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第3話 魔王軍四天王、ベリル



意識は、暗い水の底に沈んでいた。


ユアンはかすかに瞼を持ち上げる。視界はぼやけ、何か硬い床の感触が背中に伝わってくる。冷たい。だが、もう雨には打たれていない。規則的な揺れと、車輪のきしむ音。どうやら荷馬車の中らしい。


(俺は……助かったのか)


いや、その認識は正しくない。手首には荒縄が巻かれ、両足も自由が利かない。天井を見上げれば、幌の隙間から差し込むのは、雨上がりの薄い月光だ。


「気がついたか、人間」


頭上から降ってきた声に、ユアンは首をめぐらせた。


荷台の隅に、一人の女が座っている。外套を脱ぎ、組んだ膝の上で両手を重ね、値踏みするような目でユアンを見下ろしていた。ツインテールに結った黒髪。丸眼鏡の奥で光る、知性を感じさせる切れ長の瞳。腰には、背丈ほどもありそうな大鎌が無造作に立てかけられている。


年の頃は、ユアンと同じか少し上くらい――外見だけなら。


「……あなたは」


「質問しているのは私だ。気がついたかと訊いた」


「……はい。なんとか」


ユアンの返答に、女――ベリルは小さく鼻を鳴らした。


「ならば良し。死なれると面倒だった」


淡々とした口調には、一片の温情も感じられない。だが、不思議と悪意もなかった。彼女はただ、事実を事実として述べているだけだ。


「ここはどこですか。俺は……」


「俺は、か」


ベリルは眼鏡を指で押し上げ、口元をわずかに歪めた。笑っているのか、呆れているのか、判別がつかない表情だった。


「自分の置かれた状況すら理解できていないようだな。いいか、人間。お前は今、魔王軍四天王の一人、参謀長ベリルに捕虜として連行されている。この荷馬車は魔王城へ向かっている。――ここまで言えばわかるな?」


魔王軍。四天王。魔王城。


その単語が、ユアンの鈍った頭にじわりと染み込んでいく。


普通の人間なら、恐怖で震え上がる状況だ。魔王軍といえば、人類の敵。捕虜となれば待っているのは拷問か、奴隷落ちか、最悪の場合は処刑か。


だが、ユアンの胸に浮かんだのは、不思議なことに恐怖よりも先に、別の感情だった。


「……魔王城」


ユアンは小さくその名を口にした。


人類の希望である勇者パーティーを追い出された、その夜に――自分は今、人類の敵である魔王軍に拾われようとしている。


(なんだ、それ)


口元に、笑みにも似た痙攣が走る。運命とは、これほど皮肉なものなのか。


「何がおかしい」


ベリルの鋭い声が飛ぶ。


「いえ……すみません」


ユアンは首を振り、それから正直に答えた。


「俺は今日、勇者パーティーを追放されたばかりで。その夜に魔王軍に拾われるなんて、どんな巡り合わせだと思って」


「――追放?」


ベリルの眼鏡の奥で、瞳がわずかに細められた。これまでの事務的な観察から、明らかに「興味」へと質が変わる。


「話せ」


短い命令だった。聞き返す余地も、拒否する権利もない。ユアンは観念して、自分の身の上を語り始めた。


---



「俺の名前はユアン。勇者パーティーで白魔術師をしていました」


荷馬車の揺れに身を任せながら、ユアンはぽつぽつと語った。


十五の時にユニークスキル《完全回復》に目覚めたこと。勇者リオンにスカウトされ、パーティーに加わったこと。戦闘では何もできず、それでも回復だけは誰にも負けないと必死に務めてきたこと。


そして――今日、その努力のすべてを「無能」の一言で切り捨てられたこと。


「……お前は攻撃ができない、と。だから追放されたのか」


「はい」


「だが、回復だけは誰よりもできる、と」


「……そう、つもりでした」


「つもり、か」


ベリルは腕を組み、荷台の壁に背を預けた。彼女の瞳が、眼鏡越しにユアンをじっと見つめる。値踏みする視線。だが、先ほどまでの冷たさとは少し違う。何かを考えている時の目だった。


「お前が持つその《完全回復》というスキル、具体的にどこまで治せる」


「あらゆる傷、毒、状態異常、呪い。それから……切断された部位の再生も、理論上は可能だと思います」


「再生だと?」


ベリルの声が、わずかに震えた。それは驚愕と呼ぶには抑えられていたが、彼女の冷静な仮面に走った初めての亀裂だった。


「……仮にだ。聖属性の武器でつけられた古傷、しかも三百年治っていない呪いが癒えるか」


「試したことはありませんが、スキルの理論上は……可能なはずです」


荷台に、沈黙が落ちた。


車輪のきしみと、御者台から聞こえる魔族の兵士たちの話し声だけが、幌の中に流れ込んでくる。


ベリルは長いこと考え込んでいた。彼女の指先が、無意識に膝の上でトントンと刻まれている。ユアンにはわからなかったが、これは彼女が重大な決断を下す時の癖だった。


「――ユアンと言ったな」


ベリルはようやく口を開いた。


「お前のスキルが本物かどうか、城で試させてもらう。もし偽りなら、その時は死あるのみだ」


「……もし、本物だったら?」


「選択肢を与えてやる」


ベリルは荷台の窓から外を見た。幌の隙間から、東の空がわずかに白み始めているのが見える。


「このまま死ぬか、魔王城で生き延びるか。お前のスキル次第だ」


「選択肢、ですか」


ユアンはその言葉を、心の中で繰り返した。


選択肢。選ぶ余地。自分で決めていいという権利。


そんなものを与えられたのは、いつぶりだろうか。パーティーにいた二年間、ユアンの役割はつねに与えられるものだった。リオンが決め、仲間が従い、ユアンはその一番後ろで黙って回復するだけ。自分の意思で何かを選んだ記憶など、ほとんどなかった。


「……怖くないのか」


ベリルが不意に訊いた。


「魔王城だぞ。人間にとっては死地も同然。普通なら泣いて命乞いするところだ」


「正直、怖いです」


ユアンは素直に認めた。


「でも――不思議なんですけど、それよりも」


荷馬車が速度を落とす。御者の一人が、幌の外から何やら声をかけてきた。前方に目的地が見えたのだろう。


ユアンは、縛られた手をぎゅっと握りしめ、言った。


「今は、雨に打たれてないだけで、少しだけ安心してるんです」


ベリルは何も答えなかった。ただ、その丸眼鏡の奥で、何かを測るように細められた瞳だけが、ユアンの心の奥をじっと見つめているようだった。


「そろそろ着くぞ」


ベリルは立ち上がり、荷台の幌を片手で開けた。


「見ろ、人間。これがお前の新しい現実だ」


ユアンは、縛られたまま身を起こし、幌の隙間から前方を――いや、上方を見上げた。


息をのんだ。


朝焼けを背に、それはそびえ立っていた。


黒曜石で築かれた無数の尖塔。城壁を這う青白い魔法陣。空中に浮遊する衛兵の詰め所。門前には、人間の三倍はあろうかという巨人族の衛兵が二体、巨大な戦斧を携えて直立している。


すべてが、ユアンの知る世界の常識を超えていた。


ダンジョンで見たどんな魔物よりも、教会で教わったどんな伝説よりも、それはただ圧倒的で――そして、不思議なほど美しかった。


「これが……魔王城」


「そうだ。これより先は、人間の人権も、勇者パーティーの肩書きも一切通用しない。覚悟しろ」


ベリルはそう言い放つと、ユアンの縄を迷わず解いた。驚くユアンに、彼女は肩越しに冷たい一瞥をくれる。


「逃げても無駄だ。ここから先、お前を守るものは何もない。――ただ、お前のスキルだけが、お前自身を守る」


荷馬車が、巨大な城門をくぐっていく。


頭上では、無数の魔法灯が朝の闇に揺らめき、ユアンとベリルを照らし出した。


ユアンの胸に、恐怖がなかったと言えば嘘になる。しかし、それ以上に。


(――ここなら、もしかしたら)


自分でも理由のわからない、かすかな期待が、冷え切った胸の奥で小さく灯っていた。


荷馬車が止まる。


どこか遠くで、城の重厚な鐘が、新しい来訪者を告げるように鳴り響いていた。


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