最終話 五十年後の約束
「まだ終わってないよ」
風の中で聞こえた結衣の声。
俺は振り返った。
だが誰もいない。
あるのは桜の花びらだけだった。
淡い桜色。
結衣が残した最後の欠片。
俺はそれを胸ポケットへしまった。
そして夕凪荘へ帰った。
新しい管理人として。
生きるために。
約束を守るために。
それから長い時間が流れた。
本当に長い時間だった。
迷子の魂を迎えた。
泣きながら別れた。
笑いながら送り出した。
夕凪荘には今日も誰かがやって来る。
親を想う子供。
恋人を待つ老人。
友人へ謝れなかった青年。
それぞれの未練を抱えて。
俺は管理人として彼らを見送った。
何百人も。
何千人も。
佐伯さんがそうしてきたように。
現実世界では歳を重ねた。
仕事もした。
結婚はしなかった。
誰かを愛せなかったわけじゃない。
でも。
心のどこかに結衣がいた。
ずっと。
それでも人生は豊かだった。
友人たちと笑った。
家族を看取った。
旅もした。
桜も見た。
結衣との約束通り。
ちゃんと生きた。
精一杯。
後悔しながら。
転びながら。
泣きながら。
それでも前へ進んだ。
八十歳になった春だった。
病院の窓から桜が見えた。
満開だった。
医師たちは優しかった。
看護師たちも。
家族のように接してくれた。
だが俺は分かっていた。
終わりが近いことを。
夜。
一人になる。
窓の外で風が吹く。
桜が舞う。
すると。
病室の扉が静かに開いた。
音もなく。
そこに立っていたのは。
一人の少女だった。
高校の制服。
長い黒髪。
少し困ったような笑顔。
涙が溢れた。
一瞬で。
五十年分の涙が。
「遅いよ」
結衣が笑った。
昔のまま。
出会った頃のまま。
「五十年も待ったんだから」
俺は泣きながら笑う。
「悪い」
声が震える。
「寄り道してた」
「知ってる」
結衣は頷く。
「ちゃんと見てた」
病室が消えていく。
壁も。
天井も。
機械の音も。
全て。
代わりに現れたのは。
あの日の桜の丘だった。
高校の裏山。
初めて約束した場所。
十年前に会おうと誓った場所。
そして。
五十年後にまた会おうと約束した場所。
桜は満開だった。
風が吹く。
花びらが舞う。
何も変わらない。
本当に。
何も。
「おかえり」
結衣が言った。
俺は頷く。
「ただいま」
その言葉を言うために。
生きてきた気がした。
結衣は泣いていた。
笑いながら。
俺も同じだった。
五十年分の想いが溢れて止まらない。
「約束」
結衣が小指を差し出す。
俺は笑う。
皺だらけの手を伸ばす。
指を絡める。
昔と同じように。
「守ったね」
結衣が言う。
「うん」
「偉かった」
その言葉に。
堪えていた涙が決壊した。
誰にも褒められなかった。
誰にも見えなかった。
でも。
この人だけは知っていた。
俺が生きた五十年を。
全部。
「頑張ったね」
結衣が微笑む。
俺は泣いた。
子供みたいに。
声を上げて。
どれくらい泣いただろう。
やがて気持ちが落ち着く。
結衣が手を差し出した。
「行こう」
俺はその手を握る。
温かかった。
本当に。
温かかった。
丘の向こうには光があった。
優しい光。
懐かしい光。
その中に人影が見える。
佐伯さん。
俊介さん。
翔太。
美咲。
夕凪荘で出会った人たち。
みんな笑っていた。
手を振っている。
「待ってたよ」
佐伯さんが笑う。
昔と変わらない。
優しい笑顔だった。
俺は振り返る。
最後に一度だけ。
生きた世界を。
春風が吹く。
桜が舞う。
後悔はなかった。
本当に。
一つも。
結衣が隣にいる。
それだけで十分だった。
「ねえ」
結衣が言う。
「今度はどこへ行く?」
俺は笑う。
「さあな」
「決めてないの?」
「決めてない」
結衣が吹き出す。
昔と同じ笑い方。
懐かしい。
愛しい。
そして。
俺たちは手を繋いだまま歩き出した。
桜吹雪の中を。
終わりではなく。
始まりへ。
新しい約束の先へ。
満開の桜が降り注ぐ。
その花びらは。
まるで祝福のようだった。
人生は短い。
だから約束は尊い。
人はいつか別れる。
だから再会は美しい。
たとえ五十年離れていても。
想いは消えない。
約束は消えない。
愛した記憶は消えない。
桜の向こうで。
二人の笑い声がいつまでも響いていた。
【完】
【お知らせ:明日朝7:30、エピローグ(完結)を公開します!】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
「完」とさせていただきましたが、皆様へ感謝を込めて、【明日(18日・木曜)「エピローグ」を公開
いたします!】
同時刻(朝7:30)には、現在なろう日間ランキング第1位を爆走中の最新作
『あなたを殺したのは私です』の最新話も同時更新となります!
明日の朝は、ぜひ鷹司 怜の2大更新をお楽しみください!




