第20話 協定締結、そして帰還
王宮の大広間に、再び厳かな鐘の音が響き渡る。
つい数時間前まで誘拐されていた男が、今は補佐官として長机の前に立っている。その事実に、ガルム騎士王国側の高官たちは一様に緊張した面持ちだった。自国の城内で使節団の一員が拉致されたのだ。外交問題としては最悪の事態である。
新国王は開式の辞を述べた後、深々と頭を下げた。
「ベリル参謀長、ならびにユアン補佐官。この度の不祥事、すべては我が国の警備体制の不備に起因するものです。過激派の潜伏を見抜けず、使節団の皆様に危険が及んだこと、心よりお詫び申し上げる」
ベリルは無表情でその謝罪を受け止め、それから静かに口を開いた。
「お気持ちはありがたく。しかし、我々が求めるのは謝罪ではなく、再発防止の具体的な措置です。今回の事件で明らかになったのは、貴国内において教会過激派が武装蜂起しうる危険性が現存するという事実。これを放置すれば、協定そのものが絵空事になりかねません」
「……おっしゃる通りです。つきましては、我が国として以下の条件を提示いたします」
国王が側近に目配せすると、一枚の羊皮紙が広げられた。そこには、先ほどまで協議されていた原案にはなかった条項が、いくつも追加されている。
「第一に、国境付近における魔王軍との合同警備部隊の設立。これには我が国から騎士団の一個中隊を恒久的に派遣する。第二に、国内の過激派組織の徹底的な調査と、その結果の魔王軍側への共有。第三に、ユアン殿個人に対する賠償金の支払い。金額は提示額の倍額を用意した。第四に――」
ベリルは黙って羊皮紙を読み進め、内心で小さく舌を巻いた。
(これは……想定以上だ。誘拐事件がなければ、ここまでの譲歩は到底引き出せなかっただろう)
彼女はちらりと隣を見た。ユアンは緊張した面持ちで国王の言葉を聞いている。本人は気づいていないだろうが、彼が攫われ、そして自力で生き延びたという事実そのものが、いま魔王軍に大きな外交的優位をもたらしているのだった。
「――以上が、我が国からの提案です。いかがでしょうか」
ベリルは眼鏡を押し上げ、数秒の間を置いてからうなずいた。
「魔王軍はこの条件を受け入れる。ただし、合同警備部隊の指揮権は相互の協議によって決定すること。過激派の調査結果は、四半期ごとに魔王軍へ報告すること。以上を追加する」
「異存ありません」
こうして、当初の予定よりもはるかに魔王軍側に有利な内容で、不可侵協定は正式に調印された。
ベリルと国王が協定書に署名し、互いに握手を交わす。広間からは盛大な拍手が沸き起こったが、使節団の面々は表向きは平静を装いながら、内心ではしっかりとガッツポーズを決めていた。
(にゃー!これで魔王城の冬の防衛費が五年分浮くにゃ!)
フィアは猫耳をピンと立て、尻尾をぶんぶん振っている。スパイ部隊所属として、こういう数字には敏感なのだ。
(氷魔法の研究予算、増やしてもらえるかもしれないわね。ベリルに相談してみよう)
エルナは協定書の条文を頭の中で反芻しながら、密かに研究計画を練っていた。彼女の実家は貴族だが、研究者としての好奇心は筋金入りだ。
(合同警備部隊に教会の癒やし手を派遣できないかしら。それができれば、もっとたくさんの人の役に立てるのに)
ルーチェは外交文書に教会関連の条項がないか、真剣な表情で確認している。いつの間にか彼女は、教会と魔王軍の橋渡し役を見据えていた。
ベリルは高官たちとの挨拶を終え、使節団のもとへ戻ってくると、声を潜めて言った。
「……全員、ニヤけるな。まだ外交の場だぞ」
「ベリル様こそ、口元が緩んでるにゃ」
「これは顔面筋の痙攣だ」
こうして、ガルム騎士王国との外交任務は、当初の予定をはるかに上回る成果をもたらして幕を閉じた。
転移門をくぐり、魔王城の玉座の間に帰還した使節団を、リリスが玉座から出迎えた。
「――戻ったか。報告を聞こう」
ベリルが協定書を差し出し、調印の経緯と条件、そしてユアン誘拐事件の顛末を簡潔に報告する。リリスは途中、ユアンが拉致されたというくだりで眉をひそめたが、最後まで聞き終えると、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「……ご苦労であった。ベリル、フィア、エルナ、ルーチェ。そなたたちの働きに感謝する」
「もったいなきお言葉です」
「当然のことをしたまでです」
「あたしはユアンを助けたかっただけにゃ!」
「私もです!」
「うむ」
リリスは四人にうなずき、それからユアンの正面に立った。
「ユアン」
「……はい」
「そなたが攫われたと聞いた時、我はこの城ごとガルムに殴り込むことを一瞬だけ考えた」
「リリス様……?」
「だが、思いとどまった。そなたの仲間たちが、必ず助け出すと信じていたからだ。そして実際、そうなった。――よく戻った、ユアン。そなたは我が魔王城の、かけがえのない宝だ」
その言葉に、ユアンの胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとうございます、リリス様。でも、今回の成果はみんなのおかげです。俺はただ、攫われて縛られて、助けてもらっただけですから」
「――いいや、違う」
リリスは首を振り、わずかに口元を緩めた。
「ユアン。そなたの弱さこそが、今回の成果を生んだのだ」
「……え?」
「そなたに戦闘力がないこと。それを敵は『狙いやすい』と見誤った。そなたが弱いからこそ、敵は油断し、我々はその隙を突いて逆に相手を追い詰めることができた。何より――そなたの弱さが、ここにいる全員を動かした」
リリスはユアンの胸にそっと手を置いた。
「フィアが、エルナが、ルーチェが、ベリルが――そして我が、そなたを助けたいと思った。それはそなたが強いからではない。そなたが、誰よりも優しいからだ。その優しさが、周りの者を強くする」
「リリス様……」
「ユアン。そなたは『回復しかできない無能』ではない。そなたの存在そのものが、我々を癒やしている。――わかるか」
ユアンは言葉を返せなかった。ただ、胸に置かれたリリスの手の温もりを感じながら、何度も何度も頷いた。
「あたしも言いたいことがあるにゃ!」
フィアがぴょんと跳ねてユアンの背中に抱きついた。
「ユアンは弱くないにゃ。ユアンがいてくれるから、あたしは思い切り戦えるにゃ。傷ついてもユアンが治してくれる。疲れてもユアンのごはんで元気になれる。――あたしの一番の相棒は、ユアンだにゃ!」
「相棒……」
「私からも言わせて」
エルナが一歩前に出て、まっすぐにユアンを見つめた。
「ユアンが追放された時、私は自分の弱さに負けて、何もできなかった。でも、ユアンはそんな私を許してくれた。それだけじゃない。ここでまた、私の居場所まで作ってくれた。ユアンの優しさがなければ、今の私はいない。私は、ユアンの強さに何度も救われてきたんだよ」
「エルナ……」
「ユアン先生!」
ルーチェが祈るように両手を胸の前で組み、大きな瞳を輝かせた。
「私は今日、初めて自分の聖魔法で誰かの役に立てた気がします。それは先生が『誰かの痛みに寄り添いなさい』って教えてくれたからです。先生の弱さは、誰かの痛みを知る強さです。私は、そんな先生の弟子でいられて、本当に幸せです!」
「ルーチェ……みんな……」
ユアンの目頭が、どんどん熱くなっていく。視界がにじんで、みんなの顔がぼやけて見える。
「おいおい、泣くんじゃない」
最後に口を開いたのはベリルだった。彼女は腕を組み、いつもの冷静な口調で言った。
「ユアン。私は合理的な人間だ。役に立たないものは容赦なく切り捨てる。――お前は役に立っている。それも、誰にも真似できない方法でな。だから胸を張れ。お前は魔王軍にとって、必要不可欠な人材だ」
「ベリル……お前、そういうことはもっと早く言えよ」
「今言った。文句があるか」
ユアンは笑った。涙をぬぐいながら、心の底から笑った。魔王城に来たばかりの頃は、自分がこんなふうに笑える日が来るなんて、想像もしていなかった。
(あの雨の夜、魔の森で倒れた時は、もう終わりだと思ってた。なのに今は――こんなにたくさんの人に、必要とされてる)
ユアンは改めて、仲間たちの顔を見渡した。
猫耳を揺らして笑うフィア。優しい微笑みを浮かべるエルナ。尊敬と愛情のこもった目で見つめるルーチェ。そして、いつも通りの冷静な仮面の下で確かに温かいものを感じさせるベリル。正面には銀髪の魔王が、紅玉の瞳を細めて佇んでいる。
「……みんな、ありがとう。俺は――俺は、ここに来られて本当によかった」
ユアンは深く頭を下げた。声は震えていたが、それはもう悲しみの震えではなかった。
リリスはそんなユアンの頭に、そっと手を置いた。
「礼には及ばぬ。――ところでユアン、そなたがいない二日間、我は甘いものを食べていない」
「……え」
「ふわとろオムライス。待っていた」
「あ、はい。今すぐ厨房に」
「待ちきれぬ。ベリル、報告書は後でいい。フィア、厨房の準備を。エルナは冷蔵庫の在庫を確認しろ。ルーチェは……そうだな、卵を割る練習でもしていろ」
「「「御意!」」」
こうして、魔王城にはいつもの日常が戻ってきた。
ユアンは厨房へと急ぎながら、胸の奥に広がる温かい気持ちを噛みしめていた。
(俺の弱さが、みんなを強くする――か)
リリスの言葉が、心の中で何度も繰り返される。それは、かつて「無能」と呼ばれた自分への、何よりの答えだった。
夕暮れの魔王城に、厨房から美味しそうな匂いが漂い始める。今日もまた、ユアンの作る料理が誰かの空腹を満たし、ユアンの癒やしの力が誰かの傷を癒やしていく。
それは、世界で最も弱いとされた男が、世界で最も強く優しい場所で紡ぐ、かけがえのない日常だった。




