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第1場 調和の家

クロトンは、現在でいえばイタリア南部。

長靴形をした地図の「つま先」にあたる港町で、イオニア海に面している。

哲人ピタゴラスの下、そこで音楽と数学を学んだヒッパソス。

世界が完全だと信じられた、その最後の浄福。

第一部 ヒッパソス —— 問い


第1場 調和の家


 朝はいつも、弦の音から始まった。

 クロトンの家では、夜明けに誰かがモノコルドを鳴らす。一本の弦を張っただけの、貧しいほど簡素な楽器だ。けれどその一本にさえ、世界のすべての秩序が宿っていると私たちは信じていた。指で弦の中ほどを押さえ、ちょうど半分のところで鳴らす。すると、もとの音の一オクターヴ上が澄んで立ちのぼる。二対一。三分の二のところを押さえれば、五度が鳴る。三対二。四分の三なら、四度。四対三。


 数が、音になる。比が、美しさになる。


 私はこのことを、言葉で覚えたのではない。耳で、指で、胸の奥で覚えた。協和音が鳴るたび、私の体の中で何かがほどけて、世界とつながるように思える。

 なぜ美しい音は美しいのか。それはその音が、単純な数の比でできているからだ。汚れた比、複雑な比は、耳に濁って聞こえるし、澄んだ比は、澄んで聞こえる。耳は数を聴いているのだ。私たちは知らずに、いつも数を聴いて生きている。


 (ピタゴラス)はそれを、こう言った。万物は数である(パンタ アリトモス)、と。

 はじめてその言葉を聞いたとき、私はまだ若く、それを大げさだと思った。星や、海や、人の魂までが、どうして数でできていようか。けれど家で過ごすうちに、私はそれが誇張でないことを、少しずつ体で理解していった。音がそうだった。形がそうだった。一年の巡りも、月の満ち欠けも、潮の満ち引きも、すべてが数の比のうちに収まっていた。


 世界は、でたらめに散らばった石くれの山ではない。世界は、調律された竪琴だった。


 私たちはそれを、ロゴスと呼んだ。


 ロゴスとは比のことだ。けれどロゴスとは、同時に言葉のことだった。(ことわり)のことだった。何かが比で表せるということは、それが言葉で語れるということであり、理性で捉えられるということだ。逆に言えば——世界が数の比でできているからこそ、私たちはそれを語ることができ、考えることができ、知ることができる。比こそが、世界と私たちの精神とを結ぶ橋だった。その橋の上を、言葉が、理性が、自由に行き来していた。


 だから私は幸福だった。


 この幸福を、どう伝えればいいだろう。

 私たちの幸福は、何かを手に入れる幸福ではなかった。世界がすでに完全であること、その完全さの中に自分も含まれていること——それを日ごとに確かめていく幸福だった。

 家には沈黙の戒律があり、新参の者は何年も口をきくことを許されなかった。けれどその沈黙は、罰ではなかった。耳をすますための沈黙だった。世界が鳴らしている数の和音を、聴き漏らさないための。


 私たちは肉を断ち、豆を避け、財を分け合い、夜明けに弦を鳴らした。それを禁欲と呼ぶ人もいたが、私たちにとって、それは調律なのだった。濁った音を立てないよう、自分という一本の弦を、世界の和音に合わせていく。それが浄めだった。

 魂は何度も生まれ変わる、と師は説いた。この生で自分をよく調律した者は、次の生でより澄んだ音に生まれる。だから、数を学ぶことは、ただの学問ではなかった。それは救いの道そのものだった。世界の調和を知れば知るほど、魂はその調和に近づいていく。知ることは、救われることだった。


 私は熱心な門人だった。誰より早く起きて弦を鳴らし、誰より遅くまで蝋板に向かった。形のことを学ぶのが好きだった。三角形、四角形、五角形——どんな形も、数の言葉で語ることができた。辺と辺の関係、角と角の関係、それらはきれいな比のうちに畳み込まれていた。私は(ろう)板の上で図形を組み立てては、その奥に隠れた数を掘り当てる。掘り当てるたびに、世界がまた一つ、私に向かって口を開いてくれる気がした。


 いちばん幸福だったのは、何でもない時間だ。

 夕方、仕事を終えた門人たちが中庭に集まり、師を囲んで座る。誰かが低く問いを発し、師が答える。私はその輪の端に腰を下ろし、声を聞くともなく聞いている。言葉が交わされ、沈黙が落ち、また言葉が交わされる。世界が静かに調律されていく時間。私はそこにいるだけで満たされていた。

 そういうとき、私の指は、足元の砂をなぞっている。聞き入りながら、考えるともなく、指先が地面に線をひく。小さな四角をえがく。隅から隅へ、対角線を一本すうっと渡す。やがて風が来て砂を撫で、四角が消えると、私は気づかぬうちにまた同じものを描いている。


 自分が何を描いているのか、私は一度も考えたことがなかった。ただの手なぐさみだった。師の声を聞きながら、四角を描き、対角線を引く。それだけのことが、私の幸福の、ごくありふれた一部だった。

 一度、隣の老いた門人が、私の手元をのぞきこんで静かに微笑んだことがある。「お前の指は、休むということを知らんな」と彼は言った。私も笑った。


 そのときの私は、まるで分かっていなかった。

 あの一本の対角線が——四角の、隅から隅へと引かれたあの何でもない一本の線が——やがて私の世界をすべて沈めてしまうことを。あの線の長さの中に、ロゴスの及ばぬもの、言葉でも数でも永遠に捉えられないものが、息をひそめて待っていることを。


 私は知らなかった。

 まだ、何も。

 ただ夜明けには弦が鳴る世界は数の比で澄みわたり、私は幸福だった。指は砂の上で、休むことを知らずに、四角を描いていた。

続く

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