第2場 対角線
一本の線に抱いた素朴な疑問が、やがて世界を覆す深刻な問いに変わっていく。
はじまりは、ひとつの作図だった。
その日、私は一辺の長さの決まった正方形を蝋板に起こし、その対角線を引いていた。何のための作図だったかは、もう覚えていない。たぶん、ごくありふれた課題だった。けれど対角線を引き終えたとき、私は素朴な問いにとらわれた。——この一本の長さは、一辺の何倍なのだろう。
答えはあるはずだった。世界は数の比でできている。同じ一つの正方形から生まれた、もっとも近しい二つの長さが、きれいな比で結ばれていないはずがない。私はただ、その比を見つければよかった。
その夕、輪が解けたあとで、私は師のそばに残り、おそるおそる尋ねた。正方形の対角線は、一辺の何倍にあたるのでしょう、と。
師は、私の蝋板をのぞきこみ、やわらかく微笑んだ。よい問いだ、と言うように。そして、少しも迷わずに答えた。むろん、ある比で表せる、と。すべての長さは比で結ばれている。世界に、比をもたぬ長さなど一つもない。もし二つの長さが目で見て一つの物差しで割り切れぬように見えても、それは物差しがまだ粗いだけのことだ。細かくしていけば、必ずどこかで両方にぴたりと収まる、共通の一本に行き着く。そこに見いだされる個数と個数の比——それがその長さの真の姿だ。長さとは、つまるところ数なのだから。
師はそれを、叱るのでも難しがるのでもなく、子に道を教えるように説いた。その声には、夜明けの弦と同じ澄んだ確信があった。私は深くうなずいた。そうだ、ただ物差しを見つければいい。
私はそのやり方を、もう知っていた。
共通の物差しを見つければいい。一辺にも、対角線にも、ちょうど何回ぶんかぴったり収まる、小さな一本の長さ。それが見つかれば、一辺はその物差しの何個ぶん、対角線は何個ぶん、と言える。両者の比は、その個数と個数の比になる。これまで私は、どんな二つの長さに対しても、この物差しを見つけてきた。少し細かくすれば、必ずどこかで割り切れた。世界はそういうふうにできていた。
私は一辺を取り、対角線の上に重ねた。対角線のほうが長い。はみ出した端切れが残る。次に、その端切れで一辺を測る。何回か収まって、また端切れが残る。今度はその新しい端切れで、前の端切れを測る——こうやって、互いを互いで測り合っていけば、いつか割り切れる。最後にぴたりと収まる、いちばん小さな物差しに行き着く。そこで止まる。いつもそうだった。
ところが、意外なことに、これが止まらなかった。
端切れが、また端切れを生む。それをさらに小さな端切れが生む。測っても測っても、必ずわずかな余りが残り、その余りがまた次の余りを連れてくる。私は手を止め、目をこすった。どこかで数えそこねたのだ。指がすべったか、線が太すぎたか。
私は蝋を均し、はじめからやり直した。今度はもっと慎重に、もっと細い線で。
しかし、また、止まらなかった。
日が傾き、誰かが私を夕餉に呼んだ。私は生返事をした。輪のほうから師の声が聞こえていたが、その日はじめて、私の指は砂に四角を描かなかった。私は蝋板に四角を描いていた。同じ四角を、何度も。そしてそのたびに、対角線が、私の物差しをすり抜けていった。
夜になった。私はランプを灯し、続けた。
近づいている手応えは、ある。物差しを細かくするたびに、余りは小さくなる。あと少し、もうあと少しで、ぴたりと収まるのだと思う。指のすぐ先にそれがある。私は何度もそう感じた。けれど、その「あと少し」が、決して尽きなかった。余りは小さくなりながら、決してゼロにならない。近づくのに、届かない。手を伸ばすたびに、同じだけ遠ざかる。
深夜、ランプの油が減っていくころ、私はあることに気づいて、ぞっとした。
もし本当に物差しが見つかるのなら、私の作業はどこかで終わるはずだ。終わらないのは、私が下手だからだ。
——だが、もし。
もし、終わらないことのほうが、答えなのだとしたら。物差しが小さすぎるのではなく、はじめから、どんな物差しも存在しないのだとしたら。
その考えが頭をよぎった瞬間、足元の床が、すっと薄くなった気がした。
ばかな、と私は声に出した。そんなはずはない。一辺と対角線だ。同じ正方形の、隣り合う二つの長さだ。世界は数でできている。すべての長さは比で結ばれている。師がそう説き、私の耳がそれを毎朝のように確かめている。比のない長さなど、語りえない長さなど、あってはならない。あるはずがない。それは、世界に穴が開いているのと同じことではないか。
私は震える手で、もう一度物差しを当てた。余りが残った。さらに細い物差しを当てた。やはり余りが残った。
私は熱心な門人だった。だから私は、自分が間違っているのだと信じた。信じようとした。夜が明けるまで、私は蝋板の上で、同じ正方形に物差しを当て続けた。指がいつも何気なく引いていた、あの一本の対角線に。それは私の幸福のごくありふれた一部だったはずのものだ。その何でもない一本が、いま、私の灯りの下で、底のない井戸のように口を開けていた。
外で、夜明けの弦が鳴った。
いつもなら、その音は私を世界とつないでくれた。けれどその朝、澄んだ五度の響きは、遠い別の家から聞こえてくるもののように、私には届かなかった。
私はランプを吹き消し、誰にも見られないうちに、蝋板の四角をぬぐい消した。
続く




