11
梨夏を送って迎えた朝。起きれないだろうと思っていたけど、意外なことにすんなり早くに起きることができてしまった。この体が夜更かしに強いのか、それとも気分が高揚しているのか、とにかく不思議なほどさっぱりと、目が覚めてしまったのだ。
ぐっと伸びをひとつ。横を見て昨夜一緒にベッドに入ったはずの姿がないことに気付いて探せば、下でクッションに包まれて穏やかな寝息を立てていた。寝相が悪いのは猫のときだけではないらしいと笑って頬杖をついて見つめ、そういえば人の姿にしたままだったと気付く。
一度目を瞑り、猫を思い浮かべた。目を開ければ思い描いた通りの黒猫がいて、今更疑問を抱く。アストラは黒以外にはならないんだろうか。ライオンにした時も、鳥にした時も黒だった。人の姿の時こそ肌は白いけど、髪も瞳もそうだ。今は私が黒猫を思い浮かべていたけど、向こうで一番最初に思い浮かべたのはどんな姿だっただろうか。ふざけて試してみただけのようなものだったからどんなのを想像したかはあんまり覚えていないけど、少なくとも黒ではなかった。こちらに来たとき猫になっていた理由もわからない。アストラは不思議だ。
黒は忌み嫌われるのだ、と先生は言っていたけど、理由を聞きそびれてしまった。今更聞くのもなんだか違う気がして、うーんと唇を尖らせながら考えてみる。アストラは暢気にぱたんと一度、尻尾でクッションを叩いて、夢でも見ているのだろうかと小さく笑った。表情は変わらないというのに、猫の姿だと尻尾が感情を露わしているかのようで、少し面白いのだ。
(うん? 待てよ?)
忌み嫌われる色だというのなら、どうしてこの邸の人たちも、領民たちも先生を見ても何も言わないんだろう。先生は自分の髪を摘まんでた。なら、人であるという以前に、黒だというだけで忌み嫌われると認識して間違いはないだろう。アストラがいたときだって黒猫だったのに、エーデリア様に至っては綺麗な黒猫と言ったのだ。ファデル様は若干引いていたけど、あれはそういう嫌悪感ではないように見えた。他に何か特別な反応をしていた覚えもない。
んん? と首を傾げつつ起き上がる。考えていても仕方のないことだけど、人に聞いていいことかどうかもわからなかった。忌み嫌われている色をどうして忌避しないのか、なんてこと、普通に考えれば聞くべきことではないだろう。
ふん、と鼻を鳴らすように内心頷き思考を切った。目を向ければ窓の外は明るい。ここのところ日が長いから、今が何時くらいなのかはわからない。時計を買うべきかなと最近は思っているけど、考えてみれば邸の中で見た覚えがなかった。もしかしたら存在しない可能性も考えていた方がいいかもしれない。ああでも、リリシアは時計を持っていたはずだ。
アストラを起こさないよう反対側からゆっくりベッドを下りて、チェストの上に置いた金庫を眺める。キラキラと光を返す金縁も白地も素敵だ。金の鍵を差し込み回す。小さく聞こえたカチリという小気味いい音に蓋を上げて中を覗けば、昨日入れた硬貨の入った袋が三つとロキシーさんから貰った小鳥が入っていた。それを確認して満足し頷く。
踵を基準にくるりと向きを変え、勉強机に向かった。踏み台を無視し貫に足を掛け、肘置きを掴んで乗り上げる。リリシアに見られていたら怒られていたことだろうが、実はこのほうが乗りやすい。子供でまだ体重が軽いからかもしれなかった。
机に置いたままの赤い合皮のような表紙を撫で、ついつい弛む頬をそのままに開く。黄色がかった見返しを捲り、罫線のないページに昨日書いたばかりの文字を眺めた。もはや懐かしいとさえ感じてしまう日本語を目で追うと、昨日のことが鮮明に思い出せる。目を細め、手書きだから少し斜めになってしまったページを半分に区切る点線、その下の文字を見つめた。
「あ」
そうして、日付がわからないことに気付く。
大変だ。日記なのに、そう言えば日付を書いていない。曜日というものはここには存在しているんだろうか。そもそも一年は三百六十五日なのか、十二か月なのか、一か月が三十日か三十一日なのかも知らない。今の季節さえもだ。
どうしようと開いたページを見つめ腕を組んだ。先生に後で聞こうか。カレンダーが存在するのかどうかも聞きたいところだ。というかどこに書きこもう。一応上下左右は少し開けてあるけど、ここに書きこむとなんだかバランスが悪い。
ううんと一人唸っているとドアがノックされた。返事を返せば、一拍の沈黙の後そっとドアが開く。エーデリア様だ。ベッドを見て目を丸くし、部屋を見渡すように動いた目と合う。
「おはようございます」
まだそんなに早かったのかと思いながら笑えば、エーデリア様はぱちりと瞬きをひとつし、「おはよう」と呆然とした風に零した。事態を把握できていないようすのエーデリア様になにをそんなに当惑しているのだろうかと思いながら、椅子から飛び降りて駆け寄る。
「今日も起きてたのね」
目の前まで行くとやっと常の様子に戻ったエーデリア様は、苦笑して私の頭を撫でながらそう言った。それに「はい」と返せば、ゆるりと表情を和らげる。
「さっきはなにをしていたの?」
「昨日書いた日記を確認していたんです」
言いながら視線を勉強机へ向けたエーデリア様にそう答えれば、目を丸くされた。「日記?」と首を傾げる姿に、相変わらず所作が可愛らしいなと思いつつ手を引く。驚いたエーデリア様は私に握られた手をまじまじと見つめ、それに笑うとまた当惑した目を向けてきた。勉強机へ向かって歩き出せばそのままついて来てくれる。
「昨日街に行った時にノートを買ったんです。それを日記に使いました」
開いたままだった日記をさりげなく閉じて、こちらを窺う緑の瞳を見上げた。目が合うとエーデリア様は小さく首を傾げる。
「それで今少し困ってたんです。時間があればなんですが、暦を教えてくれませんか?」
ノートとは別に本立てに挟んであった紙を一枚テーブルに置けば、エーデリア様はぱちりと瞬きをひとつ。にっこり笑って頷いた。
今日はエーデリア様とファデル様の三人でピクニックをすることになりました。
あまりに突然のことに自分で驚いている。なぜそうなったのか。始まりは今朝のエーデリア様の一言だ。
「そうだわ。日記をつけているなら、どうせだもの、特別なことを書きましょう」
暦を教えてもらった直後の話である。別に日記に書くために何かイベントをこなす必要はないと思うんですけど、私。でも嬉しそうに言われると断れないし、ピクニックしたいし、頷いてしまった。
お二人は忙しいんじゃないかと思ったけど、ファデル様は今日もお休みだそうだ。二日連続だなんて珍しい。で、エーデリア様は今日は外に行く予定もないから、自分で調整できる仕事だし、一日くらいいいよね! ということらしい。いいのか? よくわからないけども。
そんなこんなで朝食を済ませ、食後の散策に出て、少しだけ先生と授業をして、「家族水入らずで楽しんできてください」と先生がお出かけしたのを見送った後。現在リリシアにバスケットいっぱいのサンドイッチを用意してもらって、邸の裏口に来ているところです。
実は私こっち側に来るの初めてなんだよね。食後の散策は一度迷子になったのがトラウマで同じところぐるぐる回るしかできなくなりました。あの時先生がいなかったら私はどうなっていたのだろう……そう思うと恐ろしいので、使用人の皆が私に普通に応えてくれるようになるまでは新規開拓は自分で禁じている。
表の扉とは違い小さなドアだ。本当に裏口といった風なそれを開けリリシアが先に出る。その後について出れば、邸を囲む柵は一周しているようでそれが目に入った。崖は邸の前側だけらしい。裏は草っぱらというか、ピクニックに最適! といううたい文句をつけてもいいぐらいの見事な芝生。柵の外にある以上庭ではないのだろうけど、私有地、なんだろうか。
「二人とも、こっちよ」
声のした方を見れば、その柵の向こう側にエーデリア様とファデル様が立っていた。手を振るエーデリア様に振り返し、しかしこれはどうやって向こうに行くのだろうと内心首を傾げる。リリシアを見上げれば手を繋がれ歩き出した。大人しくついていけば、エーデリア様が立っているところが扉になっていたらしい。バスケットを抱えた手で器用に開け、私を先に通してリリシアが閉めるとエーデリア様が両手を合わせ音を立てる。
「さあ、ピクニックと行きましょう!」
緩やかな風も心地よく、空も晴れ晴れとしていて日射しも暖かい。まさにピクニック日和である。
にこにこと楽しそうに言われ、釣られて笑ってしまった。ファデル様もそんなエーデリア様を見て優しく目元を弛めているし、リリシアも楽しそうだ。なんだかここに生まれて初めて、正しく家族の交流というものをしようとしている。どうしよう。どうすればいいのかさっぱりわからない。そもそもピクニックって、したいとは思ったけど改めて言われるとなにをすればいいんだろう。
エーデリア様が右、ファデル様が左とそれぞれ私の手を取りゆっくり歩き出す。二人の笑顔が私に向いていて、何か話さなきゃと思うけど話題がなにも浮かばない。何せ私の日常は邸の中だ。わざわざ聞いて、と話すようなこともない。
ちらりと見上げれば、エーデリア様は一層嬉しそうに笑った。
「今日はシアに、花冠の作り方を教えてもらいたいの」
「え?」
驚いて目を丸くすれば、ぱっと手が解かれる。それにも驚けばファデル様も手を解いて、立ち止った私の前に回り込んだ。
「さあ! 教えてちょうだい!」
「私にもだ!」
教えてくれ、と言いながら二人はふふんと自信たっぷりな顔で胸を張っていて、それがおかしくて笑ってしまった。どう見ても教えをこう顔ではない。
「教えて差し上げましょう」
真似をするように私も胸を張って答えれば、二人は顔を見合わせ、ついで私を見る。首を傾げればエーデリア様がばっと抱きしめてきた。驚いて瞬きを繰り返すと、ファデル様が地べたに座り頬杖をつく。愛しげなその目が私に向けられているのか、それともエーデリア様に向けられているのかわからなかった。いいや、きっとどっちにもなのだろう。
「これでは教えられませんよ」
思わず零れた苦笑をそのままに背中を叩けば、「そうね」と小さな声が聞こえた。エーデリア様が今何を思っているのか私にはわからない。わからないけど、きっとそれでいいのだろう。人の心なんて見えないし、見えなくていい。
しばらくして離れたエーデリア様はファデル様の隣にちょこんと座り、期待を込めた目で私を見上げた。私は今更地面を見て、花が幾つか咲いているのを確かめる。
「これでは一つしかできないと思います」
いいんですか? と見れば、エーデリア様は目を丸くして地面を見回し、「あら」と零した。考えていなかったらしい。あれはシオル様のお花畑があったからこそできたものなのだけど。
「サイズを小さくしましょうか」
言いながら座り、花を摘む。「見ていてくださいね」と言いながら手を動かしていけば、二人は目を輝かせてそれを見ていた。なんだか二人の方が子供の様で、おかしくてならない。そうして抱いた穏やかな心地に、自分で驚いてしまった。
大丈夫だ。これは二人が機会をくれて、そうしてやっとこうなっている。それがわかっているからこそ、大丈夫だと思えた。二人はまだ私にチャンスをくれている。
説明しながらちらりと盗み見る。自分と私の手元を交互に見ている様は真剣で、こちらの視線には気づいていないようだ。ファデル様は細かい作業が得意なようで、何回か繰り返すともう私の手元を見なくてもくるくると器用に指を動かし一人で作れていた。エーデリア様は意外なことに苦手なようで、最初の一手から進んでいない。何度も次を宛がってはぽろぽろと花を落とし、顔を顰めたり、首を傾げたり、私の手元を睨みつけたりと見ていて少し面白い。
(ああもう、そうじゃなくて)
苦笑しながら自分の作りかけの花冠を置く。エーデリア様に手を伸ばし、
「エー……」
名前を呼ぼうとして、止めた。エーデリア様も自分を呼よぼうとしたことに気付いたのだろう。顔を上げ、私の顔を見る。そこにちらりと覗く色に胸が痛み、行き場のなくなった手を下ろして視線を逸らした。
ずっと悩んでいた。ずっとだ。何とお呼びすればいいのだろうかと、ずっと。
ぐっと力を入れて顔を上げる。驚いた様子で目を丸くしたエーデリア様に口を開いて大きく息を吸い、けれど勢いをなくした吐息が漏れた。もう一度口を開き、ゆっくり息を吸う。
「お、かあ、さま」
自分で思ったより、小さな声がでた。さわりと、柔らかく吹いた風ですら消えてしまいそうなほど。
「――」
目を見開いたエーデリア様の手から花が落ちる。不安げに見守っていたファデル様まで花を取り落とし、目を見張って私を見ていた。どさりと背後で聞こえた音から察するに、リリシアもバスケットを落としたのだろう。
例えようのない複雑な心を堪えるように唇を噛む。もに、と顔を歪め、その目から逃げるように視線を外した。その驚きようが今までの三人の心を露わすようで、申し訳なさや居た堪れなさを感じてしょうがない。
「と、お呼びするのと、母上とお呼びするのとお母さんとお呼びするのと、ママと、お呼びするの、どれがいいですか」
口を開き、場を誤魔化すように矢継ぎ早に指を折っていく。計四つの候補が出そろったところでやっと顔を上げれば、エーデリア様は目に涙をため、両手で口を押さえていた。目が合うとふるりと力なく首が振られる。その眉根がきゅうと寄った。
「なんだっていいわ」
震える声で返された答えに僅かに目を見張る。もう一度、力なく首が振られ、
「なんだっていい。あなたがそう呼んでくれるのなら、なんだって」
零れた涙に、胸が痛んだ。
最後は嗚咽交じりになった声に視界が滲む。ぼろぼろと、大粒の涙を零すエーデリア様の肩を抱いたファデル様までその目に涙を滲ませていて、拳を握った。
「ごめんなさい」
声が震える。胸が痛くて痛くて、けれど一番に感じているのは、安堵だ。
私はどれだけこの人たちに甘えていたのだろう。この人たちはどれだけ私を待っていてくれたのだろう。あきらめはしなかったのだろうか。
五年間もなにも応えてくれなかった娘が、やっと目覚めたというのに自分たちを親と呼んでくれない。親だと思っているのかさえ分からない。そんな気持ち、私にはわからない。考えただけで苦しくて悲しくて寂しいのに、この人たちは一体どんな気持ちで、どんな思いで、待ち続けてくれたんだろう。
「今まで、呼べなくて……ごめんなさい」
もう大丈夫です。ちゃんと、大丈夫です。
どう伝えていいかもわからない感謝が、謝罪が、胸のなかでごちゃ混ぜになっていく。苦しくて苦しくて仕方がなかった。
それでも顔は下げない。向けられる視線が、緑の瞳が、この体と同じ青の瞳が愛しげに、私を見つめるから。
胸を締め付ける心苦しさは、わかっているからだ。だからこそこんなにも痛くて苦しくて、それ以上に安堵している。
「今まで待っていてくれて、ありがとう」
この人たちが。どうしようもないほど優しい、この人たちが。
私の、両親なのだ。
読んでいただきありがとうございました。