第二話 逃げられない管理人
「帰らせてください!」
俺は地面に尻もちをついたまま叫んだ。
目の前には空中に浮かぶ老人の首。
しかも笑っている。
ホラー映画なら間違いなく死亡フラグが立つ場面だった。
「いやぁ、驚かせてしまったかな」
老人の首が申し訳なさそうに言う。
「当たり前でしょうが!」
「儂、生前から首のヘルニアでな」
「そういう問題じゃない!」
その瞬間、周囲から笑い声が起きた。
振り向く。
アパートの住人たちが面白そうにこちらを見ていた。
まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような顔だった。
「久しぶりだなぁ、生者」
「初々しい反応ねぇ」
「前の管理人は三日で慣れたぞ」
慣れるか!
心の中で叫ぶ。
だが逃げようにも逃げられなかった。
気付けば門の前には何人もの住人が立っている。
全員笑顔だ。
なのに全然安心できない。
「ほらほら」
その時、小さな手が差し出された。
雨宮結衣だった。
「立てます?」
「……」
「大丈夫ですよ」
彼女は笑う。
不思議なことに、その笑顔だけは怖くなかった。
むしろ安心した。
俺は恐る恐る手を取る。
ちゃんと温かい。
いや、少し冷たいか。
だが確かに触れられた。
「幽霊なのに触れるのか」
「触れられる人と触れられない人がいるんです」
結衣は得意げに言った。
「私は触れるタイプ!」
タイプって何だ。
幽霊にも分類があるのか。
「とりあえず」
大家の佐伯さんが手を叩く。
「中に入りなさい」
「いや、俺帰ります」
「契約書」
「はい?」
「違約金三十万円」
俺は固まった。
「三十万?」
「うん」
「払えません」
「じゃあ住むしかないね」
終わった。
俺の人生が終わった。
一時間後。
俺は夕凪荘二〇三号室にいた。
六畳一間。
古いが綺麗に掃除されている。
窓からは夕焼けが見えた。
事故物件でなければ悪くない部屋だ。
事故物件でなければ。
コンコン。
ノックの音がした。
「どうぞ」
扉が開く。
結衣だった。
「あの」
「なんですか」
「歓迎会やるんです」
「歓迎会?」
「住人全員で」
嫌な予感しかしない。
「断れます?」
「無理です」
即答だった。
一階の談話室には長机が並んでいた。
住人たちが集まっている。
老人。
子供。
サラリーマン。
主婦。
見た目だけなら普通の住民会だ。
見た目だけなら。
「新しい管理人さんに乾杯!」
誰かが言う。
拍手が起きる。
その瞬間。
天井から突然、腕だけが落ちてきた。
「ぎゃあああ!」
俺は椅子ごと転んだ。
しかし周囲は平然としている。
「鈴木さん、また腕が取れてますよ」
「すみませんすみません」
腕だけが床を這って元の持ち主へ戻っていく。
もう帰りたい。
本気で帰りたい。
「慣れますよ」
結衣が笑う。
「慣れない!」
「前の管理人さんもそう言ってました」
「前の管理人?」
結衣の表情が少し曇った。
「はい」
「今は?」
「いません」
「辞めたのか?」
彼女は答えなかった。
代わりに窓の外を見た。
夕暮れが終わり、夜が近づいている。
どこか寂しそうな横顔だった。
その時だった。
談話室の空気が変わった。
笑い声が止む。
住人たちが一斉に入口を見る。
結衣の顔からも笑顔が消えた。
扉の向こうに誰かが立っていた。
黒いコート。
黒い帽子。
顔が見えない。
だが分かった。
この存在だけは他の住人と違う。
圧倒的な不気味さがあった。
「佐伯さん」
男の声が響く。
低く冷たい声。
「また期限が近づいています」
談話室が静まり返る。
佐伯さんの表情が初めて曇った。
「分かっているよ」
「今度こそ管理人を見つけたのですね」
男の視線が俺へ向く。
背筋が凍った。
「この者で最後です」
最後。
その言葉が妙に引っかかった。
男はしばらく俺を見つめる。
そして静かに言った。
「逃げないことです」
次の瞬間。
男の姿が消えた。
音もなく。
まるで最初から存在しなかったように。
誰も喋らない。
結衣は俯いている。
「……誰だよ」
俺が尋ねると、
佐伯さんは小さく息を吐いた。
「死神だよ」
その言葉に談話室の空気がさらに冷えた。
そして俺はまだ知らない。
死神が現れた理由も。
夕凪荘が存在する本当の意味も。
そして、住人名簿の最後に記された自分の名前が、死神と深く関係していることも。




