第七話 桜の下の約束
「私の……初恋の人です」
結衣の言葉が頭の中で何度も繰り返された。
談話室へ戻っても。
自室へ戻っても。
眠ろうとしても。
ずっと。
俺は結衣の初恋の相手らしい。
だが何も思い出せない。
会った記憶もない。
好きになられた記憶もない。
なのに。
胸の奥が妙に苦しかった。
まるで忘れてはいけない何かを失くしているようだった。
翌日。
結衣は朝から落ち着かなかった。
「思い出せそうなんです」
食卓でそう言った。
「何を?」
「約束」
彼女は胸に手を当てる。
「あと少しで届きそうなんです」
俺は頷いた。
なら今日は、その記憶を探しに行こう。
向かった先は高校だった。
あの桜の木の下。
結衣が記憶を取り戻しかけた場所。
放課後の校庭は静かだった。
風が吹く。
桜の葉が揺れる。
結衣はゆっくりと木に近づいた。
そして幹に触れる。
その瞬間。
世界が揺れた。
俺の視界も一緒に引きずり込まれる。
また記憶だ。
今度は鮮明だった。
制服姿の結衣。
少し照れた顔。
そして目の前には――
高校生の俺。
間違いなかった。
若い頃の俺だった。
『絶対だよ?』
結衣が言う。
『うん』
『忘れない?』
『忘れるわけないだろ』
二人で笑う。
夕陽が校庭を赤く染めている。
『十年後も』
結衣が小指を差し出した。
『ここで会おうね』
俺はその指に自分の指を絡めた。
『約束する』
その瞬間。
記憶が途切れた。
俺は膝をついていた。
荒い呼吸。
汗が止まらない。
結衣も涙を流していた。
「思い出した……」
震える声。
「約束……」
彼女は空を見上げる。
「十年後」
涙が頬を伝う。
「ここで会う約束だった」
俺も思い出した。
断片だけ。
全部ではない。
でも確かにいた。
雨宮結衣という少女が。
俺の高校時代に。
夕方。
夕凪荘へ戻る途中だった。
結衣は珍しく静かだった。
しばらく歩いたあと、不意に言った。
「嬉しいです」
「何が?」
「忘れられてなかった」
少し笑う。
でもその笑顔は寂しかった。
「私、本当にいたんですね」
胸が痛んだ。
存在していた証明。
それを欲しがるほど、彼女は長い間孤独だったのだ。
「当たり前だろ」
俺は言った。
「結衣はここにいる」
彼女は立ち止まる。
そして小さく首を振った。
「違うんです」
「え?」
「私、もう死んでるから」
その言葉に何も返せなかった。
結衣は空を見る。
夕焼けが瞳に映る。
「管理人さん」
「うん」
「もし全部思い出したら」
彼女は少しだけ笑った。
「私、消えちゃうのかな」
風が吹いた。
返事ができなかった。
その夜。
佐伯さんが一枚の古いアルバムを持ってきた。
「これを見なさい」
中には夕凪荘の昔の写真があった。
住人たちの写真。
若い頃の佐伯さん。
知らない人々。
ページをめくる。
そして最後のページで手が止まった。
そこには一枚だけ新しい写真が挟まれていた。
病院のベッド。
眠る青年。
無数の管。
心電図モニター。
その写真の裏にはこう書かれていた。
――相沢悠人
俺の全身から血の気が引いた。
「なんで……」
写真の日付を見る。
今年だった。
今年。
つまり今。
「これ……俺?」
佐伯さんは静かに頷く。
「そうだよ」
部屋が静まり返る。
時計の音だけが響く。
「悠人くん」
佐伯さんは悲しそうに笑った。
「君は今も病院で眠っている」
言葉の意味が理解できなかった。
「え……」
「夕凪荘はね」
窓の外を見る。
夜空の向こう。
生者の世界を見つめるように。
「生と死の狭間にある場所なんだよ」
俺は声を失った。
そして初めて理解する。
なぜ住人名簿に自分の名前があったのか。
なぜ死神が現れたのか。
なぜ結衣の記憶に自分がいたのか。
だが。
本当に恐ろしい真実はまだ先に待っていた。
写真の隅には、もう一つの名前が記されていた。
事故当日の搬送者。
相沢悠人。
雨宮結衣。
同乗。
その文字を見た瞬間。
俺の失われた記憶が激しく軋み始めた。




