第十五話 母に会えなかった少年
夕凪荘へ戻ってから一週間が過ぎた。
管理人の仕事にも少しずつ慣れてきた。
だが別れには慣れない。
未練を解き、笑顔で送り出す。
それが救いだと分かっていても。
胸にはいつも小さな穴が残る。
その夜だった。
玄関の引き戸が静かに開いた。
カラカラ――
小さな音。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
年齢は十歳くらい。
ランドセルを背負っている。
顔は青白い。
だがどこか見覚えがある。
「こんばんは」
俺が声を掛ける。
少年は答えない。
ただ玄関に立ったまま周囲を見回している。
まるで誰かを探しているようだった。
談話室へ連れていく。
温かいお茶を出す。
少年はコップを見つめたまま言った。
「ここ、どこ?」
「夕凪荘だよ」
「ゆうなぎそう……」
聞き慣れない言葉を繰り返す。
「君の名前は?」
少年は少し考えた。
そして答えた。
「翔太」
小林翔太。
それだけだった。
その日の夜。
管理人日誌を確認する。
新しいページが増えていた。
――小林翔太
享年十歳
未練・母親
それだけ。
あまりにも短かった。
翌朝。
俺は翔太と話をした。
中庭でキャッチボールをしながら。
少しずつ。
本当に少しずつ。
彼は心を開いた。
「お母さんがね」
ボールを投げながら言う。
「病院にいたんだ」
「病院?」
翔太は頷く。
「ずっと」
言葉が詰まる。
何かを思い出そうとしている。
「苦しそうだった」
その顔を見ているだけで胸が痛くなった。
数日後。
ようやく真実が見えてきた。
翔太の母親は重い病気だった。
長い入院生活。
父親は仕事で家を空けることが多かった。
翔太は毎日のように病院へ通った。
だが――
最後の日。
間に合わなかった。
学校から病院へ向かう途中で事故に遭ったのだ。
母親に会えないまま。
そのまま。
「会いたい」
ある夜。
翔太はぽつりと言った。
縁側に座りながら。
「一回だけでいい」
月明かりが小さな横顔を照らす。
「お母さんに会いたい」
俺は何も言えなかった。
十歳の子供が抱えるには重すぎる願いだった。
その夜。
俺は久しぶりに結衣の手紙を見た。
『管理人さん』
『人を送り出すだけが管理人じゃありません』
以前届いた紙片。
その続きを探すように眺める。
すると裏側に薄く文字が浮かび上がった。
『会わせてあげてください』
結衣の字だった。
俺は立ち上がる。
方法は分からない。
だが。
やるしかない。
翌日の深夜。
翔太を連れて駅へ向かった。
終着駅。
生と死の境界にある場所。
死神の車掌が待っていた。
「規則違反ですよ」
骸骨の顔が少し困ったように見えた。
「知ってる」
「許可は出ません」
「それでも頼む」
車掌はしばらく黙っていた。
やがてため息をつく。
「あなたは本当に管理人向きですね」
そう言って帽子を深く被った。
「一度だけです」
列車は闇の中を走った。
どれほど時間が過ぎただろう。
やがて到着したのは白い野原だった。
空も白い。
風も白い。
静かな世界。
その中央に、一人の女性が立っていた。
翔太が息を呑む。
「お母さん……」
女性も振り返る。
そして。
泣いた。
「翔太!」
走り出す。
翔太も走る。
次の瞬間。
二人は抱き締め合っていた。
母親は泣き続けた。
翔太も泣いていた。
何度も謝っている。
「ごめんね」
「会えなくてごめんね」
母親は首を振る。
「違うの」
涙を流しながら笑う。
「ありがとう」
「え?」
「最後まで会いに来てくれたでしょう?」
翔太は目を見開く。
「知ってたの?」
母親は頷く。
「ちゃんと分かってた」
風が吹く。
白い花が揺れる。
「翔太は私の宝物だったよ」
その言葉を聞いた瞬間。
少年は声を上げて泣いた。
十歳の子供に戻ったように。
いや。
ようやく十歳の子供として泣けたのかもしれない。
別れの時間が来た。
光が降り注ぐ。
母親の身体が輝き始める。
翔太も気付いた。
「行っちゃうの?」
母親は微笑んだ。
「うん」
「嫌だ」
「大丈夫」
優しい声だった。
「またいつか会えるから」
翔太は泣きながら頷く。
そして最後に言った。
「大好き」
母親は涙を流しながら答えた。
「私も大好き」
その瞬間。
光が二人を包み込んだ。
夕凪荘へ戻ると。
翔太の顔は少しだけ大人びていた。
「管理人さん」
「ん?」
「ありがとう」
俺は首を振る。
「俺じゃない」
風が吹く。
桜の花びらが舞う。
どこからともなく。
翔太は空を見上げる。
そして笑った。
本当に久しぶりに。
心から。
「お母さん、怒るかな」
「何を?」
「泣き虫だって」
俺も笑った。
「きっと怒らないよ」
翔太は頷く。
そして光に包まれた。
「じゃあね」
小さく手を振る。
「管理人さん」
その笑顔を最後に。
少年は夜空へ溶けていった。
静かな中庭。
誰もいないブランコ。
その座面に一枚の紙が置かれていた。
見なくても分かる。
結衣だ。
紙には短く書かれていた。
『今回は百点です』
その下に小さく続く。
『少しだけ嫉妬しましたけど』
思わず吹き出した。
夜空を見上げる。
星が綺麗だった。
遠くで誰かが笑った気がした。
きっと。
あいつだろう。
そして俺はまだ知らない。
次に夕凪荘へやって来る迷子が、
この物語最大の秘密へ繋がる存在であることを――。




