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第9場 帰りの船

二千年越しの問いに、今、彼は答える。

そんなに長く問い続けていたことを、彼自身は知らずに。

 帰りの船は、来たときよりも、海が荒れた。


 冬が近かった。空は重く垂れ、波は灰色に高く、船は木の葉のように揺れた。船客の多くは船室にこもり、祈っていた。あるいは吐くものも。けれどニコラウスは、甲板に出ていた。手すりをつかみ、暮れていく海を、ただ見ていた。


 彼の頭の中は、ほどけない結び目でいっぱいだった。


 コンスタンティノープルでの交渉は、まとまった。東と西の教会は、一つになることに、表向きは合意した。けれど彼には分かっていた。羊皮紙の上の合意と、人々の心の一致とは、別のものだ。言葉でどれだけ橋を架けても、その下には、何百年もの溝が、暗い水のように横たわっている。


 どうすれば、本当に、二つは一つになれるのか。

 多は、いかにして一になるのか。彼は、その問いを、何日も抱えていた。


 そして、もう一つ。彼を、ずっと苦しめてきた問いがあった。

 人は、神を、知ることができるのか。


 神は、無限である。果てがなく、底がなく、人の理性のどんな物差しでも、測りきれない。けれど人の精神は、有限だ。どこまでいっても、限りがある。有限なものが、無限なものを、どうやって捉えられよう。多角形が円に届かないように、人の知は、神には、永遠に届かないのではないか。ならば、神を知ろうとする営みは、すべて——空しいのではないか。


 彼は、長いあいだ、その問いの前で、立ちすくんでいた。

 波が、舷を打った。しぶきが、彼の顔にかかった。冷たかった。

 その冷たさは、彼の奥の、ずっと深いところに沈んでいくようだった。


 彼は、暮れていく海を見つめた。鉛色の水が、うねり、たわみ、どこまでも続く。その表面で、沈もうとする日の最後の光が、銀色に、揺れていた。彼は、その揺れる光を見ていた。見ているうちに、胸が、締めつけられた。子どもの頃、川の深みを覗いたときと、同じ感覚。なぜか、泣きたくなった。理由は、分からなかった。


 そのとき、だった。

 彼の中で、それは彼のなかで突如、開いた。

 考えて、たどり着いたのではない。

 稲妻のように、答えが来た。——届かないことが、答えなのだ、と。


 彼は、思わず手すりをつかむ手に、力をこめた。

 そうだ。多角形は、円に届かない。けれど、それは、失敗ではない。多角形は、角を増やすほど、円に近づく。いくらでも、近づける。どこまでも、近づける。ただ、決して、重ならない。その「決して重ならない」ことこそが——有限なものと、無限なものとの、本当の関係なのだ。届かないことは、欠けていることではない。届かないという、その距離そのものが、無限の無限たるゆえんなのだ。


 人は、神に、届かない。それでいい。

 届かないまま、どこまでも近づいていく。そして、自分が決して届かないと知ること——その「知りえぬ」ということを、はっきりと知ること。それこそが、人に許された、いちばん高い知なのだ。知らないことを、知っている。学識ある、無知。


 彼の頬を、涙が伝った。涙は、波しぶきに叩かれ、見分けがつかなくなった。


 彼の恐れは、そのとき反転した。

 長いあいだ、人が神に届かないことを恐れてきた。多角形が円に届かないことを、哀しみとして見てきた。けれど今、同じその図形が、まったく逆のものとして、彼の前に立っていた。届かないことは、神から見放されていることではなかった。届かないことのうちにこそ、無限が宿っていた。語りえぬものは、理性の欠如ではなかった。それは、理性を超えたものの、いちばん確かな(しるし)だった。


 彼は、笑った。声を上げて、海の上で、一人。

 そして、その笑いの底で、ほんの一瞬——彼は、奇妙なことを確信した。

 この海を、知っている。


 この、冷たい水を。

 この、揺れる銀色の光を。

 沈んでいく、この感覚を。

 自分は、ずっと昔に、一度、この同じ水の中にいたことがある。


 そう感じた。けれど、それが、いつのことなのか、どこのことなのか、彼には、まるで分からなかった。記憶など、ない。ただ、感覚だけが、海の底から、ふいに浮かび上がってきて——そして、また、沈んでいった。

 彼は、首を振った。船酔いだ、と思った。長い航海で、気が高ぶっているのだ。

 だがたった今、彼が触れたものが、二千年前に、この同じ水に沈んだ、一人の若者の最後の感覚だったことを、われわれは知っている。沈みながら、届かない光に手を伸ばし、「これは、あの対角線と同じだ」と思った、あの「私」の感覚だったことを。


 同じ図形、同じ海、同じ「届かない」。

 かつてそれは、一人の人間を世界もろとも沈めた呪い。今それは、一人の人間を救い上げる、啓示になった。


 日が、沈みきった。海は暗くなった。けれど、ニコラウスの胸の中には、いま灯った光が、消えずにあった。

 彼は、震える手で、懐から手帳を取り出した。揺れる船の上で、暗がりの中で、彼は書きつけた。後に一冊の書物となる、その最初の数語を。


 ——神は、知りえぬことによって、最もよく知られる。


 彼は、己の魂の、二千年越しの問いに答えていたことに気づいていない。

 海の上で、一つの魂が、ようやく安らいで揺れていた。


続く

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