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第39話 世界の傷


大穴は、思ったよりも深く、そして生きているように脈動していた。


ユアンが淵に立つと、底知れぬ闇から這い上がるように、黒い靄がゆらゆらと揺れる。それは、この戦場で流された血と、悲鳴と、憎しみと、無念と――そして三百年もの間、勇者と魔王が戦い続けるたびに蓄積されてきた、世界そのものの痛みだった。


「……あったかい」


ユアンは、穴の奥から吹き上げる瘴気をまともに浴びながら、そっと呟いた。


「違う。これは、冷たいんじゃない。冷たすぎて、俺にはあったかく感じるんだ。それくらい、この傷は深い」


「ユアン、無理に共感しようとしないで。心まで飲み込まれる」


エルナが心配そうにユアンの腕を掴んだ。


「大丈夫だ、エルナ。俺はヒーラーだ。患者の痛みを知るのは、癒やしの第一歩だから」


「先生……」


ルーチェが聖印を握りしめ、隣に立つ。


「私も、感じます。この場所に、たくさんの魂の叫びが残っている。何百年も、誰にも気づいてもらえなかった、痛みと悲しみが」


「あたしの耳にも、聞こえるにゃ。風の音じゃない。誰かの泣き声……ちっちゃい子の声も混じってるにゃ。こんなの、放っておけないにゃ」


四人は大穴を囲むように立ち、互いの手を強く結んだ。星霜の聖域が、再び彼らの足元に展開される。だが、今回はこれまでとは規模が違う。穴の奥の闇が反応し、無数の黒い影が触手のように伸びて、四人を絡め取ろうと迫る。


「来るわよ!」


エルナが氷の壁を張り、黒い触手を凍らせた。ルーチェが聖光を放ち、触手の先端を浄化する。フィアが影を踏み越えて、足場を確保した。


「ユアン!今だにゃ!」


「ああ!――みんな、俺の声を聞いてくれ!これは、世界の傷だ。俺たちはこれを、癒やしに来た!――《完全回復》……いや、違う。これはもう、そんな名前じゃない。これは――」


ユアンは深く息を吸い込み、目を閉じた。彼の意識は、大穴の底へ、底へと降りていく。四人の手の温もりだけを頼りに、彼は自分自身の心の奥底、いや、世界の中心へと落ちていった。


(見える。これは、あの日の俺だ。雨の中を追放された俺。無能と呼ばれ、必要とされなかった俺。仲間だと思っていた者たちに見捨てられた、十七歳の少年。……いたんだな、こんなに深いところに)


大穴の底で、ユアンは一人の少年と出会った。ぼろぼろの白魔術師のローブを着た、かつての自分。あの雨の夜、魔の森で倒れた時のままの姿だ。


「……お前、ここにいたのか」

「ああ。ずっと、ここで泣いてた」

「そうか」

「俺は、何のために回復魔法を覚えたんだろうな。誰の役にも立てないで、無能呼ばわりされて、一人で死にかけた。世界の傷って、結局、俺の心の傷なんじゃないか?」

「そうかもしれない。でもな」


ユアンは、かつての自分に手を差し伸べた。


「お前のその傷は、もう癒えた。お前を無能と呼んだ男は、自分の過ちに気づいた。お前を見捨てた世界は、今お前を必要としている。そして何より――お前自身が、もうその傷を抱えて生きる必要はないんだ」


少年は、震える手をユアンに重ねた。すると、少年は静かに光に包まれ、ユアンの胸の中へと溶けていく。冷たかった穴の底に、一筋の温かい光が差し込んだ。


「――ありがとう。そして、さようなら。俺の、弱かった頃の俺」


ユアンが目を開けると、大穴の底からまばゆい光が噴き上がっていた。それは、三人の仲間たちの祈りと共鳴し、世界の傷を根元から照らし出す。


「みんな!力を貸してくれ!この光を、もっと遠くへ!」

「ええ!どこまでも!」

「はい、先生!」

「まっかせてにゃ!」


エルナの氷が光を反射させ、ルーチェの聖光がその輝きを増幅させ、フィアの影が光を地上の隅々まで運んでいく。魔王城の上空に巨大な光の柱が立ち昇り、それは戦場はおろか、イストリア王国、ガルム騎士王国、ガレア王国、そして聖教会の本山にまで届いた。


世界中の人が、その光を見た。戦場で泣いていた兵士も、故郷で帰りを待つ家族も、教会で祈る聖女も、魔王城で見守るリリスも。


「……ユアン」


リリスは玉座を飛び出し、バルコニーから光の柱を見上げていた。その頬を、一筋の涙が伝う。


「お前は、本当に、世界の傷を癒やしたんだな。我の、三百年の苦しみも、テオバルトの、三百年の無念も、そしてこの世界の、三百年の悲しみも。――全部、お前のその手で」


リリスのとなりに立つテオバルトも、聖剣を杖のようにして、光を見つめていた。


「ああ。これでようやく、世界は前を向ける。勇者も、魔王も、もう憎しみ合わなくていいんだ。――俺たちの戦いは、本当の意味で終わったんだな」


大穴から溢れ出した光は、穴を完全に包み込み、瘴気を浄化し、黒い靄を消し去っていく。やがて、あれほど深かったはずの大穴は、一面の銀色の花畑へと変わり、戦場の怒号は、どこか遠い昔話のように感じられた。


四人は、光が消えた後の花畑の真ん中で、互いの手を握ったまま、静かに微笑んでいた。


「やったな、みんな」

「やったわ、ユアン」

「やりましたね、先生」

「やったにゃ!あたしたち、世界を救っちゃったにゃ!」


ルーチェが涙をぬぐい、エルナが満足げに息を吐き、フィアがぴょんぴょん跳ねる。ユアンは、空を見上げた。雲の切れ間から、何千もの星が、祝福するように瞬いている。


(――世界は、確かに傷ついていた。でも、傷があったからこそ、人は手を取り合える。癒やしは、終わらない。生きている限り、傷はできる。そのたびに、俺が、俺たちが、また癒やせばいい)


それは、回復しかできない男が、世界を救うまでに至った物語の、静かな到達点だった。


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