第14話 仲間に
玉座の間から退出したユアンは、エルナを連れて城の西翼にある厨房へと向かった。夕食の仕込みにはまだ早い時間で、厨房にはバルザックだけが一人、夜の賄いに向けて下ごしらえをしている。
「おう、ユアン。そっちは……ああ、氷の嬢ちゃんか」
バルザックは大鍋をかき混ぜる手を止め、エルナをちらりと見やった。その視線には警戒心よりも、どことなく値踏みするような色がある。
「料理長、彼女がしばらく厨房を手伝いたいそうで」
「へえ。氷魔法が使えるんだってな。冷蔵に使えるなら悪くねえが……まあ、まずは包丁の握り方からだな」
「包丁……?」
エルナが戸惑いの声を上げる。バルザックは太い腕を組み、にやりと笑った。
「厨房に立つ以上、戦闘魔法より先に覚えることが山ほどあるんだよ。――ユアン、てめえも教えろよ。どうせお前が連れてきたんだ、責任取れ」
「はいはい」
ユアンが軽く手を上げて答えると、バルザックは満足げにうなずき、再び大鍋へと向き直った。
厨房の片隅に設えられた小さな作業台の前で、ユアンはエルナと向き合った。棚の上では薬草の束が乾燥され、壁にはバルザック秘伝の調味料が並んでいる。誰にも邪魔されない、二人きりの時間だった。
「それで、エルナ。改まって話したいことって」
ユアンの言葉に、エルナは深く息を吸った。それから両手を腿の上でぎゅっと握りしめ、頭を深く下げる。
「……ユアン。改めて、ごめんなさい。あの時、あなたがリオンに追放された時、私は何もできなかった。あなたがどれだけパーティーを支えてくれていたか知っていたのに、勇気を出せなかった。あなたの料理も、野営の準備も、装備の手入れも、全部あなたに甘えていたのに――私は、あなたを失ってから初めて、自分がどれほど酷いことをしたのか思い知ったの」
「エルナ……」
「毒沼で、みんなが倒れて、自分も死ぬかもしれないと思った時、真っ先に浮かんだのはあなたの顔だった。今さら都合が良すぎるって、自分でもわかってる。でも――それでも、私は」
エルナは顔を上げ、涙で濡れた瞳でユアンをまっすぐに見つめた。
「私は、あなたに謝りたかった。それから……もし許されるなら、ここで、あなたの力になりたい」
「ここで?」
「はい。私の氷魔法は、戦闘だけじゃなくて、色々なことに使えると思う。厨房の冷蔵も、治療室の解熱も、暑さ対策だって。だから……お願いします。ここで働かせてください」
エルナはもう一度、深く頭を下げた。
その姿を、ユアンは静かに見つめていた。
彼女がどれほど追い詰められていたか、今の言葉の一つひとつで伝わってくる。毒沼で仲間が倒れ、自分の魔力も尽きかけ、死の淵でユアンに念話を送ったあの日のこと。彼女はあの瞬間からずっと、この謝罪を胸に抱えて生きてきたのだ。
「……顔を上げてくれ、エルナ」
ユアンは穏やかな声で言った。
「俺はもう、あの日のことは気にしていない。お前があの時かばおうとしてくれたこと、それだけは本当だ。それに、リオンに逆らえなかったのは、お前だけのせいじゃない。俺だって、もっと早く自分の意見を言えていたら、何か違ったかもしれない」
「ユアンは悪くない……!」
「そうだな。誰が悪いかって話でもないんだ、きっと」
ユアンは作業台にもたれかかり、天井を見上げた。
「だから、エルナ。お前がここで働きたいっていうなら、俺は歓迎する。ただし――最終的に決めるのはリリス様だ。魔王様に聞いてみないとわからないけど、それでもいいか?」
「……はい。それで、十分です」
エルナの顔に、ふわりと安堵の色が広がった。
それは毒沼で見せた苦しげな表情でもなければ、追放の日に見せた怯えた顔でもない。初めて見せる、心からの安堵の笑みだった。肩の力が抜け、長い間抱え続けてきた重荷が、少しだけ軽くなった――そんな顔だった。
「……ありがとう、ユアン。本当に、ありがとう」
「まだ何もしてないさ。リリス様の許可が出てからだな」
ユアンは照れくさそうに笑い、それからふと思い出したように付け加えた。
「あ、でも、厨房に立つならバルザック料理長の洗礼は覚悟しろよ。俺も最初はすごい顔で睨まれたからな」
「……が、頑張ります」
エルナが小さく身をすくませた、その時だった。
「――お取り込み中のところ、すまない」
厨房の入り口から聞こえたのは、聞き覚えのある少女の声だった。
ユアンが振り返ると、そこに立っていたのはルーチェだった。修道服の汚れはすっかり落とされ、栗色の髪も丁寧に梳かされている。顔色も良く、毒沼での憔悴はもう見られない。しかし、その大きな瞳には、何か強い決意の光が宿っていた。
「ルーチェ……?お前、リオンたちと一緒に転移門をくぐったんじゃ」
「一度はくぐりました。でも、どうしても伝えたいことがあって、引き返してきたんです」
ルーチェは真っ直ぐにユアンの前まで歩いてくると、修道服の裾をつまみ、深々と頭を下げた。
「ユアン様。私を――あなたの弟子にしてください」
ユアンは目を丸くした。隣のエルナも驚いたように口を開けている。
「……弟子、って」
「私は、教会で『聖女の再来』と呼ばれてきました。聖魔力量が高いから、というだけの理由で。でも、毒沼で思い知ったんです。私はただ魔力が多いだけの、何もできない見習いだって」
ルーチェは顔を上げ、真摯なまなざしでユアンを見つめた。
「呪いは浄化できても、傷は癒やせない。毒は消せても、失われた血は戻せない。私の力は、目の前で苦しむ仲間を、何ひとつ救えなかった。そんな私が、聖女の再来なんて、おこがましいにもほどがある」
「ルーチェ……」
「でも、あなたの《完全回復》を見て、わかったんです。これが、私が追い求めてきた『癒やし』の本当の姿だって。ユアン様、あなたのようになりたい。誰かの痛みに寄り添い、本当の意味で救える癒やし手になりたいんです」
ルーチェはもう一度、深く頭を下げた。
「お願いします。私を、あなたの弟子にしてください」
厨房に、沈黙が落ちた。
大鍋の煮える音だけが、こぽこぽと静かに響いている。バルザックは背中を向けたまま何も言わないが、その耳がこちらに向いているのをユアンは気づいていた。
エルナもまた、固唾をのんで二人を見守っている。
ユアンはしばらく考え込んでいた。腕を組み、目を閉じて、ルーチェの言葉を頭の中で反芻する。
(俺の弟子、か。俺はまだ、たかが十七だ。誰かに教えられるような立場じゃない。でも――)
ユアンは目を開け、ルーチェを見た。
彼女の大きな瞳は、不安と期待で揺れている。毒沼で見せた絶望の色はもうない。代わりにあるのは、何かを掴み取ろうとする強い意志だった。
かつての自分と同じだ。無能と言われ、必要とされず、それでも「誰かの役に立ちたい」と願い続けたあの頃の自分と――ルーチェは、同じ目をしている。
「……ルーチェ」
「はい」
「俺はまだ十七だ。人に教えられるような経験も、知識も、何も持っていない。それでもいいなら」
「――!」
「俺でよければ、一緒に学ぼう。《完全回復》の理屈は俺にしかわからない部分も多いけど、それ以外の回復魔法や薬草の知識なら、教えられることもあるかもしれない。それに――誰かのために何かをしたいっていう気持ちは、誰かに教わるものじゃない。お前はもう、それを持っている。それだけで十分だ」
ルーチェの瞳が、見る見るうちに潤んでいく。
「それじゃあ……!」
「ああ。正式に、俺の弟子第一号だ。といっても、俺が教えられるのは回復魔法と、ついでに料理くらいだけどな」
「料理も教えてください!私、実は料理は全然だめで……修道院でもよく鍋を焦がしては怒られて……」
「それは前途多難だな」
ユアンが笑うと、ルーチェの顔がぱあっと輝いた。涙を浮かべながらも、その笑顔は晴れやかで、毒沼で見せたどの表情よりも眩しかった。
「ありがとうございます、師匠……!いえ、ユアン師匠……!」
「師匠はやめてくれ。ただのユアンでいい」
「じゃあ、ユアン先生で!」
ルーチェは飛び跳ねるように喜び、それから思い出したようにエルナの方を向いた。
「エルナさん!私、頑張りますね!」
「……うん。私も、ここで働けるように頑張るわ」
「え、エルナさんもここに残るんですか?じゃあ、一緒ですね!」
「そう、なるわね」
エルナが戸惑いがちにうなずくと、ルーチェはますます嬉しそうに笑った。
その様子を見ていたバルザックが、太い腕を組みながらぼそりと呟く。
「……厨房がますます賑やかになりそうだな。ユアン、てめえの弟子と元仲間の面倒はてめえで見ろよ」
「もちろんです、料理長。――と、いうわけで、エルナ。まずはリリス様に正式に許可をもらいに行こう。ルーチェも、教会に戻る前にリリス様に挨拶しておけよ。ここに出入りする以上、魔王様に顔を覚えてもらうのが先だ」
「は、はい!緊張するけど、頑張ります!」
「教会に戻るの、ちょっと怖いけど……でも、きちんと手続きしてくるわ。勝手にいなくなったら、修道院長に怒られちゃうし」
ルーチェは名残惜しそうにしつつも、大きくうなずいた。
「それじゃあ、行こうか」
ユアンはエルナとルーチェを連れ、厨房を後にした。
廊下に出ると、窓から差し込む夕日が、三人の影を長く伸ばしている。つい半月前までは、ひとりで雨に打たれていたユアンの背中に、今は二つの影が寄り添っていた。
これから先、どんな困難が待ち受けているかはわからない。リオンの行方も、教会の闇も、そしてこの世界に潜む「呪いの根源」のことも、まだ何も解決していない。
けれど――少なくとも今は、前に進める。
自分を必要としてくれる人たちと、自分が必要としたい人たちと、一緒に。
「ユアン先生、リリス様に挨拶したら、私の治療も見てくれますか?」
「俺も厨房の案内、ちゃんと全部してほしい。あと、バルザック料理長にお願いする時のコツとかある?」
「え、エルナさんも料理長に弟子入りするんですか?一緒ですね!」
「え、いや、私は氷魔法で冷蔵を……」
廊下の向こうから、魔王城の夕餉を知らせる鐘が鳴り響く。
ユアンは二人のやりとりを聞きながら、静かに笑った。
――俺の居場所は、ここだ。
それはもう、疑いようのない事実だった。




