第22話 300年の因縁
早朝の厨房で、ユアンはいつも通り味噌汁の鍋をかき混ぜていた。
ゼクスがすでにカウンター席に座っている。今日はなぜか、まだ湯気の立つ椀に手をつけず、兜の奥の目がじっと何かを見つめているようだった。
「……ゼクス?味噌汁、冷めるぞ」
「…………」
「どうした、いつもなら三杯おかわりするのに」
ゼクスはしばらく沈黙していたが、やがて低く言った。
「――リリス様が、お前を呼んでいる。玉座の間だ。朝食の後でいいとおっしゃっていたが……おそらく、急いだほうがいい」
「リリス様が?」
「それから、ベリルもフィアも、エルナもルーチェも全員だ。――かなり重大な話らしい」
ユアンは鍋を火から下ろし、エプロンを外した。ゼクスはようやく味噌汁を一口すすり、立ち上がる。
「……俺も同席する。筆頭護衛隊長としてな」
その言葉に、ユアンは事の重大さを察した。ゼクスが自ら同席を申し出るなど、これまでに一度もなかったからだ。
玉座の間に集められたのは、ユアン、エルナ、ルーチェ、フィア、ベリル、ゼクス、そしてバルザックまで招集されていた。厨房を抜けるわけにはいかないと最初は断ったらしいが、リリス直々の命令で渋々参加したという。
リリスは玉座に腰掛け、全員が揃うのを待ってから口を開いた。
「――全員、ご苦労。朝から呼び立ててすまぬな」
「リリス様、それで御用件とは」
ベリルが一歩前に出る。リリスはゆっくりと玉座から立ち上がり、玉座の間の中央に歩み寄った。
「先ほど、国境の偵察隊より緊急の報せが入った」
「緊急の報せ……ですか」
「うむ。――かつて我を瀕死に追い込んだ、あの勇者が封印から目覚めたらしい」
玉座の間の空気が、凍りついた。
「そ、それって……300年前の……?」
エルナがかすれた声で尋ねる。リリスは静かにうなずいた。
「当代の勇者リオンなど比べ物にならぬ。奴は本物の『最強』だった。聖剣の真の力を引き出し、魔王軍の精鋭を一人で壊滅させ、そして我と一騎打ちの末に相討ちとなった」
「相討ち……」
「奴は我の胸を聖剣で貫き、我は奴の全身を呪いで蝕んだ。どちらも生き延びられるはずのない傷だった。――そう、奴もまた、我と同じ300年の古傷を抱えて封印されていたはずなのだ」
ユアンはごくりと唾を飲み込んだ。
「リリス様。その勇者は、傷が治ったんですか」
「……らしいな」
リリスの声は、驚くほど冷静だった。だが、紅玉の瞳の奥には、かすかな動揺が揺らめいている。
「封印されていた遺跡に、何者かが入り込んだ。おそらく教会の過激派だ。奴らは封印を解き、そして――何らかの方法で勇者の傷を癒やした。完全ではないかもしれぬが、少なくとも戦える程度にはなったと見える」
「そんな……300年も封印されていた人間が、簡単に動けるものなんですか」
ルーチェが信じられないといった顔で首を振る。
「普通ならな。だが、奴は『最強』だ。それに――」
リリスは一瞬間を置き、それからユアンを見つめた。
「ユアン。そなたの《完全回復》の力を見て、確信した。この世には、本来なら治らぬ傷を治す力が存在する。奴もまた、そのような力に触れたのかもしれぬ」
「……!」
ユアンは言葉を失った。自分のスキルと同じような力が、かつての敵にも働いたというのか。それが良いことなのか悪いことなのか、即座には判断できない。
「で、その最強の勇者とやらは、今どこにいるんだ」
ベリルが眼鏡を押し上げ、実務的な口調で尋ねた。
「国境の偵察隊からの報告では、人間界を出て魔界に入ったという。進路は――ほぼ一直線に、この魔王城を目指している」
「なんでまた、300年も経ってから」
「わからぬ。復讐か、あるいは別の目的か。だが、確かなことは一つ。奴は再び、我と戦うつもりだ。今度こそ、決着をつけるために」
リリスの言葉に、玉座の間は重い沈黙に包まれた。フィアの猫耳がしゅんと垂れ、バルザックは太い腕を組みながら苦い顔で天井を仰いでいる。
「……リリス様。一つ、よろしいでしょうか」
ユアンが静かに手を挙げた。
「その勇者とやらは、リリス様の敵なんですよね」
「当然だ。我を殺そうとした男だ」
「でも、リリス様もその勇者を殺そうとした。300年前は、お互いに殺し合って、お互いに死にかけた。――なら、今度は話し合うっていう選択肢は、ないんでしょうか」
一瞬、リリスの表情が揺らいだ。
「……ユアン。そなたは相変わらず甘いな」
「はい、よく言われます」
ユアンは苦笑したが、目は真剣だった。
「でも、俺はヒーラーです。戦うより先に、癒やすことを考えたい。相手がどんなに強い勇者でも、話が通じる相手なら、戦わずに済む方法を探したい」
リリスはしばらくユアンを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「――その言葉、忘れるなよ」
「はい」
「しかし、だ。相手が話し合いに応じない可能性も十分にある。ベリル、防衛の準備を。全戦力を城に集結させろ」
「御意」
「ゼクス、護衛隊長として城の守りを固めよ。結界の強化も怠るな」
「承知」
「バルザック、厨房はしばらく休みだ。代わりに、兵士たちに滋養をつける料理を頼む」
「了解しました。腕によりをかけてやりましょう」
リリスは矢継ぎ早に指示を出し、それからフィア、エルナ、ルーチェに向き直った。
「フィア。そなたのスパイ部隊を偵察に出せ。勇者の正確な位置と、現在の状態を探れ」
「わかったにゃ!あたしの鼻にかけて、必ず見つけ出すにゃ!」
「エルナ。城の外周に氷の防壁を張れ。できるだけ分厚くな」
「了解。やれるだけやってみる」
「ルーチェ。お前は治療室の準備だ。――戦いになれば、必ず怪我人が出る」
「……はい。全力で準備します」
全員がそれぞれの持ち場へと散っていく中、リリスはユアンだけを呼び止めた。
「ユアン」
「はい」
「そなたは……そなたは、我の側を離れるな」
「え?」
「奴が狙うのは、まず間違いなく我だ。だが、もし奴がそなたの力に気づけば、そなたも標的になりうる。――いいな、絶対に一人で行動するな」
リリスの声には、魔王としての命令というより、一人の少女のような――そんな響きがあった。
「……わかりました。約束します」
「うむ」
ユアンは深くうなずき、それからふと思い出したように言った。
「リリス様。ところで、その勇者の名前は?」
「――テオバルト。300年前、大陸中がその名を口にした。『聖剣のテオバルト』とな」
ユアンは、その名を心に刻んだ。
その夜、魔王城には重苦しい空気が漂っていた。
兵士たちは皆、口数が少なく、廊下を行き交う足音もどこか硬い。かつてない緊張感に包まれる城内で、ユアンは厨房に立っていた。
バルザックが大鍋でシチューを仕込み、ユアンはその隣で明日の朝食用のパンを捏ねている。
「……ユアン、お前、怖くないのか」
「怖いですよ。300年前の最強の勇者なんて、想像もつかない」
「だろうな。俺もだ。50年この城で料理を作ってきたが、ここまでピリピリした空気は初めてだ」
バルザックは大鍋をかき混ぜながら、小さくため息をついた。
「だがな、ユアン。お前が言った『話し合う』って選択肢、俺は悪くないと思うぜ」
「料理長……」
「戦うしか道がないと思い込んでる時に、別の選択肢を提示できるやつは強い。お前にはそれがある。――自信を持て」
ユアンは粉まみれの手を止め、バルザックの横顔を見つめた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。パン、焦がすなよ」
「はい!」
その時、厨房の扉が勢いよく開き、フィアが転がり込んできた。
「ユアン、バルザック!大変だにゃ!」
「どうした、フィア」
「偵察から戻ったにゃ!それで――あの勇者、もうすぐそこまで来てるにゃ!」
ユアンとバルザックは顔を見合わせた。
「……思ったより、ずいぶんと早いな」
「逃げも隠れもせず、まっすぐこっちに向かってるにゃ。それで、それで――」
フィアは息を整え、信じられないものを見たような顔で言った。
「勇者の周りには、教会の人間がたくさんいるにゃ。まるで勇者を護衛してるみたいに。でも、なんか変にゃ。勇者の目が、すごく虚ろで――まるで、自分の意思で歩いてるように見えないにゃ」
ユアンの背筋に、冷たいものが走った。
「それって……もしかして」
「操られてる、のかもしれないにゃ」
厨房に、重い沈黙が落ちた。バルザックが大鍋をかき混ぜる手を止め、フィアの猫耳が不安げに伏せられる。
最強の勇者が、自分の意思ではなく、誰かに操られて魔王城へ向かっている。
その事実は、戦いの性質を根本から変えるものだった。相手は敵か、それとも――救いを求める犠牲者か。ユアンは拳を握りしめ、静かに顔を上げる。
「……フィア。それ、リリス様とベリルに伝えたか」
「まだにゃ!今から報告に行くにゃ!」
「わかった。俺は治療室の準備を急ぐ。最悪の事態に備えつつ――最善の結末を目指す」
ユアンの声は震えていなかった。その瞳には、かつてパーティーの最後尾でうつむいていた少年の影は、もうどこにもない。




