第八十三話 What are you up to?(こそこそ何してんの?)
その晩。
三月の中旬には進級発表がある為、十五日以降をメドに一度大学に行く必要はあるが、明日から春休みに入る為、一ヶ月半ほど自由だ。
享がソファで洋書を読みながら、ダイニングテーブルに新聞を広げている灯に話しかけた。
「明日から何しよっか?」
「うーん、散歩?」
「毎日?」
「そう」
「そう言えば、朝、付き合うって言ってたジョギングも三日坊主だったよね」
「だってTallの距離は無理だって」
「長過ぎた?」
「朝から三キロも走ったら、痩せちゃうよ」
「あ、それはマズイな」
「でしょ」
「うん、そうか……」
話が途切れた。
享に、明日渡したいバイク用手袋のことで、灯の頭の中はいっぱいだった。
そのまま渡したくないから、こうしたいという発想を実現したくて、ウズウズしていたが、享と一緒にいるとそれも出来ない。
何とか享だけ、どうにか出来ないものかと考えていると、享の方から、また声を掛けて来た。
「今日の晩ご飯だけど、ビーフシチューはどう?」
「え、いいね!」
「じゃ、買い物行かない?」
「買い物?」
「うん、牛肉のかたまり肉が欲しいんだよね」
「……えっと、あのね……ちょっと喉が痛い気がするんだよね」
「え?風邪ひいた?」
「わかんないけど、私、お留守番したいかな」
「……お留守番」
「だって外寒いし」
「分かった!じゃ、薬飲んで、ちょっと横になったら?その間に僕だけ急いで行ってくるから」
「あ、うん」
「ほら、薬、薬!早めが効くんだから」
享が救急箱から風邪薬を出す。
灯は一人になりたい口実だったのに、痛くもない喉のために風邪薬を飲んで、パジャマに着替えさせられてベッドに寝かされた。
「じゃ、行ってくる。いい子にしててね」
おでこにキスすると享はベッドルームから出てドアを閉め、玄関を出て施錠した音がした。
その後、灯はベッドから抜け出し、玄関に享の靴がない事を確かめた。
享へのバレンタインのプレゼントの革のバイク用手袋に、灯は享の瞳の色の海の色の刺繍糸を使って、小さなハートを刺繍しようと考えたのだ。
革に針を入れるのは苦戦しそうだが、やりたいと思ったら止められなかった。
とりあえず利き手の左手の方の手首の外側に一個だけ頑張ることにした。
始めにニードルで、ハートの形にクロスステッチができる様に小さく穴跡をつけた。
それでも最初の一刺しをいれるのに革の厚みが邪魔をする。力仕事になり簡単なクロスステッチ※でありながら、全くラチがあかない。
半べそをかきながら、そろそろ享が戻って来てしまうと思って、二段目の途中で針を止めた。
しばらく経って、静かにベッドルームのドアを開ける音がした。
灯は寝たふりをする。
享は、そのままドアを静かに閉めた。
灯は、あの続きをどうするか?で頭の中がいっぱいだったが、今日一日で色々やり過ぎたせいなのか、うとうとして本当に眠ってしまった。
ビーフシチューのいい香りがして目が覚めた灯。
ベッドルームからリビングに入る。
カウンターキッチンの中から享が話しかけて来た。
「どう?喉は?」
「うん、お薬効いたみたい」
「良かった!春休み早々、風邪で寝込みましたじゃ、可哀想だし、つまんないもんね」
「そうだよね……心配させてごめんね」
「いいよ、心配するのも嬉しいから」
「え?」
「それだけ近くにいるって事だからね」
灯は享に言われて『嘘をついてゴメンなさい』と心の中で謝った。
夜中、享が眠るのを待って、灯はベッドをこっそり抜け出すと、洗面所にこもって例の作業の続きをする。
苦戦しながらもコツが分かり、終わりが見えた灯は独り言を呟く。
「Tallより後に寝るなんで初めて……寝顔も初めて見た。寝顔もカッコいい……ふふ」
「誰がカッコいいって?」
後ろから声を掛けられる。
ドアが開いた音に気づかなかった灯は、物凄い勢いでビクッとして肩を揺らした。
恐る恐る、後ろを向くと、ドアを半開きにして柱に寄りかかって享が立っていた。
『あと、一目なのに……』と思いながら灯は来ていたカーディガンの下にバイク用手袋を隠す。
「夕方、寝ちゃったからかな?眠れなくて……」
享は中に入り灯の前にしゃがむと、灯の裁縫箱を見て、こう言った。
「風邪気味なのに、お針仕事するならリビングで暖房入れてすれば良いでしょ?」
「電気つけたら、ドア越しに灯がベッドルームに入っちゃうと享を起こしちゃうと思って……」
「風邪こじらせたら、どうすんの?」
「ごめんなさい、でも、もうお終いにするから、Tallは先に寝て」
「え?やだよ」
「何で!?」
「怪しいから」
「怪しい?何が?」
灯の目が泳いでいる。
享に見つめられると嘘が絶対バレる気がするからだ。
「とにかく、リビングに移動しよ。暖房いれてあるから、もう温かいよ」
「片付けてから、行く」
「ん、先に行ってる」
享は先にリビングに移動した。
灯は慌てて、最後の一目を差し終わると、裏に目立たない様に玉留めをした。
『終わったけど、これ、どうしよう。片方はタンスにしまってあるし……プレゼント用に包み紙とリボンも店長さんがくれたのに、包装も出来ないじゃん。いつしよう……あ、とりあえず一度ベッドルームに全部運んじゃお、私、意外と考えつくじゃん!』
ベッドルームは二つドア。
リビングダイニングと廊下の間にドアがある為、
一つは廊下に出られ、トイレとバスルームに行きやすいドア。
もう一つはリビングダイニングにそのまま入るドア。
手前の廊下から入るドアでベッドルームに入れば、裁縫箱とバイク用手袋を、もう片方と一緒に仕舞えると考えた灯が、そのドアを開けた時……
『詰んだ』と思った。
リビングにいるはずの享はベッドルームの扉を開けたまま、そこにもたれて立っていた。
「あーかりん」
「はい」
「内緒ごとあるよね?」
「え?ないよ」
とりあえず裁縫箱は両手で持っていたがカーディガンの中にバイク用手袋は隠して持って来ていた。
「じゃ、裁縫箱持ったままバンザイしてみて」
「え?何で?」
「そのお腹に隠してるの何?」
「何も隠してないって」
「じゃ、さっき何を縫ってたの?何も手に持ってないじゃん」
『目ざとい』
灯は享のそう言う回転の速さが、たまに鬱陶しい。
『お兄ちゃんみたいに、少し鈍感な方がいいのに』
「まあ、とにかく片付けたら、こっち来て。ホットミルク入れるから」
「あ、うん!」
裁縫箱をタンスの一番上の引き出しにしまう。
仕上げたバイク用手袋は、もう片方と一緒に、他の引き出しにしまった。
※クロスステッチ
「×(クロス)」の形に糸を交差させながら刺していく、刺繍の基本的な技法のひとつ




