魔王の葛藤
本殿中央・奥殿(魔王の社殿)
あと数刻もしないうちに、神界へ赴く。
あの後、結界の張られた御簾車に 御簾の中の天使は素直に乗り込んでくれた。
近衛を、困らせないためなのだろうか。
小さく収束された結界が御簾車に収まるときは、水滴が吸い込まれるようで
トポン、と音さえ聞こえたような気がした。
そうして魔王の社殿に移された天使は、今また怯えている。
近衛を社殿から払ってから先、ずっと声を殺して泣くばかりだ。
本来は魔王の居所である御簾の中に、小さな御車と天使が納められている。
それはまるで、水槽の中の魚のようだった。
あの御車はさながら、魚のために設えられた隠れ場所。
そんな天使を見ながら、魔王は拳を握り締める
『自分は、天使殿を――』
遮ってやった、自分の忠臣の言葉。
あの言葉を遮らないままで居たならば、この天使はなんと返事をしたのだろう。
天使を見ながらそんなことを考えていた。
部屋にあるのは静寂のみ。
声を殺して泣く天使の涙でさえ、結界に吸収されて音もなく床に落ちる。
「……」
揺ら揺らとゆれる蜀台の炎
いつかの夜を思い出した。
近衛と天使の二つの影は、いまでも脳裏に焼きついている。
(抱き合う、影――)
天使の背後には、あの時よりも黒々とはっきりした影が壁に映し出されている。
魔王と、天使の影。
だが、その2つの影は遠い。
魔王が手を斜め横に伸ばすと、その影も伸びる。
自分の影で、天使の影に触れるようにしてみる。
影絵として映し出されたそれは、ほんの少しの手の伸ばす方向によって遠近が狂う。
大きな腕の影は、天使の影を握りつぶしてしまった。
拳から、生えた腕。握りつぶされてしまう小さな天使。
腕を引き戻して本物の・・・自分の手を開いてみる。勿論、そこには何も無い。
握りつぶした天使の影を、自分の影の手は得ることができたのだろうか。
そして目の前にいる本物の天使。これも同じことである。
触れようと思えば魔王にとって容易い。非力な天使の一体の持つ浄気など、魔王にとって露払いするまでもない。
だが、この天使にとっての自分は違う。……触れる所か、近づいただけでも苦しみを味わうだろう。いや、近づく前にいまこの魔国……この土地に溢れる魔素の中にいるだけでも、長く生きることなど不可能だ。
そのようなものをこの結界から放ち、魔王である自分が手に入れようとすれば……触れた瞬間に、言葉通り燃え尽きて消え失せてしまうかもしれない。
「……くく」
「魔王……?」
近衛への天使の返答など、気にしても仕方がない。
自分では、影ですらも手には入らないほど、儚いのだ。
当たり前だ。当たり前の事が、こんなにも――…
こんなにも、苦しい。
だから
だから
「さあ、行こう。天を滅ぼしに」
お前の帰る場所から。ひとつひとつ、手に入れていこう。
出来る事はそれしかないだろう?




