第九話 君を残して
「迎えに来たのは――相沢悠人だ」
死神の言葉が中庭に響いた。
誰も声を出せなかった。
風だけが吹いている。
結衣の顔から血の気が消えていた。
「……嘘」
かすれた声だった。
「そんなの嘘です」
死神は答えない。
ただ静かに俺を見ている。
「病院の肉体は限界だ」
低い声が夜に溶ける。
「君の命は今夜尽きる」
俺は不思議なほど冷静だった。
驚きはあった。
恐怖もあった。
だがどこかで覚悟していたのかもしれない。
夕凪荘へ来た時から。
住人名簿に自分の名前を見た時から。
薄々気付いていた。
自分もまた、この場所の住人なのだと。
「嫌です!」
結衣が叫んだ。
初めて聞く声だった。
悲鳴のような。
泣き声のような。
「そんなの嫌!」
死神へ駆け寄る。
だが触れることはできない。
手がすり抜ける。
「やっと会えたのに!」
涙が溢れる。
「やっと思い出したのに!」
死神は静かだった。
残酷なほどに。
「運命は変わらない」
その一言だけだった。
その夜。
俺は眠れなかった。
縁側に座る。
月が綺麗だった。
しばらくして隣に誰かが座る。
結衣だった。
泣き腫らした目。
でももう涙は出ていなかった。
「起きてたんだ」
俺が言う。
「うん」
結衣は頷く。
沈黙。
虫の声だけが聞こえる。
やがて彼女が呟いた。
「覚えてる?」
「何を」
「高校の時」
少し笑う。
「私、全然モテなかった」
「嘘つけ」
「本当だもん」
「男子全員お前のこと見てたぞ」
結衣は吹き出した。
久しぶりに見た笑顔だった。
「悠人くんは?」
「俺?」
「好きな人いたじゃん」
俺は苦笑した。
「いたな」
「誰?」
「目の前にいる」
結衣は固まった。
数秒後。
顔を真っ赤にする。
「今さら!?」
「今さらだな」
二人で笑った。
不思議だった。
あと少しで別れなのに。
悲しいはずなのに。
今だけは幸せだった。
夜中を過ぎた頃。
結衣が小さく言った。
「ねえ」
「ん?」
「生きて」
胸が痛んだ。
「私の分まで」
「結衣……」
「約束」
彼女は笑う。
高校時代と同じ笑顔だった。
「今度は守って」
その言葉を聞いた瞬間だった。
どこかで何かが引っ掛かった。
違和感。
記憶。
忘れている何か。
そして突然――
思い出した。
事故の最後を。
トラックが迫る。
雨。
ブレーキ。
衝撃。
そして。
俺は見ていた。
結衣が俺を庇ったのではない。
違う。
俺が結衣を庇ったのだ。
ハンドルを切った。
自分から。
結衣を守るために。
それなのに。
なぜ記憶が逆になっていた?
なぜ結衣は勘違いしていた?
いや。
違う。
勘違いではない。
誰かが記憶を書き換えた。
意図的に。
「まさか……」
俺は立ち上がる。
結衣が驚く。
「どうしたの?」
その時だった。
中庭の時計が鳴った。
ゴーン――
ゴーン――
十二回。
そして。
夕凪荘全体が揺れた。
地震のように。
住人たちが部屋から飛び出してくる。
空が割れていた。
夜空に巨大な亀裂が走っている。
誰も見たことのない光景。
佐伯さんが青ざめる。
「始まった……」
「何が?」
俺は叫ぶ。
大家は震える声で答えた。
「選別だよ」
選別。
その言葉に住人たちがざわめく。
結衣も顔を強張らせる。
そして空の裂け目の向こうから。
無数の黒い影が現れた。
人の形をしている。
だが顔がない。
目もない。
口もない。
ただ深い闇だけ。
死神が現れる。
今度は一人ではなかった。
十人。
百人。
いや、それ以上。
「悠人くん」
結衣が震える。
俺は彼女の手を握った。
冷たい。
でも確かに存在している。
その時。
死神たちの中心から声が響いた。
「管理人、相沢悠人」
空間そのものが震える。
「お前に選択を与える」
俺は息を呑む。
「生へ戻るか」
死神の群れが揺れる。
「彼女と共に消えるか」
結衣の手が震えた。
俺も言葉を失う。
そして理解した。
本当の試練は今から始まるのだと。
俺が生き返れば。
結衣とは永遠に別れる。
だが結衣を選べば。
俺もまた、この世界から消える。
死神は静かに告げた。
「選べ」
月が雲に隠れた。
世界は深い闇に包まれる。
その中で俺は初めて知る。
夕凪荘が存在する本当の理由を――。




