第十六話 赤いランドセルの少女
その子が夕凪荘へやって来たのは、雨の夜だった。
六月らしい静かな雨。
軒先を叩く雨音だけが響いている。
俺は管理人室で日誌を読んでいた。
その時だった。
玄関の鈴が鳴った。
チリン――
小さな音。
だが何故か胸騒ぎがした。
俺は立ち上がる。
玄関へ向かう。
引き戸を開けた瞬間。
思わず息を呑んだ。
小さな女の子が立っていた。
七歳くらいだろうか。
赤いランドセル。
黄色い傘。
濡れた前髪。
だが。
その顔を見た瞬間。
俺の心臓が大きく跳ねた。
結衣に似ていた。
幼い頃の結衣を見たことはない。
それでも分かる。
目元。
笑った時の口元。
どこか寂しそうな雰囲気。
あまりにも似ていた。
「こんばんは」
少女が頭を下げる。
礼儀正しい。
だが声が震えていた。
「ここ……夕凪荘ですか」
俺は頷く。
「そうだよ」
少女は安心したように息を吐いた。
そして。
信じられないことを言った。
「お姉ちゃんを探してるんです」
談話室。
温かいココアを渡す。
少女は両手でカップを抱えた。
「名前は?」
尋ねる。
少女は答えた。
「雨宮ひなた」
カップを落としそうになった。
雨宮。
結衣と同じ姓。
俺の動揺に気付かず、少女は続ける。
「お姉ちゃんがいなくなったんです」
俺は言葉を失った。
その夜。
管理人日誌を開く。
新しいページ。
そこにはこう記されていた。
――雨宮ひなた
享年七歳
未練・姉との約束
俺は何度も読み返した。
雨宮。
姉。
結衣。
偶然とは思えなかった。
翌朝。
ひなたと話をした。
中庭のブランコで。
「お姉ちゃんはどんな人だった?」
少女は嬉しそうに笑う。
「優しかった」
即答だった。
「いつも本を読んでくれた」
「宿題も教えてくれた」
「私が泣くと一緒に泣いてくれた」
その話を聞いていると。
結衣の姿が自然と浮かぶ。
間違いない。
それは俺の知る雨宮結衣だった。
「でもね」
ひなたが俯く。
「約束したの」
「どんな?」
少女は空を見る。
雨上がりの空。
「大人になったら一緒に桜を見ようって」
胸が締め付けられる。
桜。
また桜だ。
結衣らしい。
本当に。
どこまでも。
数日後。
俺は日誌を調べ続けた。
そして見つけてしまった。
古い記録。
二十年以上前。
まだ佐伯さんが管理人だった頃のページ。
そこに記されていた名前。
――雨宮結衣
――保留
俺は凍り付いた。
保留?
成仏でもない。
残留でもない。
そんな記録は初めて見た。
ページの続きには。
佐伯さんの文字。
『この子はまだ終わっていない』
『約束が残っている』
『だから扉は閉じない』
手が震えた。
結衣は消えていなかった。
最初から。
完全には。
その夜だった。
ひなたが突然いなくなった。
部屋にも。
談話室にもいない。
住人たちも見ていない。
俺は夕凪荘中を探した。
そして見つけた。
中庭だった。
満月の下。
桜の木の前。
ひなたが立っている。
一人ではなかった。
その隣に。
白いワンピースの女性が立っていた。
風が吹く。
長い髪が揺れる。
俺は息を忘れた。
その横顔を。
忘れるはずがなかった。
「……結衣」
声が漏れる。
女性が振り向く。
涙が出そうになった。
結衣だった。
間違いなく。
あの日、桜の下で別れた結衣。
だが。
次の瞬間。
結衣の姿は霧のように揺らいだ。
輪郭が崩れる。
消えそうになっている。
「悠人くん」
懐かしい声。
胸が痛くなる。
「会いたかった」
俺は走った。
だが届かない。
結衣は笑った。
泣きそうな笑顔で。
「ごめんね」
「結衣!」
「時間がないの」
ひなたが泣いている。
「お姉ちゃん!」
結衣は妹を抱き締める。
優しく。
優しく。
そして俺を見る。
「まだ終わってないの」
風が強くなる。
桜が舞う。
「私だけじゃない」
その言葉に背筋が凍った。
「夕凪荘には」
結衣の声が震える。
「まだ帰れない人がいる」
空が揺れた。
まるで世界そのものが軋むように。
そして結衣は最後に言った。
「佐伯さんは、それを一人で守ってた」
俺は立ち尽くす。
結衣の身体は光になり始めていた。
「待って!」
叫ぶ。
「どこにいる!」
「どうしたら会える!」
結衣は微笑んだ。
昔と変わらない。
優しい笑顔だった。
そして。
最後に残した言葉は――
「終着駅へ来て」
その瞬間。
世界が白く染まった。
気付くと朝だった。
中庭には俺とひなただけ。
結衣はいない。
だが桜の根元に一枚の古い鍵が落ちていた。
銀色の鍵。
見たことのない形。
そこには小さく刻まれていた。
『終着駅・第零ホーム』
俺は鍵を握り締める。
胸の鼓動が速くなる。
結衣は確かにいた。
そして。
佐伯さんが隠していた秘密も。
夕凪荘の本当の役割も。
すべては終着駅に繋がっている。
その時だった。
日誌の白紙だった最後のページに。
勝手に文字が浮かび上がる。
震える字。
まるで誰かが必死に書いているように。
『助けて』
そしてその下に。
見知らぬ名前が現れた。
――佐伯咲子
俺は凍り付いた。
佐伯さんが。
助けを求めている――。




