第31話 故郷への道
出発の前夜、魔王城は静かな活気に包まれていた。
バルザックは厨房で保存食の最終チェックを行い、ドルガは護衛の兵士たちに最後の指示を与え、ゲンマはイストリア王国の最新情報をまとめた地図をベリルに手渡していた。リリスは玉座の間で、使節団の安全を祈るように目を閉じている。
そんな中、ユアンは自室で荷造りをしていた。といっても、彼の持ち物は多くない。治療用の魔法薬草、予備のローブ、そしてテオバルトから譲り受けた古代遺跡の地図。あとは、万が一に備えてバルザックが持たせてくれた非常用の乾燥肉が数袋。それらを革の鞄に詰め込みながら、ユアンは窓の外の月明かりをぼんやりと眺めていた。
明日には故郷に帰る。かつて自分を「無能」と呼び、雨の中を追い出した国に。あの村で、自分は何を見るのだろう。何を感じるのだろう。
コン、コン。
扉をノックする控えめな音が、静かな部屋に響いた。
「ユアン、起きてる?」
エルナの声だった。それにもう一人、扉の向こうから気配がする。
「起きてるよ。入っていい」
扉が開き、エルナとルーチェが並んで部屋に入ってきた。エルナは旅支度を終えたのか、いつもの魔導師のローブではなく軽装のワンピース姿だ。ルーチェは修道服のまま、胸の前で両手をぎゅっと握りしめている。二人とも、何か言いたげな表情だった。
「どうした、二人とも。明日は早いんだから、もう休んだほうがいいぞ」
「……うん、わかってる。でも、どうしてもユアンに聞いておきたくて」
エルナは一瞬、ルーチェと視線を交わし、それから意を決したように口を開いた。
「ユアンは、本当にイストリアに行くの?」
「……何を今さら。リリス様の命令だし、俺も同意した。行くに決まってるだろう」
「そうじゃなくて」
エルナは唇を噛みしめ、言葉を選ぶように続けた。
「イストリア王国は、あなたを『無能』と呼んで追い出した国よ。あの冒険者ギルドも、あなたを見下した連中も、みんなそこにいる。それなのに、ユアンは本当に平気なの」
「私からもお願いします、先生」
ルーチェが一歩前に出て、大きな瞳でユアンを見上げた。その目は今にも泣き出しそうに潤んでいるが、声は芯が通っていた。
「先生は、私にはもったいないくらい優しい方です。でも、優しすぎるから、私は心配なんです。自分のことを傷つけた相手にまで優しくして、それでまた傷つくんじゃないかって。……私、あの毒沼で、自分の無力さに打ちのめされました。だからこそ、わかるんです。先生がどれだけの理不尽に耐えてきたのか。それなのに、平気な顔で『話し合いに行こう』なんて言われたら……」
ルーチェはうつむき、修道服の裾をぎゅっと握りしめた。
「私は、怒っていいと思うんです。先生が誰を許さなくても、私は先生の味方です」
沈黙が部屋を満たした。窓の外では、夜風が黒い薔薇の花びらをそっと揺らしている。ユアンはゆっくりと窓辺に歩み寄り、月明かりに照らされた庭園をしばらく眺めていた。やがて、静かに口を開く。
「……エルナ、ルーチェ。お前たちは、俺がイストリアに行くのは辛くないのかって聞きたいんだな」
「……はい」
「……ええ」
「そうだな」
ユアンは振り返り、二人をまっすぐに見つめた。その目は、かつてのようにうつむいてはいなかった。彼ははっきりと、自分の言葉で語り始める。
「確かに、俺はあの国でひどい目に遭った。無能と呼ばれ、追い出され、雨の中を一人で歩いた。その時のことは、今でも覚えている。多分、一生忘れないと思う」
「ユアン……」
「でもな」
ユアンは少しだけ笑った。それは、自分自身を笑うような、穏やかな笑みだった。
「俺は今、ここにいる。魔王城で、専属ヒーラーとして雇われている。リリス様に信頼されて、バルザックに弟子にされて、フィアとつまみ食いをして、ゼクスと早朝の味噌汁を飲んで、ベリルに毒舌を浴びせられて、テオバルトさんと遺跡の話をして――そして、エルナやルーチェと一緒に冒険に出かけている」
ユアンは二人に向かって手を広げた。
「これが、今の俺の居場所だ。こんなに幸せなことはない。だったらもう、過去のことを恨む必要はないんじゃないかと思うんだ。それにあの時追放されなければ、俺は魔王城に来ることもなかった。今こうして、お前たちと一緒にいることもなかった。そう考えると、あの雨の夜も、悪いことばかりじゃなかったのかもしれない」
「……っ」
ルーチェの目から、ぽろりと涙がこぼれた。それは悲しみの涙ではなく、胸の奥から込み上げてくる、名付けようのない感情の涙だった。
「先生は……先生は、どうしてそんなに強いんですか。どうして、そんなに優しくなれるんですか」
「俺は強くないよ。ただ、自分が何をしたいか、それだけはわかっている。俺はヒーラーだ。誰かの傷を癒やし、誰かの痛みに寄り添う。それが、俺のしたいことだ。だから――」
ユアンはルーチェの頭にそっと手を置いた。
「相手が俺を傷つけた相手でも、俺の目の前で苦しんでいるなら、癒やしたい。それは、許す許さないの話じゃないんだ。ただ、俺がそうしたいからする。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「ああ。それだけだ」
エルナはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐き、肩の力を抜いた。
「……なんだか、私が気にしてたことが、すごく小さく思えてきた」
「そうか?」
「うん。私ね、ずっと後悔してたの。あの時リオンに逆らえなかったこと。ユアンをかばえなかったこと。その罪悪感がずっと胸の奥にあって、だからこそ逆に、あの国に対しては誰よりも怒りを感じてた」
エルナは自分の手のひらを見つめながら続けた。
「でも、ユアンがそんなふうに言うなら――私も、自分の過去と向き合わなきゃね。怒りに囚われてるだけじゃ、何も変わらない。私も、一歩踏み出したい」
「エルナ……」
「明日は、私も一緒に行くわ。ユアンの故郷の村、この目で見てみたい。あなたがどんな場所で育ったのか、知りたいの」
「私もです、先生!」
ルーチェが涙をぬぐい、晴れやかな笑顔を見せた。
「先生の故郷なら、きっといい場所だと思います。村の人たちがどんな反応をするか、ちょっと怖いけど……でも、私は先生の弟子として、胸を張って付いていきます!」
「……ありがとう、二人とも」
ユアンは深く頭を下げ、それから顔を上げて、いたずらっぽく笑った。
「それじゃあ、明日は早いし、そろそろ寝ような。特にお前たちは、フィアみたいに朝が弱いんだから」
「わ、私はそんなことないわよ!」
「私もです!最近は早起きして味噌汁の練習もしてるんですから!」
口々に言い合いながら、三人は笑顔で部屋を後にした。
一人部屋に残ったユアンは、再び月明かりを見上げた。故郷の村。懐かしい顔。変わってしまったもの、変わらずに残っているもの。明日は、そのすべてと向き合う日になる。だが、もう恐れてはいなかった。自分のすぐ後ろには、信頼できる仲間がいる。魔王城で培ったすべての経験が、彼を支えている。
「――待っていろ、故郷。今度こそ、俺はお前を癒やしに行く」
それが、この世界でたった一人の回復術師が、かつて自分を拒絶した場所へと向ける、静かな決意の言葉だった。




