第十一話 約束の桜
「選べ」
死神たちの声が夜空に響く。
「生者として未来へ帰るか」
「管理人として彼女を救うか」
俺は結衣の手を握ったまま立ち尽くしていた。
答えは簡単なはずだった。
生き返る。
普通ならそう選ぶ。
誰だってそうする。
病院には家族もいるだろう。
友人もいる。
まだ人生だって残っている。
なのに――
なぜこんなにも迷うのだろう。
「悠人くん」
結衣が微笑む。
泣きそうな顔で。
でも優しく。
昔と同じように。
「帰って」
俺は首を振った。
「嫌だ」
「だめ」
「嫌だ」
「お願い」
結衣の瞳から涙が零れる。
「生きて」
その一言が胸を刺した。
彼女は最後まで自分のことを考えない。
自分が消えるかもしれないのに。
俺の未来を願っている。
だからこそ苦しかった。
その時だった。
中庭に風が吹く。
桜の花びらが舞った。
季節外れの桜。
誰も植えていないはずなのに。
気付けば中庭の中央に一本の桜の木が立っていた。
淡く光を放っている。
住人たちが息を呑む。
佐伯さんが小さく呟いた。
「現れたね……」
「何ですか、あれ」
俺が尋ねる。
大家は微笑んだ。
「約束の桜だよ」
桜の木から光が溢れる。
すると周囲の景色が変わった。
夕凪荘が消える。
死神も。
住人たちも。
気付けば俺と結衣は高校の校庭に立っていた。
十年前の桜の木の下。
夕陽が眩しい。
制服姿の結衣が笑っている。
『十年後』
あの日の声。
『また会おうね』
過去の記憶。
いや。
約束そのものだった。
そして次々と場面が変わる。
卒業式。
文化祭。
雨の日の帰り道。
放課後の図書室。
俺たちが過ごした時間。
忘れていた思い出。
失くしたと思っていた宝物。
全部そこにあった。
結衣は泣きながら笑う。
「懐かしい」
俺も涙が出ていた。
こんなにも大切だったのに。
どうして忘れてしまったのだろう。
やがて景色が再び変わる。
事故の日だった。
大雨。
交差点。
トラック。
衝突。
だが今度は最後まで見えた。
俺は結衣を庇った。
確かにそうだった。
しかし。
その直後。
結衣もまた俺を庇っていた。
二人とも同じだったのだ。
相手を守ろうとしていた。
最後の瞬間まで。
だから記憶が混ざった。
どちらが誰を守ったか分からなくなるほど。
互いを想っていたから。
結衣は泣き崩れた。
「馬鹿だよ」
涙を流しながら笑う。
「本当に馬鹿」
俺も笑った。
「お前もな」
桜の花びらが舞う。
風が優しい。
その時。
桜の木の根元に小さな扉が現れた。
白い光に包まれている。
佐伯さんの声がどこからか聞こえた。
『それが選択の門だよ』
俺は理解した。
あの扉の向こうへ行けば生き返る。
現実へ戻れる。
だが。
結衣は行けない。
彼女はこの世界の住人だから。
結衣は扉を見る。
そして俺を見る。
何も言わない。
でも分かった。
本当は寂しいのだ。
本当は離れたくないのだ。
それでも笑おうとしている。
「なあ」
俺は言った。
「覚えてるか」
結衣が頷く。
「十年前」
「うん」
「約束したよな」
俺は小指を差し出した。
高校生だったあの日と同じように。
結衣は目を見開く。
そして震える指を絡めた。
「十年後に会うって」
「うん」
「だったら」
俺は笑った。
涙を流しながら。
「今度は五十年後だ」
結衣が息を呑む。
「え?」
「ちゃんと生きる」
胸が苦しかった。
それでも言う。
「いっぱい後悔して」
「いっぱい笑って」
「いっぱい泣いて」
「最後にまた来る」
桜が揺れる。
風が吹く。
「だから待ってろ」
結衣の瞳から大粒の涙が溢れた。
「ずるい……」
かすれた声。
「そんなこと言われたら」
泣き笑いになる。
「待っちゃうじゃん」
俺は頷いた。
「待てよ」
結衣は声を上げて泣いた。
子供みたいに。
今まで堪えていた全部を吐き出すように。
そして。
最後に笑った。
世界で一番綺麗な笑顔だった。
『時間だ』
死神の声が響く。
光の門が開く。
俺は一歩踏み出した。
振り返る。
結衣がいる。
桜の下で笑っている。
泣きながら。
手を振っている。
「悠人くん!」
声が響く。
「生きて!」
俺は頷く。
「約束だ!」
光が溢れる。
世界が白く染まる。
結衣の姿が遠ざかる。
最後に見えたのは。
満開の桜の下で笑う少女だった。
そして――
病院。
心電図の音。
医師たちの声。
眩しい天井。
重い瞼。
ゆっくりと目を開く。
そこは現実だった。
「患者の意識が戻った!」
誰かが叫ぶ。
家族が泣いている。
看護師が走る。
だが。
俺は窓の外を見ていた。
春だった。
風が吹いている。
その時。
病室の窓辺に一枚の桜の花びらが舞い込んだ。
あり得ないはずなのに。
まるで誰かが届けたみたいに。
俺はそれをそっと握る。
そして小さく呟いた。
「ただいま」
するとどこからか。
懐かしい声が聞こえた気がした。
――おかえり。
その声は風の中へ溶けていった。




