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第三話 炎上王太子

田舎の別邸へ発つまで、あと三日。

荷造りを侍女のリーナに任せながら、私は応接室で積み上げられた書簡を眺めていた。

婚約破棄の報はすでに王都中に広まっていて、知人貴族からの「お見舞い」やら「心中お察しします」やらの手紙が山を作っている。

ありがたいような、見ていて少し惨めなような。

複雑な気持ちで封を開けていると、頭上でコメントが流れた。

 

『手紙多いね』

『人気者だ』

『お見舞い商売になりそう』

 

「商売にはなりませんわ」

 

思わず返してしまうのが、もはや習慣になりつつある。

三日前に「当面、謎の観察者として扱う」と決めてから、私とコメント欄の関係は不思議な均衡を保っていた。

私が話しかければ反応し、無視すれば少し大人しくなる。

少し、だが。

書簡を一枚読み終えたところで、リーナが扉を叩いた。

 

「お嬢様、少々よろしいでしょうか」

 

「どうぞ」

 

リーナは少し困惑した顔で入ってきた。

彼女はベルナー家に長年仕える侍女で、普段は動じない人なのだが、今日はどこか落ち着きがない。

 

「王都の方で……少々、騒ぎが起きているようでして」

 

「騒ぎ?」

 

「ユリウス殿下に関する……その、かなり不名誉な話が広まっているようなのです」

 

私は書簡を置いた。

 

「詳しく教えてもらえますか」

 

リーナは少しためらってから、語り始めた。

話の概要はこうだ。

舞踏会の翌日から、王都の各所で奇妙な「声」が聞こえるようになったという。

空中に浮かぶ文字、あるいは耳に届く囁き声のようなもの。

内容はすべて、ユリウス殿下に関わる話だった。

 

「三年前の議会での失言が、そのまま再現されたとか……婚約中にシェリル様と逢瀬を重ねていた日時が、事細かに……それから、先日の舞踏会を仕組んだ黒幕が……」

 

リーナの声が徐々に小さくなっていく。

私の頭上では、コメントが静かに流れていた。

 

『始まった』

『王太子の公開処刑タイムです』

『これが本当の炎上というやつ』

 

「……コメント欄が、王都全体に広がったということですか」

 

思わず独り言のように呟いた。

リーナが首を傾ける。

 

「お嬢様?」

 

「いえ、なんでもありません。続けてください」

 

リーナの報告を聞きながら、私は静かに整理した。

コメント欄は、これまで私の周囲にしか現れなかった。

それが王都全体に影響を及ぼし始めているとすれば、何かが変化している。

 

『令嬢に関係する場面が、だんだん広がってきてる感じ?』

『王太子の件は令嬢に直結するからね』

『影響範囲が拡大してるのかも』

 

なるほど。

「私に関係する場面」の定義が、私の近くだけでなく、私の人生に影響を与える出来事全般に広がっているらしい。

それはつまり、王太子が私の婚約を一方的に破棄した件が、まだ終わっていない、ということだ。

翌朝、父が書斎から飛び出してきた。

珍しいことに、その顔には驚きと、かすかな高揚が混じっていた。

 

「エリシア、聞いたか。王宮が揺れているぞ」

 

「存じております。リーナから聞きました」

 

父は私の向かいに腰を下ろし、珍しく早口で語り始めた。

王都で広まっている「声」の内容が、王宮内でも確認されているらしい。

議会の速記録には残っていない失言。

秘密裏に行われていた根回し。

シェリル令嬢との逢瀬の記録。

そのすべてが、詳細な日時と場所つきで暴露されていた。

 

「どこから漏れたのかと王宮が調査を始めたが、情報の出所がどこにも見当たらないとのことだ。記録魔道具の形跡もなく、内通者の痕跡もない」

 

「そうでしょうね」

 

「わかるのか?」

 

「……わからなくはない、程度ですが」

 

私は窓の外を見た。

朝の空は澄んでいて、どこにでもありそうな穏やかな景色が広がっている。

その空のどこかに、今も彼らがいるのだろうか。

頭上のコメントが流れた。

 

『私たちには全部見えてるから』

『時間も空間も関係ない感じ?』

『観測者だから』

 

観測者。

自分たちをそう呼んでいた。

観測するだけのはずが、観測した内容を垂れ流すことで世界に影響を与えている。

それが今、王宮規模の騒動になっているわけだ。

父に大まかな事情を説明するかどうか迷ったが、「頭上に謎の文字が浮かんでいます」と言っても信じてもらえないだろうと判断し、黙っておくことにした。

数日後、街に出る用事があって馬車で王都の市街を通った。

窓から外を眺めると、人々が立ち止まって空中を見上げていた。

老人も、商人も、子供も。

皆が何かを見上げ、囁き合っている。

 

「あれが本当なら王太子殿下はひどい方だ」

「でも証拠もないのに……」

「証拠ならある。先日の舞踏会でご自分でお認めになったではないか、以前から交際していたと」

 

コメント欄の情報は、人々の口を通じて広まり始めていた。

私は静かに窓から視線を外した。

 

『市民の好感度グラフ、令嬢が爆上がり中』

『王太子はマイナス圏に突入してる』

『これが本当のざまぁというやつ』

 

「……ざまぁ、というのは何ですの?」

 

小声でコメント欄に問いかけた。

馬車の中にはリーナしかいないが、彼女は窓の外を見ているので今なら大丈夫だ。

 

『因果応報みたいな意味です』

『悪いことした人が報いを受けること』

『でも令嬢的には複雑?』

 

複雑か、と問われれば、そうかもしれない。

ユリウス殿下への怒りがないわけではない。

五年間、誠実に婚約者として振る舞ってきた。

相手がそうではなかったと知れば、怒るのは当然だ。

でも。

王太子が失墜することが「ざまぁ」として称えられる状況に、どこか乗り切れない気持ちもあった。

痛快、というほど単純にはなれない。

そんな私の内心を読んだのか、コメントが続いた。

 

『令嬢が怒れないのは令嬢が誠実だからだよ』

『怒る資格は十分ある』

『でも無理に怒らなくていい』

『令嬢は令嬢のペースで』

 

……あなた方は、時々ひどく真っ当なことを言いますね。

思わず心の中でそう返した。

馬車が止まった。

用事を済ませて戻ってきた頃には、もう夕方で、王都の空が赤く染まっていた。

ベルナー邸に戻ると、父が新たな書簡を手に立っていた。

顔色が読めない。

 

「エリシア。王宮から連絡があった」

  

「はい」

 

「ユリウス殿下が……議会で謝罪声明を出すことになったそうだ。婚約中の不誠実な行為を認め、ベルナー家への補償について協議するとのことだ」

 

私は少し黙った。

 

「……そうですか」

 

短く答えた。

それしか言えなかった。

頭上のコメントが、静かに流れる。

 

『これが決着の始まり』

『令嬢の評価は守られた』

『次は令嬢自身の話になるよ』

 

私自身の話。

田舎の別邸で、これからどう生きていくか、ということだろうか。

婚約を失い、王都を離れ、次の一手を考えなければならない。

正直なところ、まだ何も見えていない。

でも不思議と、絶望はなかった。

ひどい話だったが、コメント欄が全部暴いてくれた。

望んでいたわけではないが、結果として私の名誉は守られた。

それで十分だと、今は思うことにする。

翌日、荷物が馬車に積まれた。

田舎への出発だ。

リーナと数名の使用人が同行する。

父は見送りに立ち、無言で頷いた。

その目に、少し申し訳なさそうな色があった。

私は微笑んで首を振った。

 

「大丈夫です、父上。少し、ゆっくりしてきます」

 

馬車が動き出す。

王都の石畳を、車輪がゆっくりと踏んでいく。

窓から空を見上げると、青く澄んでいた。

 

『いってらっしゃい!』

『田舎編たのしみ』

『絶対いいことあるよ』

 

「……うるさいですわ」

 

と言いながら、私は笑っていた。

窓の外へ流れる景色を眺めながら、少しだけ深く息を吸う。

炎に包まれた王太子を後に、侯爵令嬢は静かに王都を去る。

コメント欄だけが、今日も元気いっぱいだった。











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