第10場 学識ある無知
かつて口を塞がれた魂が、時を超え、ついに語る。隠すべき呪いだったものが、いま、信仰の中心に据えられる。
故郷へ帰った彼は、書斎にこもった。
海の上で灯ったものを、消すまいとするように、ニコラウスは書いた。
窓の外を、モーゼルの川が流れていた。子どもの頃、円に角を描き足して遊んだ、あの川だ。彼はもう、船頭の子ではなかった。教会に重んじられる学者であり、やがて枢機卿にまでなる。けれど、机に向かって羊皮紙を広げるとき、彼の指は、あの川辺の少年の指と、同じ動きをした。円を描き、その内側に、多角形を描いた。
書物の名は、『学識ある無知』とした。
知らないことを、知っている。一見、矛盾した言葉だ。けれど彼は、その矛盾の中にこそ、いちばん深い真理があると、確信していた。
人は、神を知り尽くすことはできない。それは、人の知が足りないからではない。神が、無限だからだ。無限は、定義からして、有限な精神には、捉えきれない。だから、賢者と愚者の違いは、神を知っているかどうかにあるのではない。自分が神を知りえないと、どれほど深く知っているか、にある。自分の無知を、どれほど学識深く知っているか、に。
むろん、彼の前にも、無知を語った者はいた。
遠い昔、アテナイに、自分は何も知らないと言い続けた哲人がいた。知者と呼ばれる者たちを訪ね歩いては、問いを重ね、彼らが実は何も分かっていないことを、明るみに出した。そして言った——彼らと自分の、ただ一つの違いは、自分は自分が知らないことを知っている、それだけだ、と。ニコラウスは、その哲人を、深く敬っていた。無知を恥とせず、知の出発点とした、その潔さを。
けれど、と彼は思った。自分が書こうとしているのは、それとは、少し違う。
あの哲人の無知は、いわば、入口だった。知らないと認めることで、はじめて、本当に知ることへ歩き出せる——そういう、知への、謙虚な第一歩だった。無知は、乗り越えられるべきもの、いつか知に変わるべきものだった。けれど、ニコラウスの無知は、入口ではなかった。それは、行き着く先だった。
神という無限の前では、どれほど知を深めても、最後に残るのは、知りえぬという、ただ一つの確かさだ。その無知は、克服されるのではない。その無知こそが、崇高なのだ。知らないと知ることが、出発点なのではなく、いちばん高い、頂きなのだ。
あの哲人は、無知から、知へ登ろうとした。自分は、と彼は思った。知を尽くした果てに、もう一度、無知へ——けれど、いちばん高いところにある無知へ、登っていくのだ。
彼は、あの図形を、書物の中心に据えた。
円と、多角形。多角形は、角を増やすほど、円に近づく。けれど、決して、円にはならない。これを、彼は、有限と無限の関係そのものだと書いた。人の知は多角形であり、神は円である。人は、どこまでも神に近づける。知を深め、角を増やし、限りなく近づける。けれど、重なることは、永遠にない。そして——ここが、彼の到達した、いちばん高いところだった——その「永遠に重ならない」ことを、はっきりと見てとること。それが、人に許された、神への、いちばん近い道なのだ。
彼は、さらに進んだ。
無限においては、と彼は書いた。対立するものが、一つになる。考えてみよ。限りなく大きな円を描けば、その弧は、まっすぐな線と、見分けがつかなくなる。曲がっているものと、まっすぐなものとが、無限の中では、一致する。いちばん大きなものと、いちばん小さなものとが、一致する。すべての対立が、無限という一点で、溶け合う。神とは、その、あらゆる対立が一致する場所なのだ。対立物の一致。多が、一になる場所。
彼が、東の海で抱えていた問い——どうすれば、多は一になるのか——は、ここで、答えを得ていた。教会の分裂も、人と人との溝も、すべての対立は、じゅうぶんに高いところ、じゅうぶんに無限に近いところでは、一致する。彼は、それを、信じることができた。
筆を進めながら、ニコラウスは、ときどき、手を止めた。
奇妙な感覚が、あった。これらの言葉を、自分は、はじめて書いているはずだった。誰も、こんなふうには書かなかった。これは、新しい思想だった。なのに、書きながら、彼は、何かを思い出しているような気がした。ずっと昔に、どこかで、この同じ図形の前に立ったことがある。
そのときは——そう、そのときは、これを書けなかった。書く言葉を、持たなかった。そして、そのことが、なぜか、深く、哀しかった。
彼は、首を振って、その感覚を払った。そして、また、筆を執った。
彼には、分からなかった。
二千年前、別の海のほとりで、一人の若者が、同じ図形——正方形とその対角線——を前にして、立ち尽くしたことを。その若者も、語りえぬものに、触れていた。比で表せぬもの、理性の物差しを超えるものに。けれどその若者は、それを書くことを、許されなかった。口を塞げと、命じられた。これは隠せ、これは存在してはならぬ、と。そして彼は、その真理ごと、海に沈められた。語りえぬものは、彼にとって、呪いだった。世界に開いた、塞ぐべき穴だった。
いま、その同じ語りえぬものを、ニコラウスは、世界に向かって、書いていた。
隠すのではなく。塞ぐのではなく。それどころか、それを、信仰の、いちばん中心に据えて。人の知が永遠に届かないもの、理性が捉ええぬもの——それこそが、神のいる場所だ、と。かつて沈黙を命じられた真理が、いま、声になっていた。かつて闇に沈められたものが、いま、書物となって、世界じゅうに配られようとしていた。
口を塞がれた魂が、二千年かけて、ようやく、口を、ひらいていた。
ニコラウスは、最後の一文を書き終え、筆を置いた。窓の外で、川が、夕日を受けて、銀に輝く。その光を見ても、もう、胸は締めつけられなかった。彼は、ただ、安らかだった。なぜ自分がこれほど安らかなのか、その理由を、彼は、知らなかった。
知らないまま、彼は、満たされていた。それもまた、一つの、学識ある無知だったといえよう。
続く




