第十二話 桜の花びら
意識を取り戻してから三か月が過ぎた。
病院の白い天井にも慣れた。
リハビリも順調だった。
医師は奇跡だと言った。
家族は毎日のように見舞いに来た。
友人たちも来た。
みんな泣いていた。
生還したことが信じられないらしい。
だが。
俺だけは知っていた。
奇跡なんかじゃない。
約束のおかげだ。
あの日。
桜の下で交わした約束。
結衣が送り出してくれたから俺は戻れた。
それだけだった。
退院の日。
病院を出ると春風が吹いた。
桜が舞っている。
俺は空を見上げた。
結衣も見ているだろうか。
そんなことを考えてしまう。
もう会えない。
分かっている。
それでも。
どこかで期待してしまう。
人間とはそういうものなのだろう。
事故現場へ行ったのは、その翌週だった。
あの日の交差点。
信号。
ガードレール。
何も変わっていない。
ただ。
道路脇に小さな花束が置かれていた。
白いカスミソウ。
結衣が好きだった花だ。
俺はしゃがみ込む。
手を合わせる。
「ありがとう」
風が吹いた。
誰もいない。
だが。
その瞬間。
背後から声が聞こえた気がした。
「こちらこそ」
振り返る。
誰もいない。
ただ桜の花びらだけが舞っていた。
その夜だった。
奇妙な夢を見た。
夕凪荘だった。
懐かしい玄関。
古い廊下。
談話室。
住人たちの笑い声。
全部そのままだった。
だが。
誰もいない。
空っぽだった。
俺は夢の中で歩き続ける。
やがて管理人室へ辿り着く。
扉が開いていた。
机の上に一冊のノートが置かれている。
古びた黒い表紙。
表紙にはこう書かれていた。
『管理人日誌』
ページを開く。
そこには見覚えのある文字が並んでいた。
佐伯さんの字だった。
『悠人くんへ』
その一文を見た瞬間。
夢の中だというのに心臓が高鳴った。
『もし君がこれを読んでいるなら、私はもういない』
ページが風でめくれる。
『夕凪荘は終わっていない』
『新しい迷子たちは今も現れている』
『だからお願い』
『最後の管理人を探して』
そこで夢は終わった。
真夜中。
俺は飛び起きた。
全身汗だくだった。
時計を見る。
午前三時。
夢だった。
ただの夢。
そう思おうとした。
だが。
机の上を見た瞬間。
呼吸が止まった。
そこには一冊のノートが置かれていた。
黒い表紙。
古びた装丁。
夢で見たものと同じ。
震える手で近づく。
表紙に指を触れる。
確かな感触。
幻ではない。
そして表紙には――
『管理人日誌』
そう書かれていた。
翌朝。
恐る恐るページを開く。
中には住人たちの名前が記されていた。
首だけの老人。
腕が取れる鈴木さん。
夕凪荘の住人たち。
懐かしい名前ばかりだった。
そして最後のページ。
そこに一枚の紙が挟まれていた。
封筒だった。
差出人はない。
だが見覚えがある。
死神が使っていた封筒だった。
中を開く。
たった一行。
それだけが書かれていた。
『五十年も待てません』
俺は凍り付いた。
その筆跡を知っていた。
何度も見た文字。
忘れるはずがない。
雨宮結衣。
結衣の字だった。
封筒の中から、ひらりと一枚の桜の花びらが落ちる。
その裏には、小さく続きが書かれていた。
『だから迎えに来てください、管理人さん』
窓の外で風が吹く。
桜の花びらが舞う。
その時。
部屋の隅に置かれた鏡に、一瞬だけ誰かの姿が映った。
制服姿の少女。
振り返る。
誰もいない。
だが俺は確信した。
終わっていない。
結衣との約束も。
夕凪荘の物語も。
まだ終わっていないのだ。




