第百六話 The Sleeping beauty.(眠り姫)
「もう、そろそろ一週間になる」
享は病室の窓から外を眺める。
五月前半は晴れて暖かく爽やかな日が多かったが、半ば以降は低気圧や前線の影響で曇りや雨の日が増え、寒暖差があり、今日は朝から雨だった。
「どうして目を覚まさない」
病院側の医師が言うには、脳に異常は認められないばかりか、右腕の尺骨骨折すら快復しているのにも関わらず、目が覚めない理由が分からないと言う。
更に医師から両親が聞かされた話しによれば、もしかしたら本人が目覚める事を拒んでいる可能性があると言われたらしい。
そうなって来ると、より専門的な病院への転院を考える必要性も出て来た。
少しまた痩せてしまった灯の寝顔を見ながら、その手を取ると享は祈る様に呟く。
「灯、いい加減、目を覚まして。僕はまだまだ君と話さなきゃいけないことがあるんだ」
日中は数時間、千紗子が付き添いに来て全身清払などをし、琢磨の幼稚園のお迎えの頃に享が交代すると言う毎日が続いていた。
「享くん、眠れてる?」
「え?はい」
「ちょっと、やつれたんじゃない?ご飯食べてる?」
「ちゃんと食べてますから、大丈夫です」
そんな会話も何回あったことか……。
時が過ぎ五月も末の事、転院先をそろそろ決めないとと言う時、夜九時過ぎ灯はようやく目覚めた。
「灯?灯!」
「ん……?Tall?……ここ、どこ?」
「病院だよ、階段から落ちて救急車で運ばれたんだ」
「あ……夢じゃなかったんだ……」
灯が淋しそうな顔をした。
「とにかく医師を呼ぶから」
医師の診断の結果を宮守一家も呼ばれて一緒に聞く。どうやら脳の検査もの結果、後遺症も残らず、眠り続けた原因は不明で決着した。
そしてそれから灯との会話が出来る事に安心した家族が出入りがあり、落ち着かず、ようやく二日後に病室に二人きりになった時、灯は置かれた状況を把握した上で、享に聞かれた事を話し始めた。
「トイレから出た時、知らない子から声を掛けられて、横溝先輩が四階の踊り場で待ってるって言われて」
「全く見た事ない子?」
「そう言われると……顔は見た事あった気もする……」
「それで?」
「それで本当にTallに呼ばれてたのかと思って四階の踊り場に行ったけど、誰もいなかったから降りて来て……三階に行く途中で階段踏み外して落ちゃって……心配かけて、ごめんなさい」
「灯」
頭に傷はないものの、労わるように灯の頬を包み込む様に両手を添える享。
「本当に心配した……目を覚まさないから……キスしたら目が覚めるのかと思ったくらい」
「は?まさか、してないよね?」
「いくら僕でも時と場所は選ぶ」
「……長い夢見てた……」
「夢?」
「私達が子供の頃の……まだ何も起きる前の……楽しかった頃の……」
「今は、灯は楽しくないの?」
「……Tall……」
その時、ドアがノックされて慌てて享は灯から離れて、そちらに向かいドアを開けた。
「横溝先輩!お邪魔していいですか?」
「どうぞどうぞ」
灯の同級生の女子四人だった。
「あ、みんな」
「灯ちゃーん!ようやくお見舞い解禁って聞いて駆けつけたよ!」
最初にベッドに走り寄ったのは、福ちゃんだったが、その時、灯の表情が一瞬曇ったのを享は見逃さなかった。
後から美春、喜子、美智子も入って来た。
「お邪魔しまーす。お見舞いにプリン持って来たよ!」
「もう、階段から落ちちゃうなんて、おっちょこちょいにも程があるよ」
笑いもまぜた挨拶に、灯も笑いながら
「本当、何でかなぁ……気づいたら吹っ飛んでたんだよね」
「大胆に落ちたんだね」
「でも横溝先輩直伝の受け身取ったって聞いたよ!」
「誰がそんな事言ったの?」
「灯ちゃんが意識無くす前に三年の先輩に話したのを他の先輩達も聞いてたみたい。もうすごい噂話!さすが横溝先輩、そんなことも彼女に指導してあるとは!って」
「その後、"眠り姫"になったんだから王子様のキスで目が覚めるんじゃないの?とか」
少し笑いが起こる。
享がそこで口を挟んだ。
「お嬢様方、ミルクティーはいかがですか?」
「え!!横溝先輩のあの灯ちゃんしか飲めないというミルクティーですか!?」
「そうなのかも」
「「「「是非!頂きたいです」」」」
どれだけ声が揃ったのか四人が四人とも一斉に返事をした。
灯は右腕尺骨骨折のギプスが外れるのはまだ先のこと、不自由な為、享が口まで運ぶ。
その二人の様子に、女子四人はせっかく入れて貰った、但し紙コップのミルクティーが冷めるのも忘れて、プリンが灯の口に運ばれるのを見ながら羨ましそうに見てしまう。
それに気づいた享が
「皆さんのお口にもお運び致しましょうか?」
笑いながら言うと、ようやく我を取り戻した彼女達はプリン、ミルクティーを交互に口に運び出した。
「まあ、本当大事に至らなくて良かったよね」
美春が言うと灯が答える。
「うん、わざわざ来てくれて有難う」
続いてしっかり者の喜子が
「講義のことはきちんとノート取ってるから心配しないでね」
というと、灯は
「いつも有難う、よっちゃん!頼りにしてる」
美智子はちょっとオトボケキャラで
「でも、いいなぁ、いつも横溝先輩と一緒に居られるなら入院もいいよね!」
灯は『いつもの方が一緒なんだけど』と思いつつ
「うーん、でも、見張られてるみたいで、これもこれでちょっとだよ」
「えー!そうなの?」
福ちゃんが声をあげた。
その声にも敏感に反応した灯は
「そうなんだよ、すぐ手を貸されちゃうからリハビリにならないんだ」
「やっぱり甘やかされてるんだぁ、いいなぁ」
享がそこで、はっきりと
「甘やかしたいんだから仕方ないよ」
言い切ったのを聞いて、四人はまた羨ましそうにぼおーっとしてしまった。
「じゃまた来るね!」
「うん、有難う」
それぞれ挨拶をして帰って行った後、享が灯に聞いた。
「それで、誰に押されたの?」
「え?」
「踏み外して下まで落ちる様な身体能力じゃないよね?」
「……」
「言えないの?」
「だって本当に自分の不注意だから」
「まあ、おおよそ見当はついてるけどね」
「え!!」
「無理に言わなくてもいいんだ。灯が悪いんじゃない。その押した本人も自分がやっとは思ってないと思う。多分洗脳されてるから」
「洗脳?」
「もしくは催眠」
「催眠?」
「何か特定の言葉でSwitchが入る様に既に刷り込まれていたはず」
「私を階段から突き飛ばす?」
「やっぱり、突き飛ばされたんだね」
「……あ……」
灯は誰にも話せない。例え享にも、この事は秘密にするつもりだったのだ。
だが、
「彼女の意思じゃない。それだけは分かってあげて。実際、いつもと変わらなかったでしょ?やってしまったことも多分覚えてないから」
「そうなのかな?様子を見に来たって事はない?」
「まあ、それは多分聞かれなくても、今の灯の状況を催眠をかけた相手に話しちゃうとは思うけどね」
灯は友人の中にも、自分を貶める側の人がいたことが脅威だったが、享から聞かされた事は唯一の救いになった。
翌日から灯は歩くためのリハビリを始めることになった。
※全身清拭
入浴が難しい場合に、温かいタオルなどで全身を拭いて清潔を保つケア




