第30話 同盟の申し出
星霜の聖域の実験成功から、さらに数日が過ぎた。
呪詛の森の瘴気はユアンの《領域修復》によって完全に浄化され、かつての危険地帯は今や穏やかな陽光の差し込む森林へと変貌しつつある。その知らせは風のように広がり、近隣の魔族の集落からは早速、森の資源を利用したいという申請が魔王城に届き始めていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。
「――イストリア王国より、正式な同盟の申し出です」
玉座の間で、ベリルが一枚の羊皮紙を掲げた。金箔で縁取られたその書面には、イストリア王国の王印が燦然と輝いている。
「イストリア王国……それって確か、ユアンの故郷の国だにゃ」
フィアが猫耳をピンと立てて言った。その通りだった。イストリア王国は、ユアンが生まれ育ち、そして勇者パーティーに加わるために旅立った国。彼を「無能」と呼んだリオンたちが所属していた冒険者ギルドの本拠地でもある。
「どうして急に」
エルナが眉をひそめる。イストリア王国はこれまで魔王軍に対して冷淡な態度を取ってきた。それが突然の同盟の申し出とは、いかにも不自然だった。
「理由は明白だ。ガルム騎士王国との不可侵協定、そして呪詛の森の浄化。これらが立て続けに伝わったことで、魔王城が『世界の傷を癒やす力』を手に入れたことが知れ渡ったのだ」
ベリルは淡々と分析を続ける。
「特に呪詛の森の一件は大きい。あの森は三百年もの間、誰の手にも負えなかった。それをたった四人で浄化したとなれば、どの国も放ってはおけまい」
「それで真っ先に手を打ったのが、ユアンの故郷というわけだにゃ。打算が見え見えだにゃ」
フィアが不機嫌そうに尻尾を振る中、リリスが玉座から静かに立ち上がった。
「――全員、揃っているな」
リリスの声に、玉座の間の空気が引き締まった。今日はベリルだけでなく、四天王の他の面々も召集されている。
筆頭護衛隊長ゼクスは、いつもの無言で壁際に控えている。兜の奥の目だけが、リリスをじっと見つめていた。
そして、もう二人の四天王も姿を見せていた。
一人は、細身で長身の男だった。漆黒のローブをまとい、顔の半分を仮面で覆っている。魔王軍の情報戦と外交工作を担当する、四天王の第三席――影のゲンマだ。普段は人間社会に潜伏して諜報活動を行っており、城に姿を見せるのは半年ぶりだという。
もう一人は、それとは対照的に筋骨隆々とした巨漢だった。四天王の第四席で、魔王軍の軍事訓練と兵站を統括する、鉄拳のドルガ。彼は終始にこにこと笑みを浮かべている。
「さて、改めて問う。イストリア王国からの同盟の申し出――我々はこれにどう応じるべきか」
リリスの問いに、まず口を開いたのはゲンマだった。
「情報の観点から言えば、これはまたとない好機です。イストリア王国は人間社会の中央に位置し、教会の本山にも近い。あの国と正式な同盟を結べば、教会の内情を探る上でも計り知れない価値があります」
「だが、それは向こうも同じことだ。我々の内情を探られる危険もあるということだろう」
「もちろんです。ゆえに、同盟を結ぶにしても情報管理は徹底すべきです。特にユアン殿の能力に関する情報は、現在我々が持つ最大の資産ですから」
ユアンはゲンマの視線を感じ、背筋が少し伸びた。つい一ヶ月前まではただの追放された白魔術師だった自分が、今や「最大の資産」と呼ばれる存在になっていることに、まだ慣れない。
「儂はな、単純に嬉しいんだよ」
ドルガが太い腕を組み、大きな声で笑った。
「今まで魔族ってだけで攻撃してきた連中が、和平を求めてくるなんてな!ユアンの坊主が来てから、城の空気がガラリと変わった。バルザックの飯は美味くなるし、兵士たちの士気は上がるし、おまけに隣国とは協定を結ぶし――こういうのを福の神って言うんじゃないか?」
「ドルガ様、それはさすがに買いかぶりです」
「はっはっは、謙遜するな!いいことだ、仲間が増えるのはな!」
豪快に笑うドルガに、ユアンは思わず頬が緩んだ。ドルガは初対面の時からユアンを偏見なく受け入れてくれた人物だ。彼の率直な物言いは、時にベリルやゲンマの慎重論とは対照的だが、それもまた魔王城の多様性だった。
「――お前の意見はどうだ、ユアン」
リリスが紅玉の瞳でユアンを見つめた。
「同盟の相手は、お前がかつて住んでいた国だ。お前の故郷だ。お前自身は、どうしたいと思う」
ユアンはしばらく考え込み、顔を上げた。
「……正直に言うと、複雑な気持ちです。イストリア王国は、俺が生まれ育った国です。でも同時に、俺を『無能』と呼んだ冒険者ギルドがある国でもある」
「……それで?」
「それでも、話し合いに応じるべきだと思います」
ユアンの声は、迷いなく響いた。
「過去に何があったとしても、今は違う。俺たちには力がある。そしてその力は、世界を傷つけるためじゃなく、癒やすためにある。俺はこの本にそう教わりました。だとしたら、相手が打算であっても、話し合いの場を拒む理由はないと思います」
「……甘いな。だが、らしい」
ベリルが眼鏡を押し上げ、ため息まじりに呟いた。
「では、私からも提案がある。同盟交渉には段階を設けるべきだ。まずは窓口として、ユアンの故郷の村――イストリアの辺境から話を始める。一気に王国中枢と交渉するより、リスクが少ない」
「私も賛成です」ルーチェがおずおずと手を挙げた。「教会のこともあります。いきなり中央で動くと、ガルムの時みたいに過激派が動くかもしれません。まずは、私たちが本当に世界を癒やす力を持っていることを、時間をかけて示していくのがいいと思います」
「あたしもそれでいいにゃ!ユアンの故郷の村って、どんなところだか見てみたいにゃ!」
フィアが嬉しそうに尻尾を振る。エルナも静かにうなずき、ゼクスは無言で兜を縦に振った。
「――では、決まりだな」
リリスは玉座から立ち上がり、全員を見渡した。
「イストリア王国からの同盟の申し出、これを受諾する。ただし、交渉は段階的に進める。まずはユアンの故郷の村を窓口とし、互いの信頼を築くことから始めよう。――ゲンマ、イストリア国内の情報収集を強化しろ。ドルガ、交渉団の護衛を手配しろ。ベリル、交渉の全体指揮はお前に任せる。ユアン、エルナ、ルーチェ、フィア――お前たちは魔王城の代表として、故郷の村へ向かえ」
「「「「御意」」」」
一同が一斉に頭を下げる。ユアンは胸の奥で、複雑な感情が渦を巻くのを感じていた。故郷に帰る。それも、魔王軍の代表として。かつて無能と呼ばれ、雨の中を追い出された村に、今度はどんな顔をして帰ればいいのだろうか。
「ユアン」
リリスが玉座から降りてきて、ユアンの隣に立った。
「不安か」
「……少し。でも、それ以上に楽しみです。村の皆が元気かどうか、それを確かめたい」
「そうか。ならばいい。――帰ってこい。我の城で、我のヒーラーとして」
ユアンはリリスの紅玉の瞳を見つめ返し、深くうなずいた。彼の隣では、エルナとルーチェが互いの手を握り合い、フィアはすでに「村には何が名物にゃ?やっぱり串焼きかにゃ?」と首をかしげている。一同が笑顔を見せる中、ユアンは改めて胸の内に決意を固めた。
いよいよ、故郷への帰還の時が近づいていた。




