第九十八話 The last day of the break(連休最終日)
「あっ!ヤダ〜虫に刺されてる」
洗面所から聞こえた声に、ビクッとした享。
とりあえず洗面所に向かう。
「どこどこ?」
「ここ、ほら赤くなってるよね?」
『やっぱり、そこか……』
昨日、つい着けてしまったキスマーク。
気持ちが入り過ぎた事は反省しつつも、そこまでで思い留まった自分を褒めたい享だった。
「ここに薬とか入ってるから、ちょっと失礼」
灯を後ろに下がらせる。
洗面所の鏡が扉になっていて、そこを開けると痛み止め、風邪薬、胃腸薬、絆創膏、消毒薬はもちろんかゆみ止めも入っていた。
そこから虫用のかゆみ止めを取ると、また扉を閉める。
「ほら、見せて。薬を塗るから」
「ここ」
灯が、着ていた服の襟を少し広げて、左の首筋の下、坐骨の前あたりを見せた。
そして、享がそこにかゆみ止めを塗った。
「さあ、もうこれで大丈夫。すぐ良くなるよ」
「でもさぁ、赤いけど何だか痒くはないんだよね」
「そういう事も、あるんじゃない」
「そうなのかなぁ、でもこれで治るよね?」
「赤みが引けば治るでしょ」
「ありがと、Tall!」
そう言って、灯はリビングに向かった。
その後を享は追いつつ、心の中で『ごめん、灯』と思っていた。
朝ご飯の後、二人は連休最終日、何をするか悩んでいた。
汐恩の様に提出するレポートがあるわけでもない。
何故なら、自習休講だったから当たり前だ。
「少し陽射しも強くなってきたから、灯もサングラス買おっか?」
「え?必要かな?」
「目は大事にしておかないと、見えないって大変でしょ」
「確かに……近眼だしね」
普段、灯はコンタクトレンズを使っている。
家では、眼鏡を使ったり、使わなかったり、そこまでひどい近視でもない。
それでも、高校時代までは、眼鏡をつけっぱなしで、本当に目立たない子だった。
大学生になって、コンタクトレンズを使い始めて、その見え方に感動したため、そのまま使ってはいたが、そのことが大学生デビューになるとは思っていなかった。
「サングラスしちゃうと、ちょっと見えにくかったりしちゃうんだよね。この間、享のサングラス借りた時、そう思ったんだけど」
「そうか……まぁ人それぞれだもんね。そろそろ日差しが強くなると、僕には眩しいんだよね」
「そうなんだ」
「じゃあどうしようか最後の日だから、ちょっと位出かけたいと思ったけど」
「じゃ、前に住んでたところに散歩に行かない?」
「ああ、それもいいね」
「じゃ決まり!」
そこは東横線の沿線、白楽。
六角橋商店街はたくさんの店が軒を連ねた長屋風の商店街。
灯は子供の頃、買い物に来ると店員に可愛がられたり、からかわれたり、色々だった思い出が蘇る。
本屋で"きいち"の塗り絵を買って貰ったのも、いい思い出だ。
灯と享が住んでいたのは、駅から見ると、その反対側にある映画館・白鳥座の横の高台の篠原西町・篠原台町方面へと伸びる坂道を上って行く。
静かな邸宅街と緑豊かな篠原園地がある、高級住宅街と呼ばれる場所だった。
手を繋ぎながら、歩く二人。
「白鳥座で観た初めての映画が白雪姫だったよね」
「そうだね。懐かしい」
歩きながら、子供の頃を思い出す。
「こんなに近いのに、引っ越してすぐの時には遠いって思ってた」
「子供だったから、歩くスピードとかも違うからかもね」
「あ、そうか……そうだね、きっと」
享は、ちょっと聞いてみたい事があった。
「あのさ、クリスマスに毎年ここに来てたの?」
「え?次の年には、もう来なかったよ」
「本当に?」
「う、うん」
「来てたんだね、本当は」
「お母さんが心配するから、内緒で……でも、琢磨が生まれて、私面倒見る係になっちゃったから、来られなくなっちゃったんだよね」
「そっか」
「あ、琢磨のせいな訳じゃないの。私が諦めたの、もう享は来られないんだって、そう思ったの」
いつも思っていた、この道路は不思議と人と行き合わない。
人気がいつもない。
だからと言うわけではないが、享は立ち止まると灯を抱きしめた。
「ごめん、本当にごめん。僕があの時来られてたら
もっといろいろ違ってたはずなのに」
「時間をかかったけど、今こうして一緒にいられるから、だから……」
「もっと早く会えたかもしれないのに」
「でも、大学生になってたから、こんなふうに一緒にいられるのかもしれないし」
灯が言う事も一理ある。
確かに子供同士で会ってたら、また別れが辛くてお互い、それが原因で会わなくなっていた可能性もあったかもしれない。
また歩き出した二人は、ようやく篠原園地に辿り着いた。
篠原園地は、もともと旧県知事公舎の庭園だった部分。大きな樹木や遊歩道、芝生広場があり、木漏れ日の中を少し歩いて散策するのにちょうど良い、奥行きのある広さがあった。
そしてその園地に隣接する白幡池公園は大きな白幡池を中心とした公園。池の周りをぐるりと歩くだけでもかなりの満足感があり、緑と水辺が一体となったゆったりとした空間が広がっていた。
遊具がある様な公園と言うよりも、森が街中にある様なイメージの場所だ。
「こんなとこだったっけ?」
「こんなとこだったね」
「もしかして、ここから歩き始めて白幡公園抜けたら、小学校も近い?」
「のんびり歩いたら、時間はかかるけど……気持ちがいい風も吹いてるし、本当に散歩日和だね」
「じゃ、終点は小学校って事で」
「O.K.」
篠原園地の中の遊歩道を歩き始めた。




