第三十七話 Why don't you come over?(うちに寄って行かない?)
「うちに寄っていくよね?」
東横線の車内。
意外と混んでいて、ドア横に寄りかかる様に立つ灯を庇う様にその前に享が立っていた。
「あ、うん荷物取りに行かないとだもんね」
「……って言うかさ、ご飯食べて行かない?」
「え!」
「簡単なものになっちゃうかもだけど、僕が作るからさ」
「でも昨日みたいに寝ちゃったら大変だし」
「ちゃんと起こす」
「でも……」
「イヤ?」
「嫌な訳ない……けど」
灯は自分の気持ちはとっくのとうに分かっている。
享といると楽しいし嬉しいし、安心して感情を出すことが出来る唯一無二の大好きな人。
それでも、いつかアメリカに帰る人。
ずっと一緒にはいられない。
だから、好きとか簡単に言ってはいけないと思っているのに、享は平気で可愛い、好き、抱きしめたいというし、きっとキスも挨拶の範囲かもしれないくらいハードルが低い気はする。
そして周りの目が気にならない場所で、灯が享にドキドキさせられた時の自分がどんな顔をして、その顔が享にどんな想いをさせるのかも想像もしていないし、それ自体すら理解していない。
それでも警戒信号が出た。
灯を見つめる享の海の色の瞳が潤んで見えたからだ。
「今日はパフェも食べちゃって、お腹も空いてないから帰る」
「そっか、分かった」
享は灯の顔を見るのをやめてドアのガラス越しに外を見ている。
代官山に着いた。
代官山の駅前から徒歩五分くらいの五階建てのシングル用マンション。
四階から下はシングル二戸ずつ。
享が住む最上階は今は使っていないが、いわゆるオーナールームで五階全部で一部屋だ。
父親の知り合いから借りているらしい。
当時のシングル用物件には珍しくセキュリティロックが使われている。
「ここで待たれても心配だから、上までは来てくれるよね?」
そんな風に言われたら灯も逆らえない。
「うん、お弁当箱も持って来たからバッグから出して返さないとだし」
エレベーターで五階まで上がる。
ドアが開いた瞬間が、ちょうど夕焼けから宵闇に変わる時だった。
「キレイ……」
「本当だ……不思議だね。星も見えてる」
灯は両手を手摺り壁※1 の上に着いている黒く細いパイプに手をかけていたが、自分の背後に享が立って、その左手が灯の左手の真横に置かれた時、夜景どころじゃなくなった。
「あかりん、本当にお腹空いてない?」
頭の上の声が近づく気がした。
「うん、大丈夫」
灯が言うか言わないかと時に、灯のお腹は彼女の意に反して、キューンと鳴った。
「ふふ、お腹の方が正直」
享は鍵を開けると
「入って、ベランダも景色いいよ」
灯を中に招き入れた。
「本当、Tallって何でも出来ちゃうんだね」
灯がご馳走になった簡単なものとは!?
ベーコンと卵、パルメザンチーズに生クリームを使った、本場の味と日本の定番の中間くらいのカルボナーラを披露してくれた。
付け合わせは千切りキャベツとにんじんのコールスロー。
飲み物はジンジャエールが出てきた。
「本当はシードル※2 が出したいところなんだけど、お酒だから、これでね」
「あ、うん。有難う」
「じゃ、食べよう」
「いただきます」
『Tall、本当に手際がいい。お手伝いしようと思っても、することがないからフォークとスプーンを並べただけだし……本当逆な感じ』
「美味しい、これってフィットチーネだよね!」
「さすが食いしん坊、知ってるね〜!ソースが絡むからカルボナーラには、これを使うんだ」
享が嬉しそうに笑う。
今日は日中いい天気だったせいか空気がこもっていたので、享が部屋の窓を少し開けた。
風が吹き込む度にレースのカーテンが揺れる。
時刻は午後七時過ぎ。
夕飯を済ませて二人で後片付けをした後、享が灯にカフェ・オ・レを水色のマグカップに入れてくれた。
もちろん享のカップは藍色だ。
テレビの前に小さなテーブル。
その後ろには三人掛けくらいの脚付きソファが置いてある。
「あっちに座らない?」
「あ、うん」
灯はちょっと自分だけが意識しすぎなのかもとも思い始めて警戒心を緩め始めていた。
「美味しい」
「あかりんは何でも美味しいって言う」
「そんなことないよ!美味しくないものは、美味しいとは言わない」
「そうかな?」
「そうだよ」
灯はまた一口、カフェ・オ・レを口に含む。
「ヒゲ生えてるよ」
「え?あーミルクの」
灯が言った瞬間、享が灯の鼻の下あたりをペロッと舐めた。
「わあ!!」
驚いた灯は危うくカップを落とすところだ。
「何すんの!スケベ!!」
灯は立ち上がった抗議するも、当の享はしれっとしたまま、マグカップからカフェ・オ・レを飲み続けている。
灯はキッチンにマグカップをバンと置く。
「帰る」
「怒った?」
「……」
灯は玄関に行き、バック中から享に返すお弁当箱の入ったバッグを出すと、その場にバンっと音がするほど強く置く。
そしてバッグを背負うと靴を履き始めた。
「あかりん、ごめん」
享が後ろから灯を抱きしめる。
「やめて」
「嫌だ、まだ帰らないで……もうしないから」
「本当の恋人じゃないし」
「うん」
「子供じゃないんだよ」
小さい頃は本当に自由だった。
お互い鼻に着いたソフトクリームでさえ舌でペロりと出来たのに……今は、もうそれはしては行けない事と灯の心が言っている。
「ごめん、嫌ならもうしない」
抱きしめていた腕を享は離す。
『嫌じゃないから困るんだって……もう!』
灯は荷物を下ろすと靴を脱いでリビングに戻った。
ソファの窓際よりの端に座る。
一人分、あいだを空けて享も座る。
灯は唐突に話を持ち出した。
「そろそろ、やっていいことと、ダメなことをきちんと決めよう?」
「今日?」
「今日中」
「どんなこと?」
「過度なボディタッチは禁止」
「手繋ぎは?」
「時と場合による?」
「肩を寄せるは?」
「え?」
「頭を撫でるは?」
「は?」
「頬を触るは?」
「へ?」
「鼻血の時、ティッシュを詰めるは?」
「Tall!ふざけてるよね?」
「あかりんは、どう思ってるの?」
「何を?」
「僕のこと嫌い?」
「……」
「僕は」
灯は思わず享の口を両手で塞いだ。
「何、言おうとしてるか知らないけど」
「え?」
「だってお互い女子除けに男子除けのはず」
「それは……」
「このままがいい」
「このまま?僕もこのままでいいの?」
「度を過ぎなきゃね。お互い自由がいい」
「自由がいいの?」
「いいよ!私はTallのことが大好き。驚かされる様な事をされても一緒にいると楽しい!……だから、このままがいい」
「僕のこと好き?愛してる?」
「大好きだけど、loveじゃない」
『loveだよ。決まってるじゃん……』
顔を見られたら絶対バレる!そのくらい悲しそうな顔をしてる自分に気づいていた灯はわざとソファの肘掛けに肘をつき頬杖をついて、そっぽを向いた。
その一方、享は灯にはっきり言われるも本当の考えに気づかないまま『僕達は、月と太陽※2 ……』と、黙って考えていた。
※1手摺り壁 コンクリートやモルタルで作られた、胸の高さくらいまであるしっかりした壁のこと。
※2 シードル りんごを原料にして作られる発泡性の醸造酒(果実酒)
※3 月と太陽 お互いに存在は認識しているし見えてはいるけれど、決して同じ時間に同じ場所で重なり合うことができないすれ違いのこと。




