第18話 空白の朝
冷たい石床の上で、ユアンはゆっくりと意識を覚醒させていった。
頭の奥に残る鈍い痛み。自由の利かない両手足。そして、この黴臭い空気。
(……俺は、誘拐されたのか)
ユアンは瞬時に状況を理解した。とはいえ、恐怖は不思議と湧いてこない。パーティー追放のあの日、雨の魔の森で毒蛇に噛まれて死にかけた経験に比べれば、まだ息ができるだけマシだと思えてしまう。我ながら感覚が麻痺しているな、とユアンは内心で苦笑した。
「目が覚めたようだな、白魔術師」
闇の奥から、しわがれた声が投げかけられる。
束の間、魔法灯の明かりが揺らめき、部屋の隅に控えていた人物の姿が浮かび上がった。黒装束に身を包み、顔は布で覆っているが、声の質からして壮年の男だろう。腰には短剣、胸元には何かの魔法具と思しき小さな札が幾枚も貼りつけられている。どうやら、それなりの手練れらしい。
「お前たちは……何者だ」
「名乗る義理はない。ただ、お前にはしばらくここで大人しくしていてもらう。安心しろ、命までは取らん。お前は大事な交渉材料だからな」
「交渉材料……?」
ユアンが眉をひそめると、男は低く笑った。
「今日の正午、魔王軍とガルム騎士王国の間で不可侵協定が調印される。我々はその協定に反対している。魔族と手を組むなど、人類の誇りを穢す行為だ」
「……お前たちは、教会の過激派か」
「察しがいいな。だが、それ以上は訊くな。知らなければ知らないほど、お前は長生きできる」
男は壁にもたれかかり、値踏みするような目でユアンを見下ろした。
「我々は協定調印の場で、ベリルとやらに要求を呑ませるつもりだ。お前の命と引き換えに、魔族領からの完全撤退をな。――だがな、実に好都合だったぞ。お前は戦闘力がゼロだと聞いている。それもそのはず、回復しか能がないからパーティーを追放されたのだろう?我々にとって、これほど扱いやすい人質は他にいない」
ユアンは何も答えなかった。ただ静かに、男の言葉を受け止める。
(回復しか能がない、か)
かつてリオンに浴びせられた言葉と寸分たがわぬ台詞を、今度は見ず知らずの過激派から聞かされるとは思わなかった。だが、あの頃のユアンと今のユアンは違う。あの時はその言葉に打ちのめされ、雨の中を彷徨い、自分は本当に無能なのだと嘆いた。でも今は、そんなことは微塵も思わない。
(俺に戦闘力がないのは事実だ。でも、だからといって俺が無力だってことにはならない)
ユアンの脳裏に、ベリルの冷静な眼差しが浮かぶ。フィアの温かな手。エルナの真摯な謝罪。ルーチェの晴れやかな笑顔。そしてリリスの、「そなたは我の城で誰よりも必要とされている」という言葉。それらが、ユアンの心を静かに支えていた。
(俺は一人じゃない。必ず、誰かが気づく)
ユアンは顔を上げ、黒装束の男をまっすぐに見据えた。その瞳に恐怖の色はなく、ただ静かな確信だけが宿っている。男は一瞬、その眼差しにたじろいだように見えたが、すぐに嘲笑を浮かべて背を向けた。
「せいぜい大人しくしていろ。お前の仲間が賢い選択をすることを祈るんだな」
そう言い残し、男は鉄扉の向こうへと消えた。重い金属音が地下に響き、鍵のかかる音が続く。
ユアンは再び静寂に包まれた部屋で、天井の魔法灯を見上げた。
「……ベリル、フィア、エルナ、ルーチェ。すまない、先にピンチになった」
ユアンは小さく呟き、それから口元をほんの少しだけ緩めた。
「でも、俺は大丈夫だ。お前たちが必ず見つけてくれるって、そんな確信があるから」
同日、午前。王宮の大広間。
調印式を目前に控え、広間の設営は滞りなく進められていた。
長机には正式な協定書が広げられ、ガルム騎士王国の紋章と魔王軍の徽章が燭台の灯りに輝いている。壁際には両国の高官たちが整列し、歴史的瞬間を見届けようと静かに待機していた。
だが、そんな厳かな空気の中で――ベリルはただ一人、違和感を覚えていた。
(ユアンがいない)
補佐官として、調印式の前には打ち合わせがあるはずだった。今朝、自室に呼びに行ったが返事がない。てっきり厨房を借りて朝食の準備でもしているのかと思い、宿の使用人に尋ねたが、誰もユアンを見ていないという。
「……嫌な予感がする」
ベリルが眉をひそめた、その時だった。
「ベリル様ーっ!」
大広間の扉が勢いよく開き、フィアが転がり込むように飛び込んできた。猫耳はぴんと逆立ち、尻尾が膨らんでいる。これは彼女が本気で動揺している時のサインだ。
「ど、どこ探してもいないにゃ!ユアンの部屋、ベッドは使った跡があるけど、本人がいないにゃ!それに、変な匂いがするにゃ。薬草とかじゃない、なんか、こう……甘ったるい、変な匂い……!」
「フィア、落ち着け。変な匂いとはなんだ」
「わかんないにゃ!でも、あたしの鼻は絶対に間違ってない!誰かがユアンの部屋に細工したんだにゃ!」
そこに、息を切らせたエルナとルーチェも駆けつけた。
「ベリル!ユアンが、ユアンが見つからないの!どこにもいない!」
「わ、私も、厨房も治療室も全部回りました!でもユアン先生の姿がどこにも……!」
ベリルの顔から、みるみる表情が消えていく。これは彼女が最大限に冷静であろうとしている時の癖だ。参謀長として、まずは状況を正確に把握しなければならない。
「……フィア、匂いの正体を特定しろ。エルナ、ユアンの部屋に残留魔力がないか調べろ。ルーチェ、お前は迎賓館の全使用人に聞き込みを」
「「「了解!」」」
三人がそれぞれ散っていくのを見送りながら、ベリルは拳をぎゅっと握りしめた。
(私の目を盗んでユアンを攫うとはな。ただの人間ならまだしも、魔王軍四天王である私が同宿しているのに、それを承知で手を出すとは――相手はそれなりの組織か、あるいはよほどの愚か者か)
ベリルは脳裏に、昨日の市場で感じたかすかな違和感を思い返す。あの時は焼き栗に気を取られて深く考えなかったが、確かに誰かの視線を感じた。監視されていたのだ。
「私としたことが、油断した……!」
そこへ、ガルム騎士王国の文官が近づいてきた。
「ベリル参謀長、まもなく調印式のお時間ですが……何か問題でも?」
「…………問題だらけだ」
ベリルは文官を冷たく一瞥し、それからくるりと背を向けた。
「調印式は延期だ。使節団の一員が行方不明になった。これは我々にとって最優先事項だ」
「そ、そんな!しかし、式次第はすでに――」
「人の命に優先する式次第などない。――それとも、ガルム騎士王国は自国の城内で起きた誘拐事件を無視して外交儀礼を優先するのか?」
ベリルの鋭い眼光に、文官は言葉を失った。その迫力は、一国の代表としての責務を負う参謀長のものだったが、それ以上に――仲間を奪われた怒りが、彼女の瞳の奥で静かに燃えている。それは彼女自身も気づいていない、もう一つの感情だった。
その頃、フィアは迎賓館の廊下を全速力で駆け回っていた。
(ユアンの匂い、ユアンの匂い……!)
彼女の鼻は、何百人もの人間が行き交う市場の中からでもユアンの匂いを嗅ぎ分けられる。今はその能力を最大限に発揮し、ユアンが通ったと思われる経路を必死に辿っていた。
「ここ……窓が開いてるにゃ。それに、さっきの甘ったるい匂い……やっぱりこれ、睡眠薬系の魔法薬草だにゃ!」
フィアは窓枠に手をかけ、外の地面を見下ろした。わずかに足跡が残っている。複数人だ。ユアンを担いで運んだのか。
「許さないにゃ……!」
フィアの猫耳が怒りで震えた。
「ユアンを傷つけたら、全員引っかいてやるにゃ!絶対に見つけるにゃ!」
彼女は身軽に窓から飛び降り、足跡を追って走り出した。
エルナはユアンの部屋に立ち尽くし、両手を広げていた。
「氷の精霊よ、この場に残る魔力の痕跡を我に示せ――《霜の追跡》」
彼女の周囲に、かすかな氷の結晶が舞い散る。室内の温度がぐっと下がり、残留していた魔力の残滓が、うっすらと青白く浮かび上がった。
「これは……これは、聖属性の魔力……?それに、別の系統も混じっている。教会の封印術と、暗部で使われる隠密魔法の複合……!」
エルナは唇を噛んだ。
「やっぱり、ユアンを攫ったのは教会関係者だ。でも、なぜユアンを?ただのヒーラーじゃないか。それとも――《完全回復》の力が狙われたの……?」
考えれば考えるほど、胸の奥に冷たい不安が広がっていく。何者かがユアンを狙っている。その事実が、エルナの心を激しく揺さぶっていた。
「今度こそ――今度こそ、私はユアンを守るんだ。あの日の償いを、ここで必ず果たしてみせる」
彼女は魔導書を胸に抱え、部屋を飛び出した。
ルーチェは迎賓館の使用人控え室で、必死に聞き込みを続けていた。
「誰か、夜中に不審な物音や人影を見なかった人はいませんか?どんな些細なことでも構いません!」
「ああ、そういえば……」
年配のメイドが、不安そうに口を開いた。
「夜明け前に、見慣れない荷馬車が裏口に停まっていましたよ。でも、業者の方かと思って、特に気にも留めず……すみません」
「荷馬車!どちらの方角に向かったかわかりますか?」
「ええと……多分、旧市街の方角に」
ルーチェはメイドに深く礼を言い、駆け出した。
(ユアン先生、どうかご無事で……!私、まだ教わりたいことがたくさんあるんです。だから、だから――!)
彼女の胸に、聖女見習いとしての祈りが宿る。それはもう、「聖女の再来」と呼ばれていた頃の虚ろな祈りではない。今のルーチェには、ただ一人の大切な人を想い、その人のために祈るという、真の祈りの意味がわかっていた。
――ユアン先生、必ず見つけます。私、あなたの弟子ですから!
大広間に戻ったベリルは、三人からの報告を集約し、一枚の地図を広げた。
「旧市街か。古い教会や廃墟が多く、潜伏には適しているな」
「ベリル様、あたしが匂いを追うにゃ!」
「私も行く。魔力の痕跡なら追跡できる」
「私もです!絶対にユアン先生を助け出します!」
ベリルは三人の顔を順番に見て、それから小さくうなずいた。
「いいだろう。――ただし、これは救出作戦だ。相手はおそらく教会過激派。聖属性魔法を使う可能性が高い。魔族の私とフィアは抵抗があるから、前衛はエルナとルーチェに任せることになる」
「「了解!」」
「それから、これだけは覚えておけ」
ベリルは眼鏡を押し上げ、氷のような声で言った。
「ユアンを傷つけた者は、私が直々に処分する。お前たちに遠慮はさせない」
「…………」
「どうした、黙って」
「いえ、ベリル様がそこまで怒るの、初めて見たにゃ」
「うるさい。行くぞ」
使節団の四人は、地図を片手に王宮を飛び出した。
調印式は延期。外交も何もあったものではない。今はただ、奪われた仲間を取り戻す――それだけが、彼女たちのすべてだった。




