第五話 記憶の中の名前
――悠人。
確かに聞こえた。
それは俺自身の名前だった。
中庭のブランコが風に揺れる。
結衣も俺も動けなかった。
「今の……」
結衣が震える声で言う。
「見えたんですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
雨。
交差点。
誰かの叫び声。
そして俺の名前。
だが、それ以上は思い出せない。
まるで途中で映像を切り取られたようだった。
「どういうことだ……」
俺は頭を押さえた。
結衣の記憶になぜ俺がいる。
俺は彼女と会ったことなどない。
少なくとも覚えている限りでは。
「管理人さん」
結衣が不安そうに俺を見る。
「私たち、本当に初対面ですか?」
その質問に答えられなかった。
翌日。
朝食の席で俺は佐伯さんに昨夜のことを話した。
すると大家は意外にも驚かなかった。
「そうかい」
「そうかい、じゃないですよ」
俺は身を乗り出す。
「幽霊の記憶が見えたんですよ」
「たまにある」
「たまにあるの!?」
佐伯さんは味噌汁をすすった。
「管理人は住人と深く関わる存在だからね」
「だからって」
「記憶が繋がることもある」
俺は言葉を失う。
このアパートの常識はどこかおかしい。
いや、おかしくない部分を探す方が難しい。
「それより」
佐伯さんは箸を置いた。
「結衣ちゃんの未練を探すんだろう?」
その通りだった。
今はそちらが先だ。
昼過ぎ。
俺と結衣は再び町へ出た。
昨日の花屋で聞いた話から、一つだけ気になる場所があった。
結衣が通っていた高校。
校門の前で彼女は立ち止まる。
「懐かしい……気がします」
曖昧な言い方だった。
それでも何か感じるものはあるらしい。
休日の校舎は静かだった。
フェンス越しにグラウンドを眺める。
その時。
結衣が急に歩き出した。
まるで何かに引き寄せられるように。
「おい」
追いかける。
彼女が止まったのは校庭の隅だった。
一本の桜の木。
季節外れなのに、なぜか花びらが一枚だけ残っている。
結衣は木に触れた。
その瞬間だった。
「――っ!」
彼女が頭を押さえる。
「結衣!」
大量の記憶が流れ込んできた。
放課後。
制服姿の結衣。
桜の木の下。
そして一人の少年。
顔は見えない。
だが二人は笑っていた。
とても幸せそうに。
『絶対だからね』
結衣の声。
『約束だよ』
『ああ』
少年が答える。
『必ず会いに行く』
そこで映像が途切れた。
結衣はその場に膝をついた。
息が荒い。
「思い出した……」
「何を?」
彼女は涙を浮かべていた。
「私……誰かを待ってた」
桜の木を見上げる。
「ずっと」
涙が頬を伝う。
「でも誰を待ってたのか分からない」
胸が締め付けられた。
彼女は大切な何かを思い出しかけている。
なのに肝心な部分だけが欠けている。
その日の帰り道だった。
踏切の前で電車を待っている時。
突然、結衣が固まった。
顔色が真っ青になる。
「結衣?」
反応がない。
ただ一点を見つめている。
線路だった。
カンカンカンカン――
警報機が鳴る。
その音を聞いた瞬間。
結衣が悲鳴を上げた。
「いやっ!!」
俺は驚いた。
彼女は震えていた。
全身が小刻みに。
恐怖に支配されたように。
「大丈夫だ!」
肩を掴む。
その瞬間。
また記憶が流れ込んできた。
夜の踏切。
激しい雨。
泣いている結衣。
向こう側へ走る人影。
眩しいライト。
そして――
轟音。
俺は息を呑んだ。
事故だ。
結衣は何かの事故で死んだ。
だが。
その記憶の最後に映った人影。
その背中に見覚えがあった。
信じられないことに。
それは今の俺にそっくりだった。
夕凪荘へ戻った夜。
俺は眠れなかった。
もし本当に結衣の記憶の中にいるのが俺なら。
俺はなぜ忘れている?
なぜ彼女を知らない?
そして。
なぜ死者名簿に俺の名前がある?
考えれば考えるほど分からなくなる。
その時だった。
部屋の外で足音がした。
ギシッ。
ギシッ。
廊下を歩く音。
こんな時間に誰だ。
扉を開ける。
誰もいない。
だが床に一枚の紙が落ちていた。
白い封筒だった。
宛名はない。
中を開く。
そこには一行だけ書かれていた。
『思い出してはいけない』
そして差出人の欄には――
死神
と記されていた。




