第百七話 I wish I could go home, but I'm stuck here.(帰りたいのに帰れない)
「はあ、こんなに歩くだけのことが大変だとは」
二週間ほど目覚めなかった灯は、その翌日から身体を元の状態に戻す為のリハビリに入った。
段階的に起き上がりと言う動作からはいる。いきなり足を下ろして座らせると激しい眩暈や嘔吐感を起こしやすいため、まずはベッドの背もたれを30度、60度と少しずつ起こし、体を起こす体勢に数日かけて戻す。
そして数日後、足首・ふくらはぎのストレッチ。
二週間足を使わないとアキレス腱や関節が硬くなり始め、足を床につけたときに踵がしっかり着かないことがある。そのため、立つ前に手で足首をしっかりとほぐすことが必要となる。
かれこれ、ここまでで三週間近くかかった。
が、その間、毎日、享はリハビリの様子を見学しに来ては、その後も理学療法士のやっていたことを覚えておいて、灯の身体ほぐしなどやり過ぎない様に気をつけながら優しくケアしてくれた。
ようやく翌週から立ち上がり・平行棒での荷重練習に入った。筋力がニ〜三割落ちているため、自分の体重を支えたときに膝が折れてしまうリスクが高まる。そのため、病室の手すりではなく、リハビリ室の「平行棒」を、治りの早くギプスの取れた右腕は添える程度で、左手をメインに掴んで立ち、足にじわっと体重をかける練習から始めた。
「足を怪我したわけでもないのに……」
「歩かないって大変な事なんだね」
「まだ帰れない……」
寂しそうに呟いたベッドに横たわる灯の膝から下を優しく撫でる様に下から上に摩る享。
その後も足の指を広げたり一本ずつマッサージを続けてくれる。
「Tall」
「ん?」
「論文進んでる?」
「あぁ、もう提出した」
「え!?」
「多分もう、添削も入らないと思う」
「……って言う事は……講義をこなすだけ?」
「そうだね。でももう、三年間でほぼ単位は取ったから、講義も出たいのだけ見に行ってる感じ」
笑いながら享が答えた。
「じゃ、就活は?」
「そっちはそっちで考えてる」
その後、灯はどうしても聞きたかった『日本で?』と言う言葉を飲み込んだ。
そんなある日、灯が病室に一人の時に美玲が取り巻きを連れずに訪ねて来た。
正確にはお付きの人が、とても大きなフラワーアレンジメントを抱えて後ろに控えていた。
「灯ちゃん、お加減いかが?」
「白河先輩!」
美玲の突然の来訪に慌てて身を起こす灯に、そのままでと言う様に、彼女は灯を手で制する。
「急にお訪ねして、ごめんなさい。私なんかが、お邪魔して……」
「いえ、そんな!お邪魔だなんて、おいで頂けるなんて勿体無いことで……かえって申し訳ございません」
「少しお話しても大丈夫かしら?」
「はい、宜しければ、どうぞお掛け下さい」
灯は、美玲に椅子を勧めた。
美玲は座ることはせず、アレンジメントを持っているお付きのスーツ姿の男性を一歩前に出る様、視線で誘導し、話し出す。
「この度は本当に思いがけない事故でお見舞い申し上げます。灯ちゃんに少しでも和やかにお過ごし頂ける様にと、お花をお持ち致しましたの。こちらをお納め下さい」
美玲は華麗にお辞儀をした。
後ろにいた人が少し前に出た時にようやく見えた、そのフラワーアレンジメントの大きさに圧倒されて、慌てて灯はお礼を言う。
「私の様なものに過分なお心遣いを申し訳ございません!おいで頂けるだけでも嬉しい事ですのに本当に有難うございます」
美玲に深々とベッドの上からお辞儀をし笑顔で答える。
「灯ちゃん!そんなお身体でやめてちょうだい。私今日はあなたのパジャマ姿を見させて頂いただけで、もう大満足なのですから」
お付き人はフラワーアレンジメントをリビングテーブルの方に置くと一礼し、部屋から出て行ってしまった。
美玲と二人きりになった灯は本当に申し訳無さそうに話し始めた。
「白河先輩、せっかくおいで頂きながら、まだ今の私はまだ自力で歩く事がままなりません。お茶の一つもお出し出来なくてお恥ずかしい限りです」
「分かっているわ。お時間がかかる事なのよね……それでなくても事故のショックもまだおありでしょうし、お疲れさせてしまうと申し訳ないから、今日のところはもう失礼させて頂きますね」
「あ、もう少ししたらあの……」
「横溝くんがいらっしゃるのね?」
「はい」
「それなら尚更、早く退散しなければ本当のお邪魔になってしまうわ」
「そんな……」
「では、灯ちゃん、ご機嫌よう。早くのご快復をお祈りしております」
踵を返すと美玲は振り向きもせず病室から出て行ってしまった。
その背中に灯は精一杯の力を込めて
「有難うございました!!」
と声を掛けた。
しばらくして享が、病室に来た。
「あ、Tall、今日ね、白河先輩がお見舞いに来てくれたんだよ」
「そうなんだ、良かったね。それで、この花?」
「そうなの、スゴイ豪華なんでビックリしちゃって……お付きの人が持って来て、それにも驚いちゃった!本当にお嬢様なんだね……疲れさせたら悪いからって、すぐお帰りになっちゃって、Tallが来たら、お茶入れてもらおうと思ったんだけど」
「あぁ、そうか。間に合わなくてごめんね」
「あ!ううん、そう言う訳じゃないの……ごめん、私、自分が今こんなだから……つい」
「分かってる、いいんだ。頼ってくれて……お母さんは今日早く帰っちゃったの?」
「たっちゃんが熱出して、お義父さんが付いててくれるって言ってくれたみたいだけど、やっぱり心配そうにしてたから早く帰って貰ったの」
「そうか、それは心配だもんね」
そう言いながら享はテーブルの上のフラワーアレンジメントを見る。
「あのさ」
「ん?」
「ちょっと、この部屋には、このお花大き過ぎない?」
「大き過ぎる?」
「窓を閉めたら香りが強すぎちゃう気がする」
「確かに……会社の受付とかにありそうな大きさかもね」
「灯が良ければだけどNurses' Stationの前のお見舞いの人達が来た時に皆さんが使う談話室に置かせて貰ったら、どうかな?」
「あ、そうだね。せっかく頂いたお花だけど、私だけが楽しむより皆さんにも楽しんで貰える方がいいよね」
「じゃ、持って行くね」
享はNurses' Stationに向かい、開け放たれたドアから中に声を掛ける。
「すみません」
「あら、どうしました?」
看護婦長が近づき、そのフラワーアレンジメントの大きさに驚く。
「これは?」
「宮守さんが、知り合いから頂いたものなんですが……」
「この大きさ?」
「はい、大きさもそうですが、あの香りが……」
「そうね。窓を閉めたら息苦しくなりそうね」
「そこで本人も了解しているので、ここの談話室に置かせて頂いて、他の患者さん方にも楽しんで頂ければと……宜しいでしょうか?」
「まあ、ここなら開放スペースだから気にはならないでしょうし……まあ、ご退院間際に頂いたお花を置いて行かれる方もいるし、お預かりしますよ」
「有難うございます!助かります」
「お花の頃会いに寄っては勝手に片付けさせて頂くこともあるかもしれないけど大丈夫かしら?」
「もちろんです!ご不快でしたら、すぐにでもご処分下さっても結構です。宜しくお願いします」
「じゃ、あの端の方のテーブルの上に置いて貰えるかしら?」
「はい、ここでいいですか?向きとかは?」
「素敵よ、有難う。いきなり華やかになって患者さん達もきっと癒されるわ」
「そう仰って頂けると有り難いです。何だか押し付ける様で申し訳ないかな?と思っていたので」
「あなた、いい子ね」
「え?」
婦長は小さな声で享に話す。
「こう言っては何だけど……あり得ない大きさだわ」
「やっぱりそうですよね……」
「香りも強い花を入れるなんて、何かのお祝いの席でもあるまいし……あら、ごめんなさい。頂きものにケチつけて」
「いえ、その本人には言えませんが僕もそう思ってました。でも、宮守さんには、ご内密にお願いします。憧れの先輩からの贈り物なので」
「あらまあ、そうなの……でもお花屋さんだって用途は聞くと思うけどねぇ」
「僕もそう思います」
享は遠い目をして婦長の言うことに同意した。




