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第12場 アロゴンの反転

二千年を隔てた二対の目。

今、それらがひとつの文のなかで、ひとつの「私」になる。


「私」が見つめた、語りえぬもの。

それは、理性の欠如ではなく、理性を超えたものの徴。

一つの言葉の意味が裏返り、すべてが閉じる。

 ここに、一つの図形がある。

 時も、場所も、なく——ただ、図形がある。


 円があり、その内側に、多角形がある。

 あるいは、正方形があり、その隅から隅へ、対角線が引かれている。

 それは、同じ一つのものだ。

 まっすぐなものと、丸いもの。

 割り切れるものと、割り切れぬもの。

 届くものと、届かぬもの。

 その境目に、語りえぬものが、息をひそめている。


 一人の若者が、それを見つめている。

 地中海の、白い陽光の下。蝋板の上の、小さな正方形。彼は、その対角線を、測れぬまま、見つめている。胸の中は、恐怖でいっぱいだ。彼は知ってしまった。世界に、語りえぬ穴があることを。これは呪いなのか、真理なのか、彼には分からない。分からないまま、彼は、その線を、見つめている。私は、その線を、見つめている。


 一人の老人が、それを見つめている。

 モーゼルの、灰色の空の下。羊皮紙の上の、大きな円。彼は、その内側の多角形を、見つめている。胸の中は、安らぎで満ちている。彼は知っている。人が神に届かぬことを。そして、その届かなさのうちにこそ、神がいることを。これは祝福だと、彼は知っている。知りながら、彼は、その円を、見つめている。私は、その円を、見つめている。


 ——待て。

 いま、見つめているのは、誰だ。

 白い陽光の、若者か。灰色の空の、老人か。蝋板の正方形か、羊皮紙の円か。対角線か、多角形か。恐怖か、安らぎか。呪いか、祝福か。


 その問いの、ちょうど真ん中で、二つの視線が、重なる。

 二千年を隔てた、二対の目。それらが同じ一つの図形の上で、一つになる。若者の目が見ているものを、老人の目が見ている。老人が安らぐその場所で、若者が震えている。震えるその場所で、安らいでいる。二つの「見つめる」が、溶けていく。一つの「私」に。


 私は、対角線を見つめている。私は、円を見つめている。私は、それを恐れ、そして、崇めた。

 私は、海に沈んだ。私は、海に救われた。

 私は、口を塞がれた。私は、世界に語った。

 同じ私、一つの私が。二千年をかけて、同じ一つの図形を、見つめつづけてきた。届かないものを。語りえぬものを。近づいても近づいても、永遠に手の届かない、あの境目を。


 一度は、それが、私を殺し、一度は、それが、私を、生かした。

 けれど、見つめていたのは、いつも、同じ私だった。同じ問いだった。同じ、たった一本の線だった。


 風が吹く。

 地中海の砂の上の正方形が、消える。モーゼルの川辺の円が、消える。

 蝋も、羊皮紙も、陽光も、空も、何もかも。残るのは、図形だけだ。

 時のない、場所のない、ただ一つの図形。

 円と、それに届かない多角形。正方形と、その語りえぬ対角線。

 そして、それを見つめる、一つの、まなざし。



 アロゴン、という言葉がある。

 遠い昔、ギリシアの人々が、使った言葉だ。比で表せぬもの。


 けれど、その一語には、もっと深い響きがあった。ロゴスを欠くもの。

 ロゴスとは、比であり、言葉であり、理性であり、世界を語り、捉え、理解する、その力のすべてだった。だからアロゴンとは——語りえぬもの。理を欠くもの。言葉の光の、決して届かぬもの。


 はじめ、それは、呪いの言葉だった。

 一人の若者が、その呪いを、掘り当てた。

 世界は数の調和であると信じていた人々の、その信仰の、いちばん聖なる場所——正方形の、対角線の中に、ロゴスの及ばぬものが、潜んでいた。語れるはずの世界に、語りえぬ穴が、開いていた。それは、あってはならないものだった。世界の秩序の、裏切りだった。だから人々は、それを、隠した。塞いだ。そして、それを見つけた者を、海に沈めた。アロゴンは、闇に、葬られた。


 語りえぬものは、語ってはならぬものに、された。


 それから、二千年が、流れた。

 その間、語りえぬものは、消えなかった。消せるものではなかった。それはずっと、世界の底に、ありつづけたのだ。正方形の対角線の中に。円と多角形の隙間に。人の知の、いちばん先の、その向こうに。


 誰かが見つめては、恐れ、目をそらし、また誰かが見つめた。

 語りえぬものは、忍耐づよく、待っていた。それを、別の言葉で呼んでくれる者を。


 そして、一人の男が、現れた。

 彼は、同じ語りえぬものの前に立った。彼は、震えなかった。彼は、ひざまずいた。

 そして、言った――これは、欠如ではない。これは、ロゴスが力尽きた場所ではない。これは——ロゴスを、超えた場所だ。

 人の言葉が届かぬということは、そこに何もないということではない。むしろ、人の言葉では捉えきれぬほど、大きなものが、そこにある、ということだ。


 理性が論じきれぬということは、そこが空っぽだということではない。理性よりも高いものが、そこにある、ということだ。語りえぬものは、言葉の貧しさの徴ではない。それは、言葉を超えた、いちばん豊かなものの、徴なのだ。


 アロゴンは、反転した。ロゴスを欠くもの、から、ロゴスを超えるものへ。


 理性の失敗から、理性の、行き着く頂きへ。塞ぐべき呪いから、崇めるべき神秘へ。世界に開いた、奈落の穴から、無限へと開いた、ただ一つの窓へ。


 二千年前、その穴は、一人の若者を、世界もろとも、呑みこんだ。

 いま、その同じ穴が、一人の老人にとって、神へと通じる、いちばん確かな道に、なっていた。


 同じ、語りえぬもの。

 同じ、一つの図形。

 同じ、一つの魂が、見つめてきた、同じ、一つの真理。


 それが、二度の生のあいだに、呪いから、祝福へと裏返る。

 沈黙から、声へ。恐怖から、安らぎへ。


 若者が、答えを知らずに沈めた問いに、老人が、答えを知らずに、答えていた。

 二人はついに、出会わなかった。二千年の隔たり。けれど——その隔たりのうちにこそ、一つの魂の、長い、長い旅が、畳みこまれていた。問いと、答え。沈むことと、救われること。塞がれた口と、ひらかれた口。離れた二つの生が、合わさって、はじめて、一つの、完全な意味になった。ちょうど、まっすぐな対角線と、丸い円とが、無限のかなたで、一致するように。


 水が、光って、揺れている。


 地中海の、冷たい海。モーゼルの、静かな川。それは、二つの違う水だ。けれど、底の底では、同じ一つの水だ。沈める水と、救う水と、還る水。その表面で、光が、銀色に、揺れている。


 誰かが、その水のほとりに、しゃがんでいる。

 砂の上に、図形を描いている。

 円を一つ。その内側に、多角形を。あるいは、正方形を一つ。その隅から隅へ、対角線を。


 角を増やしても、増やしても、円には届かない。どれだけ細かく測っても、対角線は、割り切れない。

 その手は、休むことを、知らない。

 その目は、語りえぬものを、見つめている。

 そして、もう、恐れては、いない。

 水が、光って、揺れている。


 水が、光って、揺れている。

 水が、光って、揺れている。

 それを見つめた目は、揺れる光へと溶けていった。


 時も、場所もない、一つへ。

 この物語の背骨になっている「輪廻」は、もちろんフィクションです。

 ヒッパソスとクザーヌス——二千年を隔てたこの二人が同じ魂だったなどという証拠は、どこにもありません。けれど、それを組み立てた材料は、多くが本物の史実です。書いているあいだ、私はなんども、史実のほうが私の空想を先回りしているような、不思議な感覚におそわれました。


 ヒッパソスについて、確かなことはほとんど分かっていません。紀元前五世紀の初期ピタゴラス派の一人だったらしいこと、メタポンティオンの人と伝えられること。そして、無理数(比で表せない量)を発見した、あるいは正十二面体の作図法を外に漏らした罰として、海に沈められたという伝説。これらはみな、ずっと後の時代に書かれたものです。溺死の話そのものが、後世の作り話かもしれません。だから私は、その不確かさを、むしろ自由に書ける余地として使わせてもらいました。確かなのは、彼らの世界観にとって無理数が本当に深刻な脅威でありえた、という思想の歴史のほうです。


 一方、ニコラウス・クザーヌス(一四〇一〜一四六四)については、事情がだいぶ違います。彼はよく知られた歴史上の人物で、この物語が「史実」として描いたことの多くは、実際にあったことです。彼はモーゼル川のほとりの町クースに、船を商う家の子として生まれました。パドヴァで教会法を学び、生涯の友トスカネリと出会いました。一四三七年から翌年にかけて、東西の教会を再び一つにするための交渉に加わり、コンスタンティノープルへ渡っています。そして——ここがこの物語の心臓部なのですが——彼は主著『学識ある無知』の献辞のなかで、その思想の核心が、ギリシアからの帰りの航海のさなかに「天からの贈り物」として訪れた、と自分で書き残しているのです。海の上の啓示は、創作ではありません。彼自身の証言です。


 円のなかに描いた多角形が、どれだけ角を増やしても決して円には届かない、というあの比喩。対立するものが一つになるという「対立物の一致」。中心を持たない宇宙という、時代をはるかに先んじた直観。これらはみな、彼が実際に書いたことです。晩年、コンスタンティノープルが陥落(一四五三)したあとに、さまざまな宗教の調和を願う『信仰の平和』を著したことも、史実です。そして彼は一四六四年にトーディで亡くなり、遺体はローマに葬られましたが、心臓だけは、故郷クースの——彼自身が貧しい人や老いた人のために建てた施療院の——礼拝堂に納められました。その施設も、彼の蔵書を収めた図書館も、いまもクースに残っています。


 物語の作者として私がしたことは、これらの事実のあいだに、一本の細い糸を通しただけです。ヒッパソスを葬った「語りえぬもの(アロゴン)」と、クザーヌスが神を見いだした「知りえぬもの」とが、同じ一つの図形だったということ。その符合に、魂の連続という意味を与えたこと。物語に私が付け加えたのは、本当にそれだけです。


 なぜ、この二人だったのか。無理数の発見は、しばしば数学史上の悲劇として語られます。でも私は、それを悲劇のままで終わらせたくありませんでした。語りえぬものに触れて滅びた魂が、二千年をかけて、同じものを今度は祝福として抱きしめ直す——「アロゴン」というたった一つの言葉が、「理性の欠けたもの」から「理性を超えたものの徴」へと裏返っていく、その道のりを書きたかったのです。深い淵を前にしたとき、人はそこに新しい大地を測り直すこともできれば、淵そのものを聖なるものとして崇めることもできます。クザーヌスは、後者の道を、誰よりも美しく歩いた人の一人でした。


 哲学史家のエルンスト・カッシーラーは、ルネサンスの思想はクザーヌスから始まる、と書きました。古代の海に沈んだ一つの問いが、彼のなかで、近代へと開く窓に変わった——そう思うとき、二千年という隔たりは、もう空っぽの空白ではなく、一つの魂がたどった長い旅路のように見えてきます。それを信じるかどうかは、どうか、あなたにゆだねたいと思います。


 いまもどこかの水のほとりで、一人の子どもが、砂に円を描き、その内側に多角形を描き足しているかもしれません。角を増やしても、増やしても、決して円には届かない、あの形を。その手は、休むことを知りません。——その光景だけは、作りごとでも史実でもなく、ただ、本当のことのような気がするのです。

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