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第1話 回復しかできない無能



ダンジョン最下層。魔王の間へと続く巨大な鉄扉の前で、ユアンは最後の魔力を振り絞っていた。


「白魔術第七階位――《全快癒光》」


両手から放たれた純白の光が、血まみれで倒れ伏す戦士を包み込む。深く裂かれた肩口の傷がみるみる塞がり、折れた肋骨が元の形を取り戻し、失われた血液までもが体内で再生されていく。十秒とかからず、戦士の呼吸は穏やかな寝息に変わった。


「よし、これで全員だ」


ユアンは額の汗を拭い、その場に膝をついた。連戦で消耗した魔力はすでに限界を超えている。視界の端がチカチカと明滅し、指先はかすかに震えていた。


それでも、パーティーメンバー五名全員の回復は完了した。致命傷を負っていた前衛二人も、毒の矢を受けた弓使いも、罠で足を砕かれた盗賊も、いまは全員が無傷だ。


「……さすがユアンだな」


氷の魔導師エルナが、小さく息をついて言った。彼女は魔力切れで意識を失ったユアンの代わりに、水筒を差し出してくれる。


「ありがとう、エルナ」


ユアンが水を受け取ろうとした、その時だった。


「――おい、ユアン」


凍りつくような声が、ダンジョンの石壁に響いた。


振り返ると、勇者リオンが両腕を組み、壁にもたれかかってユアンを見下ろしている。聖剣を杖代わりにしたその姿勢には、激戦を潜り抜けた疲労の色など微塵もなかった。なにしろ彼は、ユアンの回復魔法によって一滴の血も流していないのだから。


「お前、さっきの戦闘で何をしていた?」


リオンの問いに、ユアンは言葉を詰まらせた。


「何を、と言われましても……皆さんの回復を」


「そうだな。回復だけだな」


リオンは吐き捨てるように言い、壁から背を離した。鉄の靴音が重く響き、ユアンの目前で止まる。


「トレントの大群を相手にした時も、お前は後ろで突っ立っているだけだった。ミノタウロスの突進を受けた時も、毒霧の罠が作動した時も、だ。お前がしたことは、ただの一度もない。ただ指をくわえて見ているだけの癖に、戦闘が終われば『回復します』だ」


「それは……俺の役割が回復だから、です」


「役割だと?」


リオンの口元が歪んだ。それは笑みではなく、侮蔑の形だった。


「役割というなら、俺はパーティーリーダーとして言わせてもらう。お前の役割は、今日で終わりだ」


ダンジョンの空気が、凍りついた。


戦士が息を呑み、弓使いが目を見開く。盗賊に至っては、ついさっきまでユアンに治療されていた身でありながら、慌ててリオンに同意するように何度も頷いた。


「リオン、それはいくらなんでも――」


エルナが一歩前に出た。だが、リオンが鋭い目つきで彼女を射抜くと、エルナの声は途中でかき消えた。リオンは聖剣の柄に手をかけていたわけではない。それでも、彼の放つ威圧は、エルナの抗議を許さなかった。


「聞こえなかったのか、ユアン」


リオンは再びユアンに向き直る。


「お前はクビだ。今日限りでパーティーを抜けろ」


ユアンはゆっくりと立ち上がった。膝の震えはもう止まっていたが、代わりに胸の奥が冷たく締めつけられるような感覚があった。


「理由を……聞いてもいいですか」


「理由はさっき言った。お前は回復しかできない無能だ」


リオンはこともなげに言い放つ。


「攻撃魔法の一つも使えない。武器も持てない。罠を見つける探索スキルもなければ、敵の動きを封じる補助魔法もない。ただ回復だけ。そんなものがパーティーに必要だと思うか?」


「ですが、俺の回復で皆さんは――」


「代わりはいる」


リオンは背後を振り返り、鉄扉の陰に向かって声をかけた。


「出てきてくれ、ルーチェ」


現れたのは、白い修道服をまとった一人の少女だった。


年齢はユアンより一つか二つ下だろうか。栗色の髪を肩口で切りそろえ、大きな瞳には不安と緊張が揺れている。胸元には、教会の聖印が銀色に輝いていた。


「紹介しよう。教会から派遣された聖女見習い、ルーチェだ」


リオンは少女の肩に手を置き、芝居がかった口調で続けた。


「彼女の聖魔力量は、教会でも『聖女の再来』と噂されるほどだ。攻撃魔法も使えるし、回復魔法もこなす。そうだろう、ルーチェ?」


「は、はい……まだ未熟者ですが、精一杯務めさせていただきます」


ルーチェはペコリと頭を下げた。その仕草には、ユアンへの遠慮のようなものがかすかに見えたが、リオンは気にも留めない。


「というわけだ、ユアン。お前の席はもうない」


ユアンは何か言おうとした。だが、言葉が出てこなかった。


違う、と言いたかった。俺の《完全回復》は、ただの回復魔法じゃない。ユニークスキルで、あらゆる状態異常も、呪いも、欠損すらも治癒できる唯一無二の力だ、と。だけど、その言葉は喉の奥でつかえてしまった。


――違う、そうじゃない。


ユアンの脳裏をよぎったのは、スキルの説明などではなかった。


こうして、この場所で、何も言い返せずにいる自分自身だ。エルナはかばおうとしてくれたのに、それを押し留めたのは他ならぬ自分だ。声を上げれば、パーティーが割れる。リオンと正面から対立すれば、今後の魔王討伐に支障が出る。そう考えて、これまでもずっと黙ってきた。食事の用意も、野営の準備も、装備の手入れも、誰に頼まれたわけでもないのに全部やってきた。戦闘で役に立てないぶん、せめて陰で支えようと――。


その結果が、これだった。


「わかったよ」


ユアンは短く答えた。それ以上、何かを言う気力は残っていなかった。


「賢明だな」


リオンは満足げに頷き、ユアンの肩に手を置いた。追放を言い渡した時とは別人のように、優しげな声音だった。


「お前の回復は悪くなかった。ただ、このパーティーには合わなかっただけだ。どこか他で頑張れ」


違う。悪くなかったのなら、なぜ追い出すんだ。合わなかったのなら、なぜもっと早く言ってくれなかったんだ。


言いたいことは山ほどあった。けれど、ユアンはもう何も言わなかった。ただ無言で荷物をまとめ、ダンジョンの外へと続く通路を一人歩き出した。


「ユアン……!」


エルナが呼びかける声が聞こえた。彼女は追いかけようとしたのか、一歩踏み出す気配があった。でも、それだけだった。リオンの視線が、彼女の足を縫い止めたのだ。


「行くな」とは、誰も言ってくれなかった。


ダンジョンを出ると、外は雨だった。


ユアンはフードも被らず、ぬかるむ道を歩き続けた。冷たい雨が髪を濡らし、頬を伝い、首筋から背中へと染み込んでいく。


「無能、か」


呟いてみた言葉は、雨音にかき消されて誰にも届かなかった。


自分でもわかっていたことだ。攻撃魔法は使えない。武器も持てない。《完全回復》はたしかに強力なスキルだったが、それはあくまで「誰かが傷ついた後」にしか意味をなさない。戦闘が起きなければ、ユアンは何もできないのだ。


それでも、これまで必死にやってきた。誰かが傷つけば真っ先に駆けつけ、誰かが疲れれば肩を貸し、誰かが空腹を訴えれば保存食に一手間加えて温かい食事を用意した。


回復しかできないのなら、回復だけでも誰よりも完璧にこなそうと、そう思っていた。


けれど、それは結局、「代わりがいる」で片付けられるものだったのだ。


「……はは」


乾いた笑いがこぼれた。


雨はますます強くなっていく。視界は悪く、足元はぬかるみ、どちらが街道だったかもわからない。気がつけば、ユアンは見覚えのない森の中を歩いていた。


魔の森――地図にもそう記される、凶暴な魔物が棲む危険地帯だ。


だが、そのことに気づいた時にはもう遅かった。


茂みの奥で、複数の赤い目が光る。低く唸るような鳴き声。毒の匂い。ユアンが身構える間もなく、鋭い牙が闇から飛び出してきた。


肩に走る激痛。


毒だ。そう直感した瞬間、ユアンの意識は急速に闇へと沈んでいった。


雨に打たれながら、ユアンは泥の上に倒れ伏す。


最後に脳裏をよぎったのは、リオンの「無能」という言葉でも、エルナの沈黙でもなく――明日の朝食の献立だった。


「……駄目だな、俺」


自嘲とともに、ユアンは目を閉じた。



雨がすべてを洗い流していく。


パーティーの絆も、これまでの思い出も、無能という烙印も、すべて。


ただ一人の少年が、世界から忘れ去られようとしていた。


しかし――その闇の中を、かすかに揺れる灯りがあった。


「……動くな。人間」


冷たく澄んだ女の声が、ユアンの意識をかろうじて繋ぎ止める。


誰かが、覗き込んでいる。


雨をはじく外套。ツインテールの髪。丸眼鏡の奥で光る、知性と警戒を宿した瞳。


「生きているな。……その傷は毒か。奇妙な魔力も感じる。このまま死なせるには惜しい」


彼女はそう呟くと、後ろを振り返り、誰かに向かって鋭く命じた。


「荷馬車を回せ。捕虜だ。魔王城へ連行する」


魔王城――その言葉だけが、ユアンの消えゆく意識の底に、はっきりと刻まれた。


それは、彼の知るどの街よりも遠く、どのダンジョンよりも深い場所。


だが、皮肉なことに――ユアンはその時、初めて「必要とされた」という実感を、かすかに胸の奥で感じていた。


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