第16話 騎士王国にて
ガルム騎士王国の王都へ足を踏み入れた使節団は、王宮の西翼にある迎賓館へと案内された。
「すごいにゃ!ベッドがふかふかにゃ!」
扉を開けるなり、フィアは部屋の中央に鎮座する天蓋つきの寝台めがけて飛び込んだ。羽毛布団がふわりと膨らみ、猫耳がぴこぴこと喜びに震える。壁には金箔をあしらった風景画がかかり、窓辺には騎士王国らしく甲冑を模した燭台が置かれている。魔王城の重厚な石造りとは趣の異なる、華やかで開放的な意匠だった。
「はしゃぐな、フィア。いつ襲撃があるかわからんぞ」
ベリルは大鎌を壁に立てかけ、手早く部屋の隅々を調べ始めた。窓の鍵を確認し、ベッドの下を覗き込み、燭台の裏に細工がないかまで点検する。その手際は完全に戦闘モードの参謀長だった。
「襲撃なんて、そんな物騒な……平和そうな国に見えるけど」
エルナが窓から王都の街並みを眺めながら言う。眼下には石畳の大通りが伸び、色とりどりの屋台が軒を連ねている。人々のざわめきと、どこからか漂う香辛料の匂い。戦乱とは無縁の、のどかな風景だった。
「だからこそ、気を抜くな。和平を望む勢力がいれば、それを快く思わない勢力も必ずいる」
ベリルの言葉に、ルーチェが緊張した面持ちでこくりと頷いた。そんな空気を変えるように、ユアンが明るい声を上げる。
「でも、せっかくの遠征です。部屋にこもって警戒しているだけじゃ息が詰まりますよ。調印式は明日でしょう?今日くらい、少し街を見てきませんか」
「……何かあったらどうする」
「外交も、相手を知ることから始まると思います。街の空気や、人々の暮らしぶりを知るのも立派な情報収集ですよ、参謀長」
「…………」
ベリルが無言で眼鏡を押し上げる。これは彼女が押し切られた時の癖だ。ユアンもそろそろ覚えてきた。
「……三時間だけだ。全員、私から離れるな。以上」
「「「はい!」」」
「にゃー!」
こうして、魔王軍使節団の面々は王都の市場へと繰り出すことになった。ベリルは大鎌を置き、代わりに護身用の短剣を外套の下に忍ばせている。ユアンは白魔術師のローブ、エルナは旅慣れた魔導師の外套、ルーチェは修道服、フィアはメイド服の上に猫耳を隠すためのフードつきマントという、いかにも雑多な一行である。
王都の大市場は、想像以上に賑わっていた。
東西に伸びる大通りの両側には色とりどりの天幕が張られ、野菜、果物、香辛料、布地、工芸品と、あらゆる商品が所狭しと並んでいる。主婦らしき女性が籠を抱えて値切り交渉に興じ、子供たちが石畳の上を走り回り、鍛冶屋の槌音が小気味よく響く。活気に満ちた人の熱気が、市場全体を包み込んでいた。
「これは……すごいな」
ユアンは目を輝かせ、露店を一つひとつ覗き込んでいく。
魔王城でも様々な食材を目にしてきたが、ここは人間の国だ。見慣れた野菜や果物が、まるで懐かしい友人のようにユアンを迎えてくれる。
「――あっ」
ユアンの足が、ぴたりと止まった。
その視線の先には、真っ赤に熟したトマトの山。そして、その隣には――。
「これ……まさか、完熟トマトと香味野菜のセット。それに、こっちは砂糖漬けの果実に……もしかして、ケチャップが作れる!?」
「けちゃっぷ……?」
フィアが小首をかしげる。
「オムライスに欠かせない調味料だよ。魔王城では似たようなものが手に入らなくて、ずっと代用品で誤魔化してたんだ。でもここなら材料が全部揃う。――すみません、このトマト全部ください!」
「へい、毎度あり!」
ユアンが嬉々として買い物に興じる隣では、フィアが串焼き屋台の前で目をキラキラさせている。
「にゃー!これ、お肉がじゅわってしてて、タレが甘辛くて、めちゃくちゃ美味しいにゃ!」
「フィア、もう三本目だぞ。よくそんなに入るな」
「だって美味しいんだもんにゃ!ユアンも食べてみるにゃ?」
「……一本もらおうかな」
串焼きを受け取りながら、ユアンはふと通りを振り返った。
少し離れた古書店の前では、エルナが立ち止まっている。埃っぽい木箱に無造作に積まれた古書の山から、一冊の魔導書を手に取り、真剣な表情でページをめくっていた。氷属性の古代魔法について書かれた稀覯本らしい。店主らしき老人と何やら話し込み、値段交渉を始めている。かつてのエルナなら、こういう時でも誰かの顔色を窺ってばかりだったが、今は違う。彼女は自分の意思で、自分の道を歩いている。
その隣の広場では、ルーチェが子供たちに囲まれていた。
「お姉ちゃん、聖女様なの?」
「聖女様にお祈りしてもらったら、うちのおばあちゃんの腰も治るかなあ」
「私、お祈りならできるよ。でも、本当の癒やしはね、祈るだけじゃ足りないんだ。誰かの痛みに寄り添って、その人のために何ができるか考えること。それが大事なんだって、最近教わったの」
ルーチェはそう言って、子供たちの頭にそっと手を置き、祝福の祈りを捧げた。教会式の所作だが、その言葉はユアンの教えそのものだった。子供たちはきゃっきゃと笑い、ルーチェの修道服の裾にじゃれついている。
ユアンはその光景を、少し離れた場所から見守っていた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(みんな、それぞれの場所で前に進んでるんだな。フィアは新しい味に出会って、エルナは自分の知識を広げて、ルーチェはもう立派に癒やし手の顔だ。それに――ベリルも)
露店の軒先、人混みを避けるように立つベリルは、手にした紙袋から焼き栗を取り出し、ひとつ口に放り込んだところだった。
「……悪くない」
「あ、ベリル、焼き栗なんて買ってたんですか」
「…………これは情報収集だ」
「焼き栗で?」
「ガルムの農作物の生育状況を知ることは、この国の国力を見極める上で重要だ」
「それ、ただ食べたいだけの言い訳ですよね」
「うるさい。お前も食べろ」
ベリルは照れ隠しのように、ユアンの手のひらに焼き栗を二つ押しつけた。まだほのかに温かいそれは、素朴な甘みが口の中に広がる。確かに、悪くない。
「そういえば、エルナが呼んでましたよ。あの古書店、いい本があるらしいです」
「……仕方ないな。後で覗いてみるか」
「ベリルも本が好きなんですね」
「うるさい」
そう言いながらも、ベリルの足はもう古書店に向かっている。ユアンは小さく笑い、フィアに声をかけた。
「フィア、そろそろ時間だ。みんなを集めて宿に戻ろう」
「はーい、にゃ。あ、でもこの串焼きあと三本食べたいにゃ」
「……お前、本当に細い身体のどこに入ってるんだ」
「全部筋肉に変換されてるにゃ!……たぶん!」
「たぶん、か」
ユアンはフィアの頭をぽんと撫で、それからエルナとルーチェのもとへと歩き出した。
賑やかな市場のざわめき。串焼きの煙。古書店の紙の匂い。子供たちの笑い声。
それは、魔王城とはまた違う、穏やかで平和な時間だった。
だからこそ――ユアンは気づかなかった。
市場の片隅、古びた井戸の陰。
「…………あの白いローブの男が、"本物"だな」
黒装束に身を包んだ三人の男たちが、使節団の後ろ姿をじっと見つめている。顔は布で覆われ、腰には不自然な膨らみ――おそらく短剣か、魔法具か。
「間違いない。リリスを癒やした人間のヒーラー。《完全回復》の使い手だ」
「教会の連中が嗅ぎつける前に、確保しろ。ただし、表で動くな。連れが魔族の四天王だ。面倒なことになる」
「……了解」
男たちは物陰に溶け込むように姿を消した。
市場は変わらず賑わっている。串焼きの煙が風に流れ、子供たちの笑い声が響き、焼き栗の香ばしい匂いが漂っている。
使節団の一行は、街の平穏を満喫しながら、ゆっくりと迎賓館への道を歩いていた。ユアンは買い込んだトマトを抱え、フィアは最後の串焼きに齧りつき、エルナは買ったばかりの魔導書を大事そうに胸に抱き、ルーチェは子供たちに手を振り、ベリルは焼き栗の紙袋を手にどこか満足げである。
その背後に、暗い影が忍び寄っていることには――誰も、まだ気づいていなかった。




