第八十八話 Cherry blossom viewing.(お花見)
春が来た。
あんなに寒かった冬が過ぎたと思ったら、ふんわりと春がやって来た。
日中は陽差しがポカポカと暖かい。
今年はいつまでも寒さが残っていたせいか、四月も十日を過ぎてからが満開となり、その桜の花に誘われて、大学から戻った二人は目黒川沿いを散歩することにした。
「意外と陽差しが眩しいね」
「そうだねって、ごめん。僕だけShadesしちゃって」
「シェイズ?」
「あ、サングラスのこと」
「へー、そう言うんだ」
「まあ、日本語だったら口語?って感じかな」
「口語か……やっぱり英語にも、そう言うのあるんだね……」
灯は思うところがあるのか、ちょっと考え込んでいる。
「どうしたの?」
享が声をかける。
「あ、うん。イカ焼き……」
「イカ焼き?」
「目黒不動尊はさ、毎月二十八日がお縁日の日だから、その時には屋台がいっぱい出るけど、今日はないんだろうなぁって」
「先月の縁日の日じゃ、桜はまだ咲くか咲かないか?だったもんね。って言うか、去年の話、まだ引きずってんの?」
「だって食べたかったんだもん」
享が何か考えこんでいる。
「イカ焼き、焼こう!」
「え?家で出来るの?」
「ちょっと思いついた。イカ買って帰ろう!」
「あ」
「ん?」
「たこ焼きも……」
「たこ焼きはダメ!食べるなら野菜多めのお好み焼き!」
「えー!違うもんじゃん!何で?たこ焼きだってショウガ入ってるし!」
灯がわめく。
「キスするよ」
「え!?」
「何なら、お姫様抱っこもしてからキスする」
「分かった!お好み焼きがいい!お好み焼きバンザイ!」
ごねても、享は何だかんだで灯の身体の心配をしてくれる、灯はそれはそれで本当は嬉しかった。
部屋に帰ると、享がいつもの通り灯に先にお風呂に入るように促す。
その間に夕飯の支度をする享。
リビングに戻って来た灯は鼻をヒクヒクさせながら、嬉しそうに言う。
「何?この香ばしい匂いは!!」
「髪は?」
「乾かして来ました!」
「自分でやっちゃったの?」
「だってTallのイカ焼きが気になって、焼きたてが食べたい!」
「キチンと乾いてんのかなぁ……」
享はキッチンに入って来た灯のを抱き寄せると髪に顔を埋める。
「もう!乾いてるって!それよか早くイカ焼き!」
「灯は食い気か……」
呟く享の声は灯には届いていなかった。
ベランダにシートを敷き、キャンプ用のテーブルと折りたたみ椅子を二脚出して対面に置く。
そして、そのテーブルの上にホットプレートを置いた。
もう一つの隠し玉は、七輪だった。
キャンプ用品の大袈裟にならない必需品だと享は言った。
木炭に火を起こし、ちょうどいい具合の火加減になって網が熱くなった所で、享は烏賊の頭つきと、ゲソを分けて乗せた。
ジュワッと音がして、醤油の匂いとは違うイカ焼きの香りがただよう。
ホットプレートの上では、いろいろな具材が入ったタネに、刻みキャベツ、薄切り豚バラを乗せて焼き始めている。
夜風にはまだ少し冷たさが残っていたが、見上げる星空は冬の角が取れたようにやわらかく、薄いヴェールを被った月が静かに街を照らしていた。
「灯、本当に寒くない?」
「こんだけ着てて寒い訳ないよ。って、Tallの方が、薄着過ぎるでしよ?カーディガンくらい羽織ってよ」
灯は、お気に入りの耳つき帽子にパジャマの上から、フード付きトレーナー、腰回りにはお昼寝毛布を巻かれて、毛糸の靴下も履かされていた。
一方、享はシャツにジーパン。
「七輪の近くは暑いんだよ」
「でも、腕まくりしてるんだからヤケドとか気をつけてね」
「心配してくれるの?」
「もちろん!私の為にTallがケガでもしたら……考えただけでも泣きそう」
「大袈裟だよ……ちょっと、本当に泣いてんの?」
灯は最近、感情の起伏が激しい。
自分でも分からない時にスイッチが入ってしまうことがある。
慌てて享は、烏賊をひっくり返し、ホットプレートの上の空いているところに卵を一個落としたあと、ちょっと切れ目を入れて菜箸でグルリとひと回しした後、その上にお好み焼きをひっくり返して乗せた。
そして灯の隣に跪くと灯を胸に抱き寄せた。
「心配ないよ灯。今まで料理してて僕が怪我したことなんてないじゃない。それより、ほら空を見て」
「ん?どれ?」
「あそこ」
享の指が指す方を見る灯。
「春の夫婦星。オレンジ色に煌めく東の アークトゥルスと、青白く可憐に光るスピカだよ。僕達みたいじゃない?」
「え??……あ!Tall!ゲソが焦げてる!」
「あー、はいはい」
『やっぱり灯は食い気で元気な方がいい』
「はい、イカ焼き、お待たせ!」
「はい!頂きます!」
灯はハフハフ言いながら、綺麗に享が後から串刺しにしたイカ焼きに齧り付いた。
「ん!!」
「どう?」
「んんー!?」
「自分の分も焼かなきゃだった」
「美味しいっ!何で?この味出せるの?」
「秘密」
「秘密かぁ!ま、いいや、またTallに焼いて貰えばいいんだもんね!」
「そうだね、またね……」
美味しそうにイカ焼きを食べる灯を見ながら、お好み焼きに、享的には"ブルドッグとんかつソース"が一番合うからと、たっぷりかけた後、荒削りの鰹節をこんもり振りかけると、切り分けて灯の前にプレートに乗せたまま一切れ差し出す。
「保温にしたから、温かいまま食べられるよ」
「そっか、じゃ、こっちにイカを一旦置いといて」
ホットプレートの空いてるところにイカ焼きを置く。
「お好み焼きも食べちゃお!……直箸でいいの?」
「その為に割り箸にしたんだから、いいに決まってるよ」
「さすがTall!」
お好み焼きの土台は、山芋、卵、小麦粉、牛乳と水。その中に竹輪と長ネギのみじん切りが入っている。フワッとした食感の上にキャベツと少し焦げ目のついた豚バラ、玉子焼きの相性は抜群だった。
「お好み焼きにとんかつソースって、甘くて美味しいね!」
「お嬢様のお口に合った様で何よりです」
「ついでにイカ焼きの味付けも教えてよ、爺や」
「何で爺や?」
「爺やっぼかったから!」
灯は大笑いした。
享は苦笑いしながら答えた。
「麺つゆだよ」
「え?麺つゆって、あの冷麦とか素麺とかに使う?」
「そう、少し漬け置きしておくだけ」
「信じられない……Tall!天才!」
「何か、急に降りて来た」
「もしかしたら?って?」
「そう」
階下の住人達が、"旨そうな匂いさせやがって"と、思っていたのを二人は知らない。




