第四話 ざまぁ待機勢
ベルナー家の田舎別邸は、王都から馬車で半日ほどの距離にある。
アルト村という小さな集落の外れに位置し、こぢんまりとした石造りの館が森の端に建っていた。
庭には手入れの行き届いた花壇と、広い畑が隣接している。
使用人は常駐の老夫婦が二人だけで、王都の侯爵邸と比べれば驚くほど質素だ。
馬車を降りた瞬間、草と土と、遠くから流れてくる川の匂いがした。
「……静かですね」
思わず呟いた言葉に、リーナが苦笑する。
「王都と比べれば、かなり」
頭上のコメントが流れた。
『スローライフ編きた!!』
『田舎最高』
『令嬢に自然が似合いすぎる』
「スローライフ編、と言いますが……私は特に何も変わっていませんよ」
『変わらなくていいんです』
『ただそこにいてくれれば』
『癒し枠!』
癒し枠、という言葉の意味はよくわからないが、歓迎されているのは伝わった。
私はため息をつき、荷物を持って館の中へ入った。
常駐の老夫婦――ガルド爺さんとその妻のマルタさんは、私の到着を心から喜んでくれた。
ガルド爺さんは無口で背が曲がっているが目が優しく、マルタさんはふくよかで声が大きく、初対面から遠慮なく話しかけてくる。
「お嬢様、大変でしたねえ!王都でひどいことがあったと聞きましたよ。まあまあ、食べれば元気が出ます。今夜はシチューにしましょう」
「……ありがとうございます」
この人の言葉の早さと体温は、少し眩しかった。
王都の貴族社会では、こんなふうに単刀直入に「大変だったね」と言われることはあまりない。
皆、遠回しに気遣うか、腫れ物に触るような扱いをするか、どちらかだ。
マルタさんのシチューは、本当においしかった。
『令嬢おいしそうに食べてる』
『幸せそう』
『シチューで回復する令嬢かわいい』
「見ていますか」
小声で空中へ向けて言った。
『見てます』
『ずっと見てます』
『24時間見てます』
「24時間は少々怖いですわ」
リーナが首を傾けたので、私は咳払いをして話を終わらせた。
翌日から、別邸での生活が始まった。
起床は日の出とともに。
朝食は質素だが温かい。
午前中は読書か書簡の返事書き。
午後はガルド爺さんに案内してもらって、敷地内を散歩する。
王都では考えられなかった穏やかさだった。
三日目の午後、村の市場まで足を延ばしてみた。
アルト村の市場は小さく、農産物と日用品が並ぶ程度だが、活気があった。
野菜を選んでいる農婦、果物を売る老人、駆け回る子供たち。
皆が私を見てきょとんとしたが、すぐに笑顔で挨拶してくれた。
王都の貴族たちの視線とは、まるで質が違う。
「お嬢さん、見ない顔だね。どこから来たの?」
果物売りの老人に声をかけられた。
「少し離れたところの別邸から来ました。エリシアと申します」
「エリシアちゃんか。ならこのリンゴ持っていきな、今年は甘いよ」
ちゃん、と呼ばれたのは生まれて初めてだ。
思わず目を丸くしていると、老人はからからと笑った。
『田舎の人あったかい』
『村人フレンドリーすぎる』
『「エリシアちゃん」は草』
「草、というのはそろそろ教えてもらえますか」
帰り道、小声でコメント欄に聞いた。
『笑えるとか面白いとかそういう意味です』
『文化的な用語です』
『令嬢も使ってみて』
「……草」
『天才』
『ネイティブすぎる』
『発音完璧』
発音も何も、文字を空中に向けて言っているだけなのだが。
とはいえコメント欄が喜んでいるのは伝わった。
それから一週間が経つ頃には、別邸での生活にすっかり慣れていた。
ガルド爺さんに畑の野菜の世話を教えてもらい、マルタさんに村の人々を紹介してもらい、市場ではリンゴ売りの老人と顔なじみになった。
侯爵令嬢として王都でしていた生活とは、まるで別の世界だ。
夜、窓辺に腰かけて星空を眺めていると、コメントが流れた。
『令嬢、最近顔色よくなったね』
『田舎が合ってるのかも』
『ここから逆転』
「逆転、とよく言いますが……何を逆転するのですか?」
尋ねると、少し間があった。
それからコメントが流れる。
『人生を』
『幸せを』
『令嬢には幸せになる権利があるから』
「……権利、ですか」
『あります』
『絶対あります』
『婚約破棄されたって令嬢の価値は何も変わらない』
私は星空を見上げたまま、しばらく黙った。
価値は変わらない。
頭ではわかっている。
でも王都にいる間は、どうしてもそれが信じにくかった。
婚約破棄された令嬢、という肩書きが、べったりと張り付いている気がして。
ここでは、誰もそんな目で見ない。
マルタさんは「大変だったね」と言って次の瞬間にシチューの話をするし、ガルド爺さんはそもそも詳細を知らないようで、ただ黙って畑の手入れを教えてくれる。
そういう場所が、今の私には必要だったのかもしれない。
「……少しだけ、元気が出ました」
空に向かって正直に言った。
『よかった!!』
『ずっと心配してた』
『令嬢が笑顔でいてくれると嬉しい』
「心配させましたね」
『させた!』
『でも元気になったから許す』
『絶対幸せになれ』
絶対幸せになれ、とはずいぶん力強い言葉だ。
根拠があるのか、それとも単なる願いなのか。
どちらでもいい気がした。
根拠がなくても、誰かにそう言ってもらえることに、意味はある。
翌朝、書斎で父からの書簡を読んでいると、少々気になる内容が混じっていた。
王宮でユリウス殿下の謝罪声明が出されたこと、補償の協議が進んでいること、そして――騎士団が別邸周辺の警護を一名増員することになった、という件だ。
「騎士団、ですか」
書簡を読み返した。
父の文面は簡潔で、詳細は書かれていない。
ただ「念のため」とだけある。
「念のため」が必要な状況とは、何かあるということだろうか。
『あ』
『これはフラグかな』
「何のフラグですか」
『それは……まあ、次回のお楽しみということで』
「歯切れが悪いですね」
『ふふふ』
「笑ってごまかしましたね」
コメント欄はそれ以上答えなかった。
代わりに全員で別の話題に流れていくのが、なんとも雑な誤魔化し方だった。
その日の夕方、村の外れで馬の蹄の音が聞こえた。
窓から見ると、騎士団の紋章を付けた騎馬が一頭、別邸の門に向かっている。
出迎えに出たガルド爺さんが、何やら騎士と話していた。
少し後、扉がノックされた。
「エリシア様。騎士団の方がお越しになっております」
リーナの声に、私は立ち上がった。
頭上でコメントが大きく動いた気がしたが、あえて見ないことにした。
なんとなく、見たら心臓に悪い気がしたので。
廊下を歩きながら、深呼吸を一つ。
玄関の扉を開けると、夕暮れの橙色の中に、長身の人影が立っていた。
『来た』
コメントが、一言だけ流れた。




