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第2話 追放の夜


雨はやむ気配を見せなかった。


ユアンは一人、ぬかるんだ街道をあてもなく歩き続けていた。ダンジョンを追い出されてから、どれほどの時間が経ったのかもわからない。空は厚い雲に覆われ、月明かりすら届かない。ただ冷たい雨だけが、容赦なく身体を打ちつづけていた。


「無能、か」


何度目かわからないその言葉を、ユアンはまた口にした。


ダンジョンでのリオンの声が、耳の奥でこだましている。


――お前は回復しかできない無能だ。


――代わりはいる。


濡れたフードが顔に張りつき、水滴が鼻先から落ちる。一歩踏み出すたびに、靴の中ですぐりの水が不快な音を立てた。


たしかに、俺には攻撃魔法は使えない。


武器の訓練だって、まともに受けたことがない。幼い頃から回復魔法の才能だけを見出されて、村の教会で育てられた。白魔術の基礎を叩き込まれ、神聖魔法の理論を学び、そしてある日突然、ユニークスキル《完全回復》に目覚めた。


それだけで、十分だと思っていた。


傷ついた人を癒せるだけで、誰かの役に立てるだけで、自分の存在には意味があると信じていた。


「でも、それだけじゃ足りなかったんだな」


ユアンの口元に、自嘲の笑みが浮かぶ。


考えてみれば、当たり前の話だ。戦闘ができなければ、パーティーの足を引っ張る。どんなに優れた回復魔法を持っていても、そもそも戦闘に勝てなければ傷を癒やす機会すら訪れない。リオンの言うことは、冷酷ではあったが、理屈としては間違っていなかった。


――いや、違う。


ユアンは足を止めた。


理屈じゃない。これは理屈の問題じゃない。


俺は、ただ「ありがとう」と言ってほしかっただけだ。


戦闘のたびに、必死で魔力を振り絞って仲間を癒やした。誰かが怪我をすれば真っ先に駆けつけ、疲労が溜まれば回復魔法で体力を戻し、毒を受ければ解毒の術式を編んだ。パーティーの誰かが傷つくたびに、自分のことのように胸が痛んだ。


それなのに――。


「ユアン、お前のご飯は美味しいな」


「ユアンがいると野営が楽でいいよ」


「ユアンってば意外とマメだよね」


そんな言葉で、自分は満足していたのかもしれない。


でも、本当に欲しかったのは、そんなおまけみたいな評価じゃなかった。


「……寒い」


ユアンは濡れた服をかき合わせた。夏の終わりとはいえ、夜の雨は体温を容赦なく奪っていく。このままではまずい。どこか雨をしのげる場所を探さなければ。


だが、見渡すかぎり荒野と、その先に広がる黒い森の影だけだった。


---


同じ頃、ダンジョン近くの宿屋では。


「――というわけで、今日からルーチェが新しい仲間だ。みんな、歓迎してやってくれ」


暖炉の火が暖かな食堂で、リオンは上機嫌に宣言した。


木造りの長テーブルには、戦士、弓使い、盗賊、そしてエルナが座っている。料理はすでに運ばれ、エールのジョッキも用意されていた。誰の席にも、湯気の立つシチューが置かれている。


ただ一つ――ユアンの席だった場所を除いて。


「ルーチェです。まだ未熟者ですが、皆さんのお役に立てるよう頑張ります」


ルーチェは修道服の裾をつまみ、ぎこちなくお辞儀をした。その頬はほんのりと赤らみ、大きな瞳には緊張の色がありありと浮かんでいる。


「おお、可愛い子じゃねえか!」


「教会の聖女見習いだって?すごいな」


「回復も攻撃もできるのかよ。そりゃ頼もしいや」


戦士と弓使いと盗賊は、口々にルーチェを歓迎した。ルーチェは照れくさそうに微笑みながらも、どこか落ち着かない様子で周囲を見回している。


「あの……お料理、こんなにたくさん。私がいただいてもいいんでしょうか」


「当たり前だろ。ほら、冷めないうちに食え食え!」


戦士が豪快に笑い、ルーチェの皿にパンを乗せる。ルーチェは「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、スプーンを手に取った。


その様子を、エルナだけは黙って見つめていた。


「――エルナ?」


リオンの声に、エルナはハッと顔を上げる。


「どうした、難しい顔をして。料理が口に合わないか?」


「……ううん、そうじゃないわ」


エルナは首を振り、シチューを口に運んだ。冷めかけた塩味が、舌の上でぼんやりと広がる。


違う。この味じゃない。


ユアンが作ってくれたシチューは、もっと深い味わいだった。野営の限られた食材で、どうやったらあんなに美味しく作れるのか、エルナはいつも不思議に思っていた。訊ねるとユアンは照れくさそうに笑って、「秘密です」とはぐらかすのだ。


――今夜のシチューは、妙に味気なかった。


「リオン」


エルナはフォークを置き、意を決して口を開いた。


「ユアンのこと、本当にこれでよかったの?」


その瞬間、テーブルの空気が変わった。戦士がフォークを止め、弓使いが気まずそうに視線を逸らす。盗賊に至っては、そそくさとエールを飲み干して話題から逃げようとしていた。


「なんだ、まだ言ってるのか」


リオンは面倒くさそうにため息をついた。


「あれは必要な決断だった。戦力にならないメンバーをいつまでも抱えていられない。俺たちは世界を救う使命があるんだぞ」


「でも、ユアンの回復は誰よりも優れていた。それに、あなたが気づいてないだけで、彼は――」


「それ以上はやめろ、エルナ」


リオンの声が、一段低くなった。


「俺はパーティーリーダーとして判断した。それが気に入らないなら、お前も出ていくか?」


エルナの喉が、ひくりと鳴った。


言い返したいことはあった。リオンに逆らえず、ユアンをかばえなかった自分自身への苛立ちも。けれど、リオンの目を見た瞬間、エルナの中の何かが縮み上がった。


(――まただ。私、また何も言えない)


エルナは唇を噛みしめ、うつむいた。


「……ごめんなさい」


その小さな謝罪が誰に向けられたものか、エルナ自身にもわからなかった。


ルーチェは、そんなやりとりを不安げに見つめながら、スプーンを持つ手を止めていた。彼女の皿の上では、冷めたシチューが静かに固まり始めている。


「あの、勇者様」


ルーチェはおそるおそる口を開いた。


「先ほどのユアン様という方は……本当に無能だったのですか?教会では、白魔術の使い手は神の恩寵を授かった方だと教わりました」


リオンは一瞬だけ目を細め、それから優しい笑みを浮かべた。


「ルーチェ、お前は純粋なんだな。だが現実は違う。戦場で必要なのは、神の恩寵じゃない。使える力だ。お前にはそれがある。だから自信を持て」


「は、はい……」


ルーチェは素直にうなずいたが、その胸の奥には小さな棘が残った。


(使える力……じゃあ、使えない力を持つ人は、いらないの?)


その疑問を口に出すことはできなかった。代わりに彼女は、ユアンの空いた席をちらりと見つめる。誰も座っていないその場所に、何かが欠けているような違和感を、ルーチェは初めてのパーティーで感じていた。



魔の森の奥深く。


ユアンは、ぬかるんだ地面に片膝をつき、荒い息を繰り返していた。雨はますます強くなり、木々の枝を叩く音が不気味に響いている。視界はほとんど利かず、数歩先すらまともに見えない。


「は……はあっ……」


肩の傷が、焼けるように痛んだ。


先ほど茂みから飛び出してきた魔物――毒牙を持つ大蛇のような何か――は、ユアンの肩口に深く噛みつき、そのまま闇に消えた。一撃で仕留められなかったのは、おそらく相手も満腹ではなかったからだろう。獲物が抵抗しないと見るや、興味を失ったように去っていった。


だが、残された毒がユアンの身体を蝕んでいる。


「……完全回復、起動」


ユアンは震える右手を傷口にかざし、スキルを発動させた。純白の光が掌から溢れ、裂かれた皮膚と筋肉が再生していく。毒も同時に浄化され、焼けるような痛みは数秒で消え去った。


しかし。


「魔力が……もう……」


スキルの発動には大量の魔力を消費する。ダンジョンでの連戦ですでに限界だったユアンの魔力は、この一度の回復でほぼ底をつきていた。傷は癒えても、体力までは戻らない。視界はぼやけ、手足の感覚は遠のいていく。


ユアンは泥の上に倒れ込んだ。冷たい雨が、無防備な背中を打ち続ける。


(ここで……終わるのか)


意識が薄れていく中で、ユアンの脳裏に浮かんだのは、不思議なことにリオンの顔でもエルナの顔でもなかった。


村の教会で、幼い自分に白魔術を教えてくれた老神父の言葉だった。


――ユアン、癒やしの力はね、誰かの痛みに寄り添える者にしか授からないんだよ。お前は優しい子だ。その優しさを、いつかきっと誰かが必要としてくれる。


「……神父様、俺は」


優しさだけじゃ、ダメだったよ。


攻撃ができなければ、守ってもらえない。


傷を癒やしても、感謝すらされない。


俺は、ただの――。


雨音が、すべてをかき消した。


ユアンの意識が闇に溶けようとした、まさにその瞬間。


「――見つけたぞ」


冷たく、それでいてどこか熱を帯びた声が、雨音を貫いて届いた。


誰かが、すぐそばに立っている。ぬかるみを踏む靴音。雨をはじく外套の擦れる音。そして、ユアンの顔を覗き込む気配。


「生きているな。毒の反応……いや、もう解毒しているのか」


声の主は、ツインテールの髪を揺らし、丸眼鏡の奥の鋭い瞳でユアンを観察していた。魔王軍四天王、ベリル。この時はまだ、ユアンが彼女の名を知る由もなかった。


「面白い。この雨でよく死ななかったものだ。それに……何か妙な魔力の残滓がある」


ベリルは後ろを振り返り、闇に向かって鋭く命じた。


「荷馬車を回せ。捕虜だ。魔王城へ連行する。抵抗するようなら縛り上げろ」


ユアンの視界の端で、複数の影が動く気配がした。だが、それを確認する前に、ユアンの意識は完全に途切れた。


最後に聞こえたのは、自分を「捕虜」と呼んだ彼女の声と――。


「……ただし、丁重に扱え。こいつは何か、持っている」


その言葉が、ずぶ濡れのユアンの身体を包む、かすかな温もりのように感じられたのは、きっと気のせいではなかった。


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