照らしていた。
連合軍の兵士たちは、武器を手放していた。剣も、槍も、盾も、すべて地面に置き、呆然と花畑を見つめている。聖騎士団の生き残りは膝をつき、祈るでもなく、ただ自分たちの手のひらを見つめていた。
「……俺たちは、何を見たんだ」
誰かが呟いた。
「世界の、傷が、塞がっていくのを、見たんだ」
別の誰かが答える。
その声に、怒りも憎しみもなかった。
ユアン、エルナ、ルーチェ、フィアの四人は、花畑の中央で肩で息をしていた。星霜の聖域を限界まで展開し、世界の傷そのものを癒やした代償は大きく、全員の魔力はほぼ空になっている。それでも四人は笑っていた。何かをやり遂げた者の、晴れやかな笑みだった。
「……終わったんだな」
ユアンがぽつりと言うと、エルナが「ええ、終わったのよ」と力強くうなずいた。ルーチェは目に涙を浮かべたまま微笑み、フィアは花畑に大の字になって寝転がりながら「空がきれいだにゃー」と猫耳を揺らしている。
「――ユアン」
凛とした声が戦場に響いた。
全員が振り返ると、魔王軍の兵士たちが左右に割れ、その中央を一人の少女が歩いてくる。銀髪を風に流し、紅玉の瞳をまっすぐにユアンに向けた、魔王リリス。その後ろにはベリル、ゼクス、ゲンマ、ドルガの四天王が続き、テオバルトとバルザックも並んでいる。
リリスは、銀色の花畑を踏みしめながら、ユアンの前まで歩いてきた。兵士たちは息を呑み、誰もがその姿に見入っている。魔王が、自ら最前線に降り立ったのだ。
「――よくやった、ユアン」
リリスはユアンの両肩に手を置き、紅玉の瞳で彼をまっすぐ見つめた。その声は、魔王としての威厳に満ちながらも、どこか震えていた。
「お前は、世界の傷を癒やした。剣でも、魔法でもなく、その手で。――我が三百年の苦しみも、テオバルトの無念も、そしてこの世界の悲しみも、すべてお前が救ったのだ」
「……俺だけの力じゃありません」
ユアンは首を振り、隣に立つ三人を見た。
「エルナと、ルーチェと、フィアがいたから。それに、魔王城のみんなが、俺をここまで育ててくれたから。俺一人なら、何もできなかった。俺はただの回復術師です。でも、みんなと一緒なら――」
「ああ。それでいい。それがいいのだ」
リリスはユアンの言葉を遮り、そっと彼の手を取った。
「お前は、世界で一番強い回復術師だ。そして、我が誇る専属ヒーラーだ。胸を張れ、ユアン。――お前は、この世界の救世主となったのだから」
リリスがそう言うと、魔王軍の兵士たちから、鬨の声が上がった。
「ユアン様!世界を癒やし手、ユアン様!」
「俺たちのヒーラーだ!」
「魔王城の誇りだ!」
歓声はたちまち戦場全体に広がり、さっきまで敵だった連合軍の兵士たちまでもが、戸惑いながらも拍手を送り始めた。もはや戦いは完全に終わった。憎しみは消え、敵も味方もなく、ただ称賛と安堵の声が響き渡っている。
「ちょ、ちょっと、俺はそんな大げさな……!」
ユアンは真っ赤になってうつむいたが、リリスは彼の手を離さない。むしろ、さらに強く握りしめ、声を張り上げた。
「全軍に告ぐ!この戦い、魔王軍の完全勝利である!しかし、これは剣による勝利ではない。ユアンの癒やしによる勝利である!故に、敗者を無駄に殺めることは許さぬ。負傷者はすべて、このユアンが救う。――それでよいな、ユアン」
「……もちろんです。それが俺の仕事ですから」
ユアンは顔を上げ、リリスの紅玉の瞳をまっすぐ見つめた。
「リリス様。まだ、傷ついた人がたくさんいます。敵も味方も関係ない。俺に、全部治させてください」
「うむ。好きにやれ。ただし――」
リリスはユアンの耳元にそっと顔を寄せ、小さな声で言った。
「終わったら、ふわとろオムライスを作れ。待っているぞ」
「……はい。とびきりのを作ります」
リリスは満足そうに微笑むと、四天王に目配せし、それぞれが戦後の処理へと散っていった。ドルガは捕虜の武装解除を、ゲンマは聖教会の禁術に関わった者たちの拘束を、ベリルはイストリア王国とガルム騎士王国への連絡を。ゼクスはリリスの護衛に戻りながらも、ユアンに無言でうなずいた。かつてない達成感が、魔王城の空気を満たしていた。
花畑の中央に一人残されたユアンは、ゆっくりと空を見上げた。
追放されたあの日、雨の中で無能と罵られ、死にかけた自分が、今ここにいる。世界を救ったと言われ、魔王に手を握られ、仲間と共に笑っている。
「……俺、やっと、報われたのかな」
ぽつりと呟いたその声は、誰に届くでもなく、銀色の花畑に吸い込まれていった。だがその顔には、これまでにないほど穏やかな笑みが浮かんでいた。




