第二話 コメント欄がうるさいですわ!
あの夜から、三日が経った。
ベルナー家の朝は静かだ。
使用人たちは主の事情を察して必要以上に話しかけてこず、父は書斎に籠もって王家との書面手続きに追われ、私はといえば自室でひたすら紅茶を飲み続けている。
悲しんでいるのか、怒っているのか、もうよくわからない。
ただ、静かだ。
静か……なはずなのに。
『おはよう令嬢』
『今日も生きてる!』
『3日目突入おめでとう』
コメント欄は全く静かではなかった。
私はため息をつき、窓の外へ視線を向けた。
朝霧がまだ庭に漂っている。
バラが一輪、露を受けてきらりと光っていた。
美しい朝だ、と思おうとしたが、頭上の文字列がちらちらと視界に入るせいで集中できない。
この三日間、コメント欄は私の行動に逐一反応し続けていた。
紅茶を飲めば「飲んでる飲んでる」。
ため息をつけば「令嬢かわいそう」。
窓の外を見つめれば「何見てるの?」。
夜、枕に顔を埋めて泣いたときは――
『泣いてる……』
『そりゃそうだよ』
『つらい』
さすがに「つらい」と書いてもらっても困るのだが、自分の感情を先に文字にされると妙に落ち着かない気分になる。
問題は他にもあった。
この「コメント欄」とやらが、私にしか見えていないことだ。
侍女のリーナに
「ねえリーナ、あの……頭上に文字が見えたりしない?」
と恐る恐る聞いてみたところ、
「お嬢様、熱はございませんか」
と額に手を当てられた。
見えていないらしい。
私だけが見えている。
そしてコメントは、私が「主人公に関係する場面」にいるときだけ流れてくるようで、使用人が誰もいない自室にいると少し静かになる傾向があった。
少し、だが。
今朝も普通に流れている。
『今日の予定は?』
『外出する?』
『引きこもり生活編スタート?』
引きこもり生活編とは何のことか。
私は紅茶のカップを置き、空中を睨みつけた。
このまま無視し続けるのも精神衛生上よくない気がする。
かといって反応すれば何が起きるかわからない。
しかし。
『令嬢、昨日より顔色いいね』
『ちょっと元気そう』
……そうですか?
『そうですよ』
思わず頭の中で返答していた自分に気づき、私はこめかみを押さえた。
駄目だ。
引きずられている。
それから一刻ほどして、私はついに決断した。
無視は限界だ。
ならば正面から向き合うしかない。
鏡台の前に座り直し、姿勢を正す。
侯爵令嬢として身に付いた礼儀作法が、こんな場面でも自然と出てしまうのは、少し可笑しかった。
深呼吸。
空中を見上げる。
コメントが流れている。
私は口を開いた。
「あなた方に聞きたいことがあります」
コメントが、止まった。
一瞬の沈黙。
それから。
『反応した!?』
『主人公が喋った!!』
『公式が喋った!!!』
『えっ聞こえてるの?!』
文字が爆発的に増えた。
それまでの数倍の速さで流れてくる。
私は目を細めながら必死にそれを追った。
「見えています。読めています。そして聞こえています……正確には目で追っていますが」
『やばい』
『これ本当に双方向なの?』
『神回の予感しかない』
「落ち着いてください」
私は静かに言った。
令嬢の声音で。
授業中に騒ぐ生徒を制する教師みたいな気分だったが、それは口に出さない。
『落ち着けない』
『ごめんなさい』
『でもごめん無理』
謝りながら謝れない人たちだった。
私はため息をついてから、改めて問いかけた。
「まず確認させてください。あなた方は……いったい何者ですの?」
『それが答えられたら苦労しない』
『わからん、気づいたら見えてた』
『異世界人説』
『未来人説』
『神説』
「……全員、出身がバラバラということですか?」
『たぶんそう』
『でも同じ「場所」を見てる感じがする』
『なんか集められた感じ?』
なんか集められた感じ、というのは非常に曖昧な説明だが、あの謎の文字列が示すところによれば、彼らも自分たちの正体をよく知らないらしい。
それはそれで怖い情報だ。
「では……なぜ私の頭上に?」
『令嬢が主人公だから』
『選ばれたんじゃないですか』
『知らんけど』
「知らんけど」で済む話ではないと思うが、突っ込んでいたらきりがない。
私は両手を膝の上で組み、もう一つの疑問を口にした。
「あなた方は、私のことが……その、好き放題言いますが」
『言います』
即答だった。
「婚約破棄の当日も……」
『炎上って言いました』
『王太子の株大暴落って言いました』
『正直な感想です』
「それは……まあ、正しいのですが」
我ながら冷静に認めてしまった。
正しいのだから仕方がない。
「敵意はない、ということでよろしいですか」
『ないないない』
『むしろ全力応援してる』
『令嬢幸せになってほしい勢です』
「幸せになってほしい勢」というまとまり方をしているのが、やや心配だったが、方向性は悪くないらしい。
私はほんの少し、肩の力を抜いた。
「わかりました。正体不明で、常識不明で、出没条件も不明ですが……敵ではない、とだけ信じることにします」
『やった!』
『令嬢と友達になれた!』
『友達!?』
『いや友達は言いすぎでは』
『でも認められた!』
大騒ぎになった。
騒がれても困るのだが、不思議と嫌な気持ちにはならない。
ただ、問題が一つ残っている。
私は眉を寄せ、改めて空中を見上げた。
「……それで。あなた方は今後も、私の頭上に現れ続けるのですか?」
『たぶん』
『止め方わかんないです』
『むしろ止まったら困る』
「困る? あなた方が困るのですか?」
『令嬢のこと心配になるから』
『見守りたいんです』
『ファンです』
ファン、という言葉の意味はよくわからないが、「見守りたい」は理解できた。
要するに、この人たちは私のことを案じているらしい。
不思議な話だ。
会ったこともなく、顔も知らず、どこの誰とも知れない相手に案じられている。
悪い気はしない、というのが正直なところで、それがまた少し悔しかった。
婚約破棄されて三日。
一番温かい言葉をかけてくれているのが、正体不明の空中文字の群れ、というのは……なんとも言いようのない状況だ。
私は窓の外を見た。
朝霧が晴れ、庭のバラが陽の光を受けて鮮やかに輝いている。
「……まあいいですわ」
諦めとも受容ともつかない言葉が、自然とこぼれた。
「あなた方のことは、当面、頭上にいる謎の観察者として扱います。ただし、うるさくするのは控えてください。心臓に悪い」
『善処します』
『します!』
『……する』
「最後の方、やる気がありませんね」
『ごめんなさい』
『でもたぶん無理かも』
「正直すぎますわ」
思わず言い返してから、私はくすりと笑ってしまった。
笑い声が自室に響いて、少し驚く。
三日ぶりに笑った気がした。
『笑った!』
『かわいい』
『令嬢の笑顔尊い』
「……うるさいですわ」
頬が少し熱い。
コメント欄のせいで顔が赤くなる日が来るとは思わなかった。
その日の午後、父に呼ばれて書斎へ向かった。
王家からの正式な書面が届いたらしく、父の表情は険しかった。
「エリシア。お前を田舎の別邸へ移すことになった」
「……田舎、ですか」
「王都にいては、あらぬ噂の的になる。しばらく頭を冷やして、落ち着いてからまた考えよう」
父の判断は正しいと思う。
王都は噂が速い。
婚約破棄された令嬢が王城の近くにいれば、格好の話題だ。
ただ。
頭上のコメント欄が、静かに文字を流した。
『田舎送りか……』
『でも大丈夫そう』
『絶対ここから逆転する』
「逆転」という言葉に、私は少し首を傾けた。
何を逆転するのかはわからないが、彼らはどこか確信めいたものを持っているように見える。
まるで、この先に何があるかを知っているように。
「……わかりました、父上。ご判断に従います」
そう答えながら、私はこっそりと空中へ目をやった。
コメントは静かに流れている。
『よし!』
『スローライフ編の予感』
『令嬢、田舎でも頑張れ!』
スローライフ編という響きが、なぜか妙に楽しそうで。
私は苦笑しながら、田舎へ向かう準備を始めることにした。
コメント欄がうるさいのは変わらないが、それでも一人より、何倍もましな気がした。




