第十八話 保留された約束
「私が消えちゃう前に――」
結衣の声が闇の向こうへ吸い込まれていく。
巨大時計の崩壊は止まらない。
黒い亀裂が第零ホーム全体へ広がっていた。
床が軋む。
天井が揺れる。
無数の魂たちが不安そうに空を見上げている。
俺は思わず叫んだ。
「結衣!」
返事はない。
ただ風だけが吹き抜ける。
その時だった。
佐伯さんが俺の肩を掴んだ。
「聞いて」
真剣な目だった。
「時間がない」
佐伯さんは崩れゆく時計を見上げた。
「あの時計はね」
静かな声だった。
「人の約束で動いているの」
俺は意味が分からなかった。
「約束?」
「そう」
佐伯さんは頷く。
「親子の約束」
「恋人の約束」
「友達との約束」
「また会おうという願い」
闇の中で時計の針が微かに震えている。
「魂は約束によって繋がる」
「そして約束を果たした時、前へ進める」
俺は息を呑んだ。
結衣との約束が頭に浮かぶ。
十年後に会う。
そして。
五十年後にまた会う。
「でも」
佐伯さんの表情が曇る。
「果たされない約束もある」
胸騒ぎがした。
「どういう意味ですか」
「結衣ちゃんはね」
少しだけ微笑む。
「あの日、本当は消えるはずだった」
やはりそうだった。
俺もどこかで分かっていた。
「でも消えなかった」
「約束が残っていたから?」
俺が尋ねる。
佐伯さんは首を振った。
「違う」
その答えに心臓が止まりそうになった。
「結衣ちゃんは約束そのものになったの」
世界が静まる。
意味が理解できない。
「約束そのもの……?」
佐伯さんは頷く。
「悠人くんを生かした代償」
「彼女は魂ではなくなった」
「人々の未練と希望を繋ぐ存在になった」
俺は言葉を失う。
だから。
どこにでも現れた。
手紙になり。
風になり。
桜の花びらになり。
声になった。
完全な魂ではないからだ。
「じゃあ結衣は今どこにいるんです」
俺は叫んだ。
「会えるんですよね!」
佐伯さんは悲しそうに笑った。
「会えるよ」
「本当に?」
「でも」
その一言が怖かった。
「時計が壊れる前に」
轟音。
時計の文字盤がさらに砕ける。
無数の光が零れ落ちた。
それは魂だった。
忘れられた人々の記憶。
約束。
願い。
人生。
全てが崩れていく。
その中に。
一つだけ強い光があった。
桜色だった。
俺は気付く。
結衣だ。
「悠人くん」
声が聞こえた。
今度ははっきりと。
俺は走った。
闇の中へ。
佐伯さんの制止も聞かず。
ただ走る。
転んでも。
傷付いても。
走る。
やがて辿り着いた場所は。
満開の桜の丘だった。
見覚えがある。
十年前。
初めて結衣と約束をした場所。
高校の裏山。
春になると桜が咲く丘。
その景色そのものだった。
そして。
一本の桜の木の下に。
彼女はいた。
雨宮結衣。
白いワンピース。
長い髪。
少し困ったような笑顔。
全部変わらない。
何一つ。
変わらない。
「やっと来た」
結衣は笑った。
涙を浮かべながら。
俺は声が出なかった。
会いたかった。
本当に。
会いたかった。
「ごめん」
最初に出た言葉はそれだった。
「何度も一人にした」
結衣は首を振る。
「違うよ」
優しく笑う。
昔と同じように。
「悠人くんは生きてくれた」
その言葉だけで胸が苦しくなる。
「聞いて」
結衣が言う。
桜が舞う。
風が吹く。
「私はもう長くない」
俺は首を振った。
聞きたくない。
でも結衣は続けた。
「時計が壊れたら」
「私も消える」
世界が止まる。
「だからお願い」
結衣は微笑む。
泣きそうな顔で。
「佐伯さんを助けて」
俺は目を見開く。
「私じゃなくて?」
結衣は頷いた。
「ずっと待ってたから」
風が吹く。
花びらが舞う。
「七十年も」
その言葉に胸が締め付けられた。
結衣は最後に俺へ近づいた。
そして。
そっと額に触れる。
温かかった。
確かに。
そこにいた。
「五十年後の約束」
結衣が微笑む。
「忘れないでね」
涙が溢れる。
「忘れるわけないだろ」
結衣は笑った。
本当に幸せそうに。
その瞬間。
桜の丘が崩れ始めた。
時計の最後の悲鳴が響く。
結衣の身体が光に変わっていく。
俺は叫ぶ。
「待て!」
「まだ!」
「まだ話したいことが――!」
結衣は首を振る。
そして最後に。
あの日と同じ言葉を残した。
「生きて」
光が弾けた。
桜が空へ舞い上がる。
俺の手の中には。
一枚の花びらだけが残っていた。
そしてその瞬間。
第零ホーム全体に響く声があった。
それは。
七十年間、何も話さなかった男の声だった。
佐伯さんの恋人――俊介だった。
「咲子……」
佐伯さんが振り返る。
涙を流しながら。
俊介は初めて彼女を見た。
七十年越しに。
愛する人を。




