第21話 何もないけれど、かけがえのない日
ガルム騎士王国からの帰還から、数日が過ぎた。
魔王城は相変わらず慌ただしい。ベリルは協定の事後処理に追われ、リリスは隣国との新たな外交案件に頭を悩ませている。治療室には今日も傷病兵が訪れ、厨房ではバルザックが新人助手たちに檄を飛ばしていた。
そんな中で、ユアンは久しぶりの休日を迎えていた。
「休日、か」
自室の寝台に寝転がり、天井を見上げながらユアンはぽつりと呟く。
ガルムでの誘拐事件から帰還して以来、リリス直々の命令で「しばらく休め」と言い渡されたのだ。曰く、「疲れが残ったまま厨房に立たれて、オムライスの味が落ちたら困るからだ」とのこと。相変わらず素直じゃない気遣いである。
天気は快晴。窓から差し込む陽光が、部屋の中を明るく照らしている。こんなにのんびりとした朝は、本当に久しぶりだった。
(パーティーにいた頃は、休日なんてなかったな)
リオンは常に次のダンジョンを目指し、休むことは「怠け」だと切り捨てた。ユアンはそんな中で、回復魔法の練習と料理の仕込みに追われ、自分のための時間など一度も持てなかった。
(今は、違う)
ユアンはゆっくりと起き上がり、窓を開けた。魔王城の庭園が見渡せる。黒い薔薇が咲き誇る庭の片隅で、フィアが日向ぼっこをしている猫の姿を見つけて、思わず笑みがこぼれた。
コンコン、と扉がノックされる。
「ユアン、起きてる?」
「エルナ?ああ、入っていいよ」
扉を開けて入ってきたのは、氷の魔導師のローブを脱ぎ、軽装のワンピース姿になったエルナだった。肩までの青みがかった黒髪が、窓からの風にふわりと揺れる。
「おはよう。今日は休日だって聞いたから、よかったら一緒に朝食でもと思って」
「朝食?厨房で?」
「ううん。実は、中庭の東屋を借りてるの。フィアとルーチェももう待ってるわ」
ユアンは目を丸くした。
「お前たち、そんなことを」
「たまにはいいでしょ。ガルムから帰ってきて、ずっとバタバタしてたんだから。――行こ?」
エルナが差し出した手を、ユアンは素直に取った。
中庭の東屋は、黒い蔦が絡まる白いガゼボだった。
石造りの古びたテーブルの上には、バルザック特製の焼き立てパンと、フィアが市場で買い込んできた果物、ルーチェが修道院仕込みのレシピで作ったハーブティーが並んでいる。そして中央には、ユアンが昨日のうちに仕込んでおいたケチャップが一瓶。これを見越していたかのようなラインナップに、ユアンは思わず笑ってしまった。
「ユアン先生、おはようございます!」
「にゃー、やっと来たにゃ!お腹ぺこぺこだにゃ!」
「おはよう、ルーチェ、フィア。すごいな、こんなにたくさん」
「今日はユアンはお客様だにゃ!何もしなくていいにゃ!」
「そうそう。いつも私たちがお世話になってるお礼。……大したものはないけど」
エルナが照れくさそうにパンをちぎり、ユアンの皿に置く。ルーチェがハーブティーを注ぎ、フィアはすでに果物を頬張りながら「これは甘くて美味しいにゃ!」とご満悦だ。
ユアンは温かいパンを一口かじり、ハーブティーをすすった。
「……美味い」
「本当?よかった。ルーチェが調合してくれたの」
「エルナさんが果物を切ってくれたんですよ。フィアさんが市場で一番甘いのを選んでくれて」
「あたしは鼻が利くからにゃ!酸っぱいやつは一発でわかるにゃ!」
三人がわいわいと言い合う様子を、ユアンはただ黙って見つめていた。
(――ああ、幸せだな)
それは、なんてことのない朝の風景だった。魔王城の中庭で、仲間たちと朝食をとる。ただそれだけのことが、かつての自分には決して手に入らないものだった。
(パーティーにいた時は、誰かとこんなふうに過ごすことなんてなかった。みんな俺の料理を食べるだけで、誰も「一緒に食べよう」とは言ってくれなかった)
ユアンは、ふとエルナを見た。
「エルナ、お前、昔は俺の料理を『美味しい』って言ってくれたよな」
「え……ああ、うん。あの時は、リオンに遠慮して、あまり大きな声では言えなかったけど」
「それでも嬉しかった。誰かがちゃんと見てくれてるんだって、それだけで頑張れた」
エルナは少し俯き、それから顔を上げて微笑んだ。
「今は、遠慮しなくていいんだよね」
「ああ」
「じゃあ言うね。ユアンの料理は、本当に美味しい。いつもありがとう」
その言葉に、ユアンの胸の奥がじんわりと温かくなる。
「私もです、ユアン先生!」
ルーチェが勢いよく手を挙げた。
「先生の味噌汁は、教会のどんなごちそうより美味しいです!それに、料理だけじゃない。先生の優しさが、そのまま味になっている気がします」
「ルーチェ、それはちょっと褒めすぎだぞ」
「いえ!本気です!」
真っ赤になって主張するルーチェに、ユアンは思わず笑ってしまった。
「あたしも言うにゃ!」
フィアが果物を飲み込み、猫耳をピンと立てた。
「ユアンのごはんは、あたしが初めて食べた『あったかいごはん』だにゃ。奴隷商人に捕まってた時は、冷たくて硬いパンばっかりだった。でもユアンのごはんは、食べると心があったかくなるにゃ。それが一番嬉しいにゃ」
「……フィア」
ユアンは、フィアの頭にそっと手を置いた。猫耳が嬉しそうにぴくぴく動く。
「みんな、ありがとう。俺、こんなふうに誰かと一緒にごはんを食べるのが、ずっと夢だったんだ」
「じゃあ、その夢は叶ったんだね」
「……ああ。叶った。それどころか、毎日叶い続けてる」
東屋に、柔らかな風が吹き抜けた。黒い薔薇の花びらが一枚、ひらりとテーブルの上に落ちる。
「そうだ、ユアン」
エルナが思い出したように言った。
「このあと、時間ある?実は、庭園の奥に新しい泉ができたんだって。ベリルが『視察ついでに見てこい』って」
「いいね、行こう。フィアとルーチェも」
「もちろんにゃ!」
「喜んで!」
三人は朝食を片付け、東屋を後にした。
庭園の奥に現れた泉は、驚くほど澄んだ水を湛えていた。
なんでも、地下の水源から新たに湧き出たもので、ベリルが「治療室の水薬に使えるか調査しろ」と言ったらしい。しかし今日は仕事ではない。ユアンは単に、美しい泉を眺めに来ただけだった。
「わあ……すごく綺麗……」
ルーチェが泉の淵にしゃがみ込み、水面に手を触れる。波紋が広がり、陽光を反射してキラキラと輝いた。
「冷たいにゃ!気持ちいいにゃ!」
フィアはさっそく靴を脱いで、泉の浅瀬に足を浸している。その姿を見てエルナが「風邪を引くわよ」と苦笑しつつも、彼女もまた泉のほとりの岩に腰掛けて、足を水につけた。
ユアンは少し離れた場所に座り、三人の様子を眺めていた。
「ユアン先生も入りましょうよ!」
「いや、俺はいいよ。見てるだけで楽しいから」
「だめにゃ!ユアンも一緒がいいにゃ!」
フィアがばしゃばしゃと水をかけながらユアンを呼ぶ。ルーチェが笑い、エルナが「もう、フィアったら」と呆れつつも笑顔だ。
(俺は、こんな日が来るなんて思ってなかった)
ユアンは空を見上げた。青空がどこまでも広がり、白い雲がゆっくりと流れていく。
かつての自分は、いつも誰かの後ろを歩いていた。誰かの傷を癒やし、誰かの空腹を満たし、それでも「ありがとう」の一言すらもらえなかった。無能と呼ばれ、雨の中を追い出され、魔の森で倒れたあの夜――すべてが終わったと思った。
(でも、違った。終わりじゃなかった。ここから始まったんだ)
「ユアン、早くにゃー!」
「ほら、水が冷たくて気持ちいいわよ」
「先生、こっちです!」
ユアンは立ち上がり、泉へと歩き出した。
靴を脱ぎ、そっと足を水に浸す。ひんやりとした感触が、足の裏から全身に広がっていく。
「……冷たいな」
「にゃはは!ユアン、変な顔してるにゃ!」
「先生ったら、意外と子供っぽいですね」
「いいじゃない、たまには」
四人はしばらく、泉のほとりで水をかけ合い、笑い、ただのんびりと時間を過ごした。
やがて日が傾き始め、空が茜色に染まる頃。
四人は泉のほとりに並んで座り、沈みゆく夕日を眺めていた。
「……今日は、本当にいい一日だった」
ユアンはぽつりと呟いた。
「何か特別なことがあったわけじゃない。でも、こんな一日が、俺には一番大事だ」
「うん。私も。ずっとこんな日が続けばいいのにね」
エルナが静かに言う。
「続くにゃ!あたしが保障するにゃ!だってここは魔王城だにゃ。リリス様がいる限り、誰も邪魔できないにゃ」
「リリス様が聞いたら、ちょっと照れそうですね」
「ふふ、そうね」
沈黙が心地よかった。
ユアンは隣に座る三人を、改めて見つめる。
(俺は、この人たちに生かされている。《完全回復》だとか、料理の腕だとか、そんなものは関係ない。ただ、隣にいてくれる。それだけで俺は救われているんだ)
「……みんな」
ユアンは静かに口を開いた。
「俺、ここに来られて、本当によかった。お前たちに出会えてよかった。――ありがとう」
三人は顔を見合わせ、それから一斉に笑った。
「何よ、改まって」
「ユアン先生、それ、今日だけで何回目ですか?」
「にゃー、ユアンは感謝しすぎにゃ!でも、あたしもありがとうにゃ!」
夕日が四人の影を長く伸ばし、泉の水面が金色に輝く。
魔王城のどこかから、夕餉の支度を知らせる鐘が優しく響き渡った。
「さて、そろそろ戻らないと。バルザック料理長が『休みでも味見くらいしろ』ってうるさいんだ」
「あ、それなら私も手伝うわ」
「私も!卵割りの練習、まだ完璧じゃないんです」
「あたしはつまみ食い担当にゃ!」
立ち上がり、服についた草を払いながら、四人は連れ立って城へと戻っていく。
――なんてことのない一日。
けれど、ユアンにとっては何より大切な、かけがえのない一日だった。
かつて「無能」と呼ばれ、雨の中を追放された少年は、今、こんなにも多くの温かさに囲まれている。
ただ回復しかできない自分を、それでも必要だと言ってくれる仲間たちと、今日も彼は生きていく。
ユアンの胸の中には、確かな居場所があった。それは誰にも奪えない、彼だけの宝物だった。




