第三十話 TGIF!※1 (やっと金曜日だ!)
『昨日は本当におかしかった』
灯は子守唄を享に聞かされて、何故かあのベンチで泣きながら九時ごろまで眠ってしまったのだ。
その後、享は何も聞かず、ただその接する態度は優しく、海を見る時間は無しで真っ直ぐ寮まで送られた。
今日の帰りは同じ四限で講義は終わる。
帰りに注目を避ける為、享とはまた珈琲屋に行こうと言う話になっており、完全遠回りだが校舎の裏門に一つだけあるベンチでも待ち合わせることになっていた。
だが、享からはゼミ演習は時として終わりが見えないこともあるとは聞いていた。
既に待ち始めて一時間は過ぎた。
『帰ったらダメかなー』
灯もそろそろお尻も痛いし、昨日、子守唄を聴きながら眠ってしまったことで、享に会うのが少し気恥ずかしかった。
だいたいの学生は駅に向かうので正門を使う。
ここ裏門は体育の講義やサークル活動があればテニスコートやグラウンドなどに移動する場所だ。
しかし、金曜日という日のこの時間には、講義もなく|何故かサークル活動もないのか?人気がなさ過ぎて、むしろ物騒なくらいだった。
が、図書室が"享人気"のせいで使いにくくなり致し方がなくの選択だった。
ぼんやりしていた灯。
「灯ちゃん」
急に声を掛けられて灯が恐る恐る振り向くと、そこには白河美玲が数人の女子と立っていた。
「あ、白河先輩。先日は上を向いたままで失礼しました」
灯はベンチから立ち上がるとお辞儀をした。
「あら、ご挨拶有難う。いいのよ、ふふふ」
「……あの、私に何か?」
「横溝くんって本当に分かってないわね」
「え?」
「こんなところで灯ちゃんを一人で待たせるなんて、何かあっても誰も気づかないわ」
「あの……まさか」
「昨日の図書室の騒ぎの話しを聞いて駆けつけた時には、灯ちゃんは人知れずお帰りになった後の様だったから、さすが横溝くん何か手を講じたのねとは思ったのよ」
「あ、はあ」
『あぁ、享が講義早く抜けて来てね……』
「でも、今日は図書室で早くから、あなたをお待ちしてたのに、いつまで経っても現れないから心配でお探ししましたの」
「え?私のことをわざわざですか?」
「もちろん!横溝くんに灯ちゃんを送る様に差し向けたのは私ですから、責任がありますもの」
「え、そんな、もったいないお言葉です」
「まあ、なんて可愛いことを……とにかく、私達が、図書室の騒ぎは一掃致しましたから、図書室で、ご一緒に横溝くんをお待ちしませんこと?」
「え?ご一緒にですか?今日は何時になるか分からないって、Ta……横溝先輩も言っていたので、遅くなったら申し訳ないです。それに白河先輩が、昨日の騒ぎを治めて下さったのなら、私一人で図書室に行けますから、どうかご心配なくです」
「あら、近くって言うことだけで言えば、寮までの距離も近いのは分かっていますのよ。でも、横溝くんには、灯ちゃんを守るという意思を強く持ってもらいたいんですの」
「守る意思ですか?」
「そう、守る意思。好き好きって他人様向けのアピールだけじゃなくて、本当の気持ちを全開にしてもらいたいんです」
「……あの、もしかして、まさか私達が本当に付き合ってるのか……お疑いなんでしょうか?」
「んー、それは……」
美玲はどこか違うところを見ながら人差し指で顎に触れる。どことなく本音を言えない時の仕草の様だった。
そんな時どこか上の方から声がした。
「白河さん!あかりんに余計なこと吹き込まないで!」
享だった。
享に言わせれば、意味があって裏門を選んでいた。
ちょうどその建物の二階に位置する国際法ゼミの演習室の廊下側。
そして裏門はその真下に位置する。
何か起ころうもんなら、享は二階から飛び出すも辞さない覚悟だった。
数分前。
実は長引くゼミに享は辟易とし始めていた。『何で、毎回こんな焼き直しみたいな話ばかりするんだ?不毛過ぎる!うわっ、もうこんな時間じゃん』チラッと見た右手の腕時計は五時三十八分を示している。
黒板には日米貿易摩擦をめぐるGATT条約の条文が書き殴られ、先輩や同級生たちが「アメリカの言い分は不当だ」「いや、日本側の行政指導にも問題がある」と、一歩も引かずにただただ時間だけが過ぎ行くも議論を戦わせている。
教授もパイプの煙をくゆらせながら、腕を組んで学生たちのディベートを見守っている。
誰もが議論の迷路に迷い込み、疲労の色が見え始めた、その時……資料の束を静かにめくっていた享は痺れを切らし、手を挙げ発言を許された。
「……そもそも、僕たちが今議論している米国通商法301条の解釈ですが、ワシントンの本当の狙いは法的な是非の決着ではなく、次の大統領選を見据えた共和党保守派への政治的なアピールです。GATTの第23条に照らせば、日本側が取るべき法的な対抗措置は論理的にこの一択しかありません。これ以上の水掛け論は、時間を浪費するだけだと思います」
流暢な英語の専門用語を交えながら、ホワイトハウスの「本音の狙い」と「法的な結論」を、まるで現地で見てきたかのように淡々と提示する享。
一瞬で静まり返る演習室。
教授がふっと目を見張り、それから嬉しそうにニヤリと笑って、手元の資料をパサッと閉じる。
「……よし、今日の演習はここまで。彼の言う通り、これ以上は不毛だな。全員、今の視点を踏まえて来週までにレポートを出し直しなさい」
どよめく周囲を気にも留めず、享は「お疲れ様でした」と荷物をまとめ、そそくさと演習室を後にした。
廊下に出てすぐに気づいた美玲への声掛けだった。
間もなく享が裏門にやって来て、美玲に挨拶した。
「昨日はあれから文学部のみならず、他学部の学生さん達にも一喝してくれたそうですね。図らずも本日もあかりんのご心配を有難う。白河さん」
「それはもう、私の必ず灯ちゃんを寮まで送り届けることを横溝くんに諫言したことが、きっかけなんですから……こちらこそ、そんなことになるとも思わず申し訳なかったと反省しておりますの。お二人とも本当にごめんなさいね」
享も灯も「いえいえ」と言った風に、揃って顔を振るのを見た、美玲が笑いながら言うと
「本当にお仲が宜しいこと。普段からミラーリング※2 ですの?」
「いや、やっぱりお互い好きだから似ちゃうんじゃないかなぁ!」
享は嬉しそうに笑ったが、灯は苦笑いした。
「あ、白河さん、ごめんなさい。あかりんの寮、ご飯門限があるんですよ。この子作って貰った夕飯を無駄にさせたくないタイプなんで、すぐに送らないと」
「あらそう。かえってお引き止めして、ごめんなさい。でも横溝くん、ここは危な過ぎるわ。図書室はきちんと勉学に励まられる方しか使用できない様に確保したから、灯ちゃんとの待ち合わせは、またそちらにして下さって」
「分かりました!白河さん、皆さん。ご心配をおかけして、すみませんでした。有難う!じゃ、また。あかりん、行こう」
享は、もう走る体で身体が外向きになっているも、灯は、美玲達に丁寧にお辞儀をすると、
「こんな私の為に本当にお手数をお掛けして申し訳ございませんでした。失礼します」
挨拶をした後、享に差し出された右手に思わず自分の左手を重ね合わせて走り出した。
「お気をつけて」
美玲は本当にこの二人の行く末をどこまでも見守れたら……と心から思った。
※1 TGIF! Thank God it's Friday! 「神様ありがとう!金曜日だ!」と解放感を意味する略語で会話や文章などを締め括る言い方。
※2 ミラーリング 相手の仕草や動作、言葉遣いなどを鏡のように真似ることで、親近感や好感を持たせるテクニックのこと。




