第六話 死神からの手紙
『思い出してはいけない』
その文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
差出人――死神。
ふざけた悪戯には見えない。
紙は古びていた。
まるで何十年も前から存在していたような質感だった。
俺は封筒を握り締める。
「なんなんだよ……」
誰に向けた言葉なのか。
俺か。
それとも結衣か。
眠れない夜になった。
翌朝。
談話室へ行くと、結衣が珍しく元気がなかった。
いつもなら笑顔で飛びついてくる。
だが今日は違う。
テーブルに頬杖をつき、ぼんやり窓の外を見ていた。
「おはよう」
声をかける。
結衣は小さく笑った。
「おはようございます」
無理をしている笑顔だった。
「昨日のこと考えてたのか」
彼女は黙って頷く。
そして呟いた。
「私、誰かを待ってたんですよね」
「たぶん」
「約束したんですよね」
「たぶんな」
結衣は拳を握る。
「だったら思い出したいです」
その瞳には強い意志があった。
「怖くても」
「辛くても」
「私、自分が誰だったか知りたい」
俺は少しだけ安心した。
昨日までの結衣なら、きっと記憶から逃げていた。
でも今は違う。
前を向こうとしている。
その日の午後。
佐伯さんに呼び出された。
管理人室だった。
古い木の机。
古時計。
壁には住人たちの写真が飾られている。
「悠人くん」
佐伯さんは真剣な顔だった。
「聞きたいことがある」
「何ですか」
「君は最近、昔の夢を見ないかい?」
心臓が跳ねた。
実は見ていた。
何度も。
雨の夢。
病院の夢。
誰かの泣き声。
だが肝心な部分だけが思い出せない。
「あります」
正直に答える。
すると佐伯さんは深く息を吐いた。
「そうか」
「何か知ってるんですか?」
大家は窓の外を見た。
しばらく黙る。
そして静かに言った。
「夕凪荘はね」
初めて聞く声だった。
優しくて。
少し悲しい声。
「死者だけの場所じゃない」
「え?」
「生者でもない者が来る場所なんだ」
意味が分からなかった。
「それって」
「今はまだ知らなくていい」
佐伯さんは話を打ち切った。
だが、その表情はどこか怯えているようにも見えた。
その夜。
事件は突然起きた。
夕食の後だった。
談話室で住人たちとテレビを見ていると、外から悲鳴が聞こえた。
「きゃあああっ!」
結衣の声だった。
俺は飛び出した。
中庭。
月明かりの下。
結衣が地面に倒れている。
そして目の前には――
黒いコートの男。
死神。
住人たちは誰も近づけない。
ただ震えている。
死神は結衣を見下ろしていた。
「期限が近い」
低い声が響く。
「思い出してはならない」
結衣は睨み返した。
「嫌です」
「忘れなさい」
「嫌です!」
死神の周囲の空気が歪む。
夜なのに風が吹き荒れた。
俺は咄嗟に結衣の前へ立った。
「やめろ!」
死神の視線が俺に向く。
冷たい。
人間ではない目だった。
「管理人」
「結衣に何をする気だ」
数秒の沈黙。
やがて死神は言った。
「真実は彼女を壊す」
「だから記憶を封じている」
俺は息を呑む。
やはり何か知っている。
結衣の死について。
だが死神は続けた。
「お前も同じだ」
「え?」
「悠人」
初めて名前を呼ばれた。
「思い出せば、お前も壊れる」
その言葉と同時に。
頭の奥で何かが弾けた。
病院。
白い天井。
機械音。
誰かが泣いている。
ベッド。
そして。
『起きて』
少女の声。
『約束したじゃない』
結衣の声だった。
「――っ!」
激痛が走る。
膝をつく。
記憶が流れ込む。
だが最後まで見えない。
何かが邪魔している。
死神は静かに告げた。
「時が来れば分かる」
そう言うと。
月明かりの中へ溶けるように消えた。
誰も動けなかった。
静寂だけが残る。
その時だった。
結衣が震える指で俺を指した。
顔色が真っ青だった。
「思い出した……」
「何を?」
俺が尋ねる。
結衣の瞳から涙が溢れた。
「私……」
声が震える。
「私……あなたを待ってた」
世界が止まったような気がした。
そして彼女は次の言葉を口にする。
「悠人くんは……」
「私の初恋の人です」
その瞬間。
夕凪荘の時計が十二時を告げた。
ゴーン。
ゴーン。
まるで運命が動き出した合図のように。




