第23話 聖剣のテオバルト
翌朝、魔王城の正面門前に、それは現れた。
朝靄の中を、一人の男が歩いてくる。白髪交じりの長い銀髪を無造作に垂らし、ぼろぼろの外套を纏い、手には鞘に収めたままの聖剣。顔には深い皺が刻まれ、その目は遠くを見つめているようで、何も見えていないようにも見えた。
「――テオバルト」
城門の上から、リリスが静かにその名を口にした。隣にはユアン、ベリル、ゼクスが控え、その後方にはフィア、エルナ、ルーチェが身を固めている。城壁の上には弓兵が並び、正門前には魔王軍の精鋭歩兵が陣を敷いていた。
「……リリス、か」
テオバルトは足を止め、城門を見上げた。その声は意外なほど穏やかで、300年の時を経た怨敵に向けるものとは思えない。
「お前もまた、変わらぬな。いや――その胸の傷は、もうないのか」
「お前もな。その全身を蝕んでいたはずの呪いが、消えている」
二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。殺気も、怒号もない。ただ、300年の時を隔てて再会した二人の戦士が、互いの変化を確認し合っている。
リリスが先に口を開いた。
「テオバルト。なぜ今さら現れた。復讐か」
「復讐……?」
テオバルトはしばらく考え込むように空を見上げ、それからゆっくりと首を振った。
「わからぬ。私はただ、目が覚めたら封印が解かれていて、気がつけばここへ向かっていた。まるで、誰かに呼ばれるようにな」
「呼ばれる……?」
その時、フィアがユアンの袖を引っ張った。
「ユアン、あれを見てほしいにゃ。勇者の後ろ、教会の連中がまだいるにゃ」
「――追ってきてたのか」
テオバルトの遥か後方、朝靄の切れ間に、白い法衣をまとった数人の聖職者が立っていた。彼らは距離を取り、何かを詠唱しているようにも見える。
「ベリル」
「ああ、見えている。どうやら教会は、勇者本人にすら意図を隠して同行しているらしい」
ベリルが眼鏡を押し上げ、冷たい声で分析した。
「あの距離から何らかの魔法をかけている可能性が高い。おそらく精神干渉系の術式だ。テオバルト本人の意思でここに来たわけではないとすれば――」
「話が通じるかもしれない、ってことだな」
ユアンは一歩前に出た。リリスが制するよりも早く、城門の階段を駆け下りていく。
「ユアン、何をしている!危険だ!」
「大丈夫です、リリス様。それに――危険なのは、あの人も同じだ」
ユアンは歩兵たちの前をすり抜け、テオバルトの正面に立った。
こうして改めて見ると、テオバルトは伝説の最強勇者には見えなかった。300年分の疲労を刻んだ顔。ぼろぼろの外套。そして、何よりも――その目は、ユアンがかつて魔の森で倒れていた時と同じ、自分が誰なのかもわからないような、深い虚無を湛えている。
「――テオバルトさん」
「……お前は?」
「俺はユアン。魔王城の専属ヒーラーです」
「ヒーラー……回復術師か」
「はい。それで、単刀直入に訊きます。テオバルトさんは、戦いたいですか?」
テオバルトの目が、わずかに揺らいだ。
「……戦いたくない、と?」
「ええ。もし戦いたくないなら、戦わなくていい。もし誰かに操られているなら、俺がそれを治す。俺のスキルは《完全回復》といって、どんな傷も、どんな状態異常も、なかったことにできるんです」
「完全、回復……」
テオバルトはその言葉を反芻し、それから突然、頭を押さえてうずくまった。
「……やめろ……私に……命令するな……!」
「テオバルトさん!」
テオバルトの身体が、みしみしと軋むように震える。後方の教会の聖職者たちが、一斉に詠唱の声を張り上げた。精神干渉の術式が強まっているのだ。
「ぐ……ぁあ……!」
「――《聖盾結界》!」
ルーチェが城門の上から飛び降り、ユアンの前に聖属性の光の盾を展開した。同時に、エルナもまた氷の矢を放ち、遠方の聖職者たちを牽制する。
「ユアン先生!今です!」
「ああ。――行くぞ、テオバルトさん!」
ユアンはためらわず、テオバルトの頭に両手をかざした。かつてリリスの古傷を癒やした時と同じ、まばゆい純白の光が溢れ出す。
「白魔術、全系統開放――《完全回復》」
光がテオバルトの全身を包み込む。精神干渉の術式が、呪いのように絡みついた聖属性魔力が、まるで蜘蛛の巣を焼き払うように消えていく。
「……お前、は……」
「大丈夫です。もう大丈夫。何も怖がらなくていい」
やがて光が収まった時、テオバルトは静かに涙を流していた。
300年の封印の果てに、彼はようやく自分の意思を取り戻したのだ。
「……リリス」
テオバルトは城門の上を見上げ、掠れた声で言った。
「私は、お前に詫びねばならない」
「詫び……?」
「あの時、私は正義だと信じて疑わなかった。魔族はすべて滅ぼすべき悪だと。だが、封印の中で考え続けた。――お前はなぜ、私にとどめを刺さなかったのかと」
リリスは答えない。ただ、紅玉の瞳がかすかに揺れている。
「私はお前の胸を貫いた。しかしお前は、私の全身を呪いで蝕みながらも、致命傷は避けた。なぜだ」
「…………」
「300年かけて、ようやくわかった。お前は私を殺さなかったのではない。生かしたのだ。憎しみの連鎖を、断ち切るために」
その言葉を聞いた瞬間、ユアンははっきりと見た。リリスの目から、一筋の雫がこぼれ落ちるのを。
「……我は、ただ戦いに疲れていただけだ」
リリスは涙をぬぐいもせず、静かに言った。
「相討ちになった時、ああこれで終わりだと、そう思った。憎しみも、復讐も、何もかも終わると。――お前を生かしたのは、情けではない。我の弱さだ」
「弱さ、か。だがそれは、今のお前の隣に立つ彼が、一番よく知っているものだろう」
テオバルトはユアンを見て、初めて笑みを見せた。皺だらけの顔に浮かんだその笑顔は、意外なほど穏やかだった。
「回復術師ユアン。お前のその力は、傷を癒やすだけではない。人の心の呪いさえも解く。――私にはわかる。かつての私もまた、癒やしの力に憧れた者だったからな」
玉座の間には、思いがけない光景が広がっていた。
魔王リリスと、かつて彼女を瀕死に追い込んだ最強の勇者テオバルトが、向かい合って座っている。テオバルトの前にはユアンが用意した湯気の立つ味噌汁が置かれ、彼は一口すすって深く息を吐いた。
「……温かい。美味いな、これは」
「ユアンが毎朝作っている。我の城の者たちは皆、これを目当てに起きてくるんだ」
「なるほど。ヒーラーであり料理人でもあるのか、ユアンは」
二人の会話は、もはや300年の宿敵同士のものではなかった。
「それで、テオバルト。お前はこれからどうする」
「……封印が解けた以上、私は自由だ。しかし、教会が私を操った理由は、まだわからぬ」
「わかっていることはある」
ベリルが一歩前に出て、羊皮紙を広げた。捕縛した聖職者たちの尋問記録らしい。
「教会中枢は300年前から一貫して、テオバルトを『聖戦の象徴』として利用する計画を持っていた。お前の封印を解き、操り、魔王城を攻撃させることで大規模な聖戦を再開させるつもりだったらしい」
「……私が、そのようなことに」
「だが、ユアンの《完全回復》がその計画を粉砕した。お前が正気に戻ったことで、教会の大義名分は崩れ去った」
そこに、フィアがぴょんと飛び跳ねて言った。
「それでそれで!テオバルトさんは、これからどうするにゃ?もし行くところがないなら、魔王城に住んでもいいんだにゃ!」
「フィア、お前はすぐそれだな」
「だって、こんなにおじいちゃんなのに、外に放り出すのはかわいそうにゃ!」
「……おじいちゃん」
テオバルトは苦笑し、白髪を撫でた。
「そうだな、確かにもう『聖剣の勇者』と呼ばれる年でもない。――ユアン」
「もし、ここで私を受け入れてもらえるなら、私も何か役に立ちたい。今の私に何ができるかはわからぬが、せめて教会の陰謀について知っていることを話すくらいはできる」
「もちろん、歓迎します」
ユアンは笑顔でうなずいた。
「厨房の手伝いも、治療室の見回りも、人手はいくらあっても足りませんから」
「――いいのか、リリス」
「……ユアンが言うなら、我は止めぬ。ただし」
リリスはテオバルトをじっと見据えた。
「そなたは我の城で、ユアンの味噌汁を飲むことになる。それはつまり、この城の一員になるということだ。かつての敵としてではなく、今の仲間としてな」
「……わかった。ありがとう、リリス」
テオバルトは深く頭を下げた。300年前に相討ちになった二人が、今、同じ城の仲間として再出発しようとしている。
ユアンはその光景を胸の奥に刻みながら、そっと玉座の間を後にした。厨房に戻り、今日の朝食用の鍋を火にかける。300年分の空白を埋めるのは、特別な魔法ではなく、きっとこんな日常の積み重ねなのだと信じて。




