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第11場 心臓を川へ

 水は沈め、救い、そして迎え入れる。

 船頭の子は、自らの心臓を、生まれた水へ返した。

 それからの歳月は、闘いだった。『学識ある無知』を書きあげた男に、世界は、静かな余生を許さなかった。


 ニコラウスは、枢機卿の緋の衣をまとい、教会の務めの最前線へと送り出された。彼は、ドイツじゅうを巡り、ゆるみきった修道院を建て直し、堕落した聖職者を叱り、人々に悔い改めを説いた。やがて、アルプスのふもと、ブリクセンの司教の座に就いた。

 そこで、彼は、激しくぶつかった。

 その地を治める公は、教会の領地も、教会の財も、自分の手に握ろうとした。ニコラウスは、引かなかった。神のものは神に、と彼は譲らなかった。争いは年を追って深まり、ついに、公は兵を出した。老いた枢機卿は、城に追いつめられ、囲まれた。


 無限を思索した男が、現実の剣と砦のあいだで、息を詰めていた。だが彼は、その渦中でも、考えることを、やめなかった。


 対立。また、対立だ。

 公と教会。権力と信仰。

 人と人とは、なぜ、こうもぶつかるのか。多は、いかにして一になるのか——若い日に東の海で抱え、書物の中で一度は答えを得たはずのその問いが、老いた彼の前に、もう一度、生身の姿で立っていた。紙の上で対立が一致しても、地上では、剣が振られる。彼は、それを、痛みとともに知った。


 そして、千四百五十三年。報せが、届いた。

 コンスタンティノープルが、陥ちた。

 彼がかつて渡り、写本を集め、東西の一致を願った、あの都。千年の都が、異なる信仰の軍勢に攻め落とされ、聖堂は、別の神を讃える場所に変わった。


 報せを聞いて、ニコラウスは、長いあいだ、黙っていた。彼の願った一致は、剣によって、いっそう遠くへ押しやられた。多は、一になるどころか、血を流して、裂けていた。

 けれど、彼は、絶望に沈まなかった。

 彼は、ふたたび筆を執り、書いた。地上のすべての信仰が、争いをやめ、一つの場所に集う——そんな対話を、彼は紙の上に描いた。さまざまな民が、さまざまな言葉で、さまざまな儀式で、それぞれの神を讃えている。けれど、と彼は書いた。その讃える先にあるものは、一つなのだ。儀式は、いくつもある。けれど、信仰は、一つだ。形は違っても、みな、同じ無限を、別々の角度から、仰いでいる。多角形が、それぞれの辺で、同じ一つの円に触れようとするように。

 対立物の一致を、彼は、最後まで、手放さなかった。世界がどれほど裂けても、じゅうぶんに高いところでは、すべては一つに溶け合う——その信を、彼は、老いの底で、握りしめていた。


 千四百六十四年、夏。

 教皇の務めを帯びて、イタリアを旅していたニコラウスは、トーディという町で、病に倒れた。もう、長くないことは、自分で分かっていた。彼は、枕辺に人を呼び、静かに、遺言を告げた。

 骸は、ローマに葬ってよい、と彼は言った。この身が、どこの土に還ろうと、かまわない。

 ただ、心臓だけは——と、彼は言った。

 心臓だけは、故郷の、クースへ。あの、川のほとりの町へ。私が、貧しい者や、老いた者のために建てた、あの小さな施しの家へ。その礼拝堂の、床の下に、納めてほしい。

 人々は、その願いの、ふかい理由を、訊かなかった。ただ、老いた枢機卿の、最後の望みとして、それを聞き入れた。


 彼は、目を閉じた。

 なぜ、心臓を、川辺へ。彼自身にも、言葉にはできなかったろう。ただ、生涯の最後に、彼の魂は、出発した場所へ、還りたがった。水のほとりへ。あの、銀色に光る水の、流れるそばへ。子どもの頃、わけもなく恐れ、わけもなく惹かれた、あの川のそばへ。


 彼は、知らなかった。

 水が、自分にとって、三度、めぐってきたものだったことを。

 一度目、水は、彼を、沈めた。二千年前、別の名を持っていた魂を、冷たい海が、世界もろとも呑みこんだ。語りえぬものを抱いて、その魂は、光に手を伸ばしながら、底へ沈んでいった。

 二度目、水は、彼を、救い上げた。東の海からの帰り、暮れていく波の上で、同じ語りえぬものが、こんどは啓示となって、彼を下から持ち上げた。沈める水が、救う水に、変わっていた。

 そして三度目、いま、水は、彼を、迎えるのだ。還る場所として。沈めたのでも、救うのでもなく、ただ、生まれた場所へ、抱きとるものとして。彼の心臓は、はるばる運ばれて、あの川のほとりに、納められる。流れる水の、すぐそばで、ようやく、休む。


 船頭の子は、最後に、自分の心臓を、生まれた水へ、返した。

 クースの川は、その日も、変わらず流れていた。葡萄を積んだ舟が、ゆっくりと、上り下りしていた。岸辺の砂の上で、どこかの子どもが、小枝で、丸を描いて遊んでいるかもしれなかった。その丸の内側に、三角を、四角を、描き足しているかもしれなかった。角を増やしても、増やしても、決して円には届かない、その形を。


 水は、光って、揺れていた。

 そして、もう、その光を、恐れる者はいない。

第二部、了。

第三部へ続く。

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