12
生まれた子を胸に抱いた時、どんな感情を抱いただろう。
それは喜びや、感謝、安堵、そういった明るいものだけではなかった。先への不安、こんなふうに生んでしまったことへの自責、そういうものも確かに抱いたのだ。けれど、そんなものも追いやってしまうくらいに、愛しくてならなかった。
どうしてもっと早くに、抱きしめてやらなかったのだろう。そう後悔するほどに、軽くて小さい、けれど重くて大きいたったひとつの、大切な命を愛しく思った。
まだしっかりと開かない瞼も、ゆるく握られたふくふくとした小さな手も、つつけばどこまでも指が沈んでしまいそうなやわらかな頬も、すべてが、すべてが。
この子を守っていかなければ。そう思った。
毎日毎日、時間があれば会いに行った。それだってたくさんの時間が取れたわけではない。リリシアの方がよっぽど親と言えるのではないかというほど傍にいただろう。それでも祈りだけは、毎朝毎晩欠かさなかった。一度たりとも。それに意味があったのかは、今となってはわからないけれど。
「シア、明日は私と過ごしましょう?」
そう笑いかけると、僅かに体を強張らせるのが見てとれる。笑顔の裏で、まだ駄目なのだと察するには、容易い。
最初は違和感を覚えただけ。それが次第に確信に代わり、愕然としたのを今でも覚えている。
抱き締めても返されない腕。笑いかけると返されるぎこちない困ったような仕草。余所余所しい口調。
当然だったのかもしれない。生まれて一週間で、五年間を取り戻すようにまるで当たり前のように動き話すようになって、気付かなかったのは私たちだ。
乳を与えられていた記憶もない。片手で抱えられてしまう小さな体を抱き上げられた記憶もない。これは気付かなかった私たちが、あの子と五年分触れあわなかった結果。一週間で五年を過ごしたあの子に、その分触れあわなかった結果。
私たちが愛した五年間は、あの子にとっては存在しないのに。
気づいたときには遅かった。だけどあの子なりに懸命に私たちを見ようとしてくれていることにも、気づいていた。
あの子にとって、私たちはなんだろう。
きっと、親ではない。もはや家族ですらないのかもしれない。いいや、あの子にはまだ、親も家族もわからないのではないだろうか。それを学ぶ時間を失ってしまった。
はじめて呼ばれたとき、耳を疑った。エーデリア様、と、呼ぶのだ。実の娘が、親を、ファデル様、エーデリア様と。
自分が間違えてしまったことを悟った。
一番苦しんでいるのはあの子のはずだ。当然のように親の顔をして接してくる知らない大人に、当然のようにそうあったのだと自分に接してくる周囲に、環境に。だけど自分がおかしいのだと思っていたに違いない。ふとしたときに見せる目が、仕草が、あの子の葛藤を表すようで。
だけど、だからこそ、私はわかっていることを悟られてはいけない。
ただただ、何も気づかない振りをして愛して、そうしてあの子の答えを、私たちにとっては審判を、待つべきなのだ。
これは逃げだろうか。そうとも思う。事実逃げているだけなのかもしれない。それでも今を見極めようとしている娘に、これ以上の混乱を与えたくはなかった。ただの日常以外を与えたくなかった。そうして判断が鈍ってしまうことに怯えている。
親である、私が、実の子供に怯えているのだ。
逃げたところで苦しいのは変わらないのに。想う分だけ、さらに苦しいだけなのに。
こんなひどいことがあるだろうか。愛している、愛しているといいながら、愛される自信がなくて怯えている。愛されなくとも構わないと、胸を張って愛することができないのだ。必死に愛していると伝えて、どうかあなたも愛してと願い、望み、押し付けようとしている。
たった一人の愛しい我が子に、愛されていないという事実が恐ろしかった。心の底から、逃げようもないほどに。
――私は、弱い。
あの子の心が、あの子の気持ちが見えない。
「あの子は、私たちが思っているより私たちを受け入れてくれているのかもしれない」
そう呟いた声に、気付かず眉が寄った。微笑み、時たま傷をさすりながらも幸せそうに今日を話す夫の言葉が信じられなかった。けれど帰ってきたあの子を抱き締めたとき、抱き締め返してくれた腕を思い出し期待もしてしまうのだ。そうかもしれない。そうであってほしいと。同時に、名前を呼ばれたことも思い出してしまう。
母と、呼んで欲しいわけではない。ただ余りにも遠い呼び名が、あの子との心の距離をあらわしているようで。
シオル様と会わせたかったのは、ただ仲良くなってほしいというだけではない。それもあったがユーオリアの親子を見てなにかを感じてほしいと願っていた。打算的だ。その計画が崩れたのはバチが当たったからかもしれない。
「ここにも魔物が集まってきています。シルラグルだけの問題ではないでしょう。陛下にはまだ話を通していないとのことでしたね。であれば、早急に使いをやるべきです。うちからも今朝だしたところですよ。動いて頂けることにあまり期待は出来ませんが、もし五日間の内に返事がなければ、対策はとっていただけないと考えるべきでしょう」
お互いの子供を会わせようと設けた時間は、緊急の会談へと場を変えた。子供たちを使用人に任せ、お互い装いにはふさわしくない表情と声音で顔をつき合わせる。重苦しい雰囲気で手を組み口元を隠したライベル様に目を伏せた。
「ユーオリアの騎士団の方は?」
「被害は大きいです。正直なところ、今朝が限界でした。もう持ちこたえられないでしょう」
「うちから派遣を」
「いいえ、それではシルラグルが危うくなる。幸いうちは壁がありますから、騎士団をなかに引っ込めてしまうこともできます。ただ壁がどれほど持ちこたえてくれるかは……」
沈痛な面持ちで言葉を濁し視線を剃らす。それに目を細め、息を吐いた。
ユーオリアはこうして状況を聞くことができたが、他の領のことはなにもわからない。
ライベル様と対策さえも浮かばないまま時間を過ごし玄関まで戻れば、シアが一人駆け寄って来た。隣どころか近くにシオル様の姿はない。もしや反りが合わなかったか、と心配しつつ聞けば、そういうわけではないようだった。遅れて戻ってきたシオル様が手に持つ花冠というものは、なんとシアが教えたという。
そのあとも二人は手紙のやり取りをしているようだった。文字の練習になるのだと嬉しそうにいっていたシアに良かったわねと微笑み、けれど考えていたものと違う結果にままならないと複雑な気持ちになる。
そうして過ごす日々の中で、夫やリリシア、ノイマン先生から聞かされるシアの成長を愛しく思い、同時に寂しく思い、時には耳を塞ぎたくもなった。
シアが目覚めてから一ヶ月がすぎる、夜。
「前庭の一番大きな木の下を使いたいのですが、いいですか?」
いつものように家族とノイマン先生でとっていた夕飯の後、お茶を飲んでゆっくりしていると、シアは唐突に口を開いた。相槌ばかりのあの子の突然のお願いに面食らい、すぐに気を取り直して頷く。なにも了承を取らずともここはあなたの家でもあるのだからといえば、シアは僅かに目を丸くし、視線を逸らして気まずげに頷いた。
何に使うのかは聞かない。詮索したくないというのもあるけれど、あの子の方から話してくれることを望んでいた。
シアはほっとしたように息を吐くと礼をいい、お茶を飲んで足早に退室していく。その背中と、こちらを窺いながら慌てて後を追うリリシアを見送りため息を吐いた。隣から向けられる気遣うような視線に気づかない振りをして、ノイマン先生を見る。
「今日はシアと街で過ごしたと聞きました。いかがでしたか?」
「ああ、そうでした。広場の出店でバンズを食べましたよ。お嬢様には少し固かったようで、苦戦していましたが。その後は雑貨屋へ行き、金袋と金庫、それとたしかロロジーでしたか。王都で流行っているというお守りを買っていました。本屋に寄って興味のあるものを自分で選んでもらい、最後に焼き菓子屋によりました。使用人の方にお渡ししたので、恐らく明日のおやつに出てくるかと思います。是非感想を言ってさし上げてください。お嬢様が選んだので」
「あらあら、明日が楽しみだわ」
こうして一日の終わりにあの子が部屋へ戻った後、あの子の一日を聞くのが日課になってしまったのはいつからだろう。本人から今日はこんなことをしたと聞きたいと諦め悪く思ってしまう。我儘を言うなら、今日は楽しかったの一言でいいから聞きたい。それでもそれは叶わないことなのだ。
それにしても、と口元に手を当てる。領内のお菓子屋はすべて把握していた。どれも食べたことがあるが、楽しみだ。どれを選んだのだろう。あの子が好きなのはどんな味? 大切に食べなければ。
「あと花屋にも寄りました。前で待っていてくれと言われたので何を選んだのかはわかりませんでしたが」
花屋。シアの部屋に花を飾ったという話は聞いていない。リリシアは聞いていないのだろうか。
「ああそれと、学園都市について話しました。私から話していいことかは迷いましたが、お嬢様も興味があったようなので」
「……そう、ですか」
忘れていた。
そうだ、眠っている間、このまま眠り続けていれば学園は関係がないからとすっかり意識から外れていた。いけない。こんな大事な話をし忘れていたなんて。
ああでも待って。あの子は、あと一年しかこの家で過ごせないの?
胸が痛んだ。このまま、あの子は私たちに審判を下す前に、いなくなってしまうのではと。思わず目を向ければ、夫は目を見張って、沈痛な面持ちで視線を落とした。
その夜、夜中に魔術の気配を感じて目が覚めた。すぐ近くだ。
窓の外をそっと覗き見れば、夕飯の席で聞いていた庭で一番大きな木、その陰でアストラに始めてあった日、一度だけ見たことのある少女の姿を前にシアが祈りを捧げるように跪いていた。
こんな時間になにを、と目を細める。握った手を俯く額に当てたその顔は髪に隠れて見えない。横で眠る夫を起こさないよう静かに窓を開けた。風はない。音も聞こえなかった。
魔力が踊るように仄かに光りを放つ魔法陣。土の基本陣だ。もう複合魔術を習ったのかと光に目を細めながら、姿を変えていく地面を見守った。出来あがったのは、綺麗に整えられた半円の石だ。厚みのある石。すぐ前に花を置き、それを撫でた。
祈るような仕草に、あの石の形。まるで、誰かを弔うかのような。
小さく、声が聞こえる。聞き取れないほどの小さな小さな声だった。アストラと会話しているわけでもないのかもしれない。
アストラが石の上に手を翳し、それが一瞬ほのかに光る。彼と言っていのか、やはり妖精だからだろう、魔術の気配が独特だった。
手向けの花。
誰の、とまで考え、アストラの真っ黒な目とかちあったような気がして息を呑む。視線を外すことができなくてそのまま数秒。明らかに合っている目に冷や汗が出始めた頃、その深淵のような瞳が逸らされた。
心臓がうるさい。
あれは本当に、妖精だろうか。夜の暗闇よりもくらい、深い深い黒だった。
深呼吸をひとつし、知らず緊張していた体から力を抜いた。一度大きく震えた体に情けなく苦笑いが漏れる。
「エーデリア?」
ぽやぽやとした寝ぼけた声に呼ばれ、「なんでもないわ」と微笑んで伸ばされた手を掴んだ。窓を閉め、布団にもぐる。
忘れなければ。見てしまったことも、アストラへ抱いた疑問も、感情も。
朝、いつものようにシアの部屋の戸をノックすれば返事が返ってきた。この一ヶ月の間たまにあったことだ。それ自体には驚かなかった。けれどこの戸の向こうにはアストラもいるのだと思うと、ノブにかけた手が震えそうになる。
いいや、忘れるのだ。そう決めたはずだ。
首を振りノブを捻った。そっと覗きこみベッドを見る。そこにはクッションに埋もれる黒猫の姿のみで、目を丸くし娘の姿を探せば勉強机に向かっていた。こんな朝から勉強していたんだろうか。
「おはようございます」
目が合うと向けられた自然な笑みになにが起こったのかわからず、瞬きをした。目に映るものは変わらない。
ここのところよく動くようになった表情だが、いつものぎこちない、よそよそしい笑みではないのだ。
「おはよう」
呆然と返せば、シアは首を傾げ、椅子から飛び降りて駆け寄ってきた。見上げる瞳にもう一度瞬き、苦笑する。
「今日も起きてたのね」
頭を撫でながら言えば、シアは「はい」と何故か嬉しそうに頷いた。その表情の意味はわからないけれど、何となくこちらも嬉しくなってしまう。
「さっきはなにをしていたの?」
聞きながら勉強机へ目をやれば、一冊の本が広げられていた。いや、あれはノートだろうか。本にしては文字の並びが崩れている。
「昨日書いた日記を確認していたんです」
「日記?」
私の視線を追うように振り向いたシアがそう言い、思わず首を傾げてしまった。思いもよらない答えだったのだ。日記など、誰に教わって書き始めたのか。ノイマン先生に文字の練習にでも勧められたのかもしれない。
驚いていればシアに手を握られた。触れる手にいつものような躊躇いがない。目を見張ってその手を見つめれば、おかしそうに笑われてしまった。そのまま手を引かれ勉強机へと近づいていく。
「昨日街に行った時にノートを買ったんです。それを日記に使いました」
その言葉につい視線をノートへ向ければ、中身を読む前に閉じられてしまった。見せたかったわけではないのなら、なんだろうか。
「それで今少し困ってたんです。時間があればなんですが、暦を教えてくれませんか?」
いいながら昨日まではなかった本立てから紙を一枚引き抜く。瞬きを一つし、見上げてくる笑顔に笑顔を返した。
「もちろんよ」
読んでくださりありがとうございました。




