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頷きながら「さあ座って」と促せばシアは大人しく椅子に座り、紙を私の前にずらした。ペンを渡され、どう書くのがわかりやすいかしらと一度視線を外す。
「えーと、暦よね。そうねえ、なにから説明すればいいのかしら」
とんとんとペンで口元を叩けば、「一年は何日ですか?」とシアが首を傾げた。
「一年は三百六十日よ。渡月、天月、赤月、深月の四つに区切られていて、一つの区切りが九十日なの」
「渡月と天月と赤月と深月」
説明しながら紙に書いていけば、シアはそれを見ながら繰り返した。それに「そう」と頷き、続ける。
「そうして区切られた一つの中でさらに三つに分かれているのよ。一月、二月、三月ってね。たとえば渡月なら渡の一月、渡の二月、渡の三月という風に呼ぶわ」
「渡の、ですか?」
「ええ。天月なら天の一月、天の二月、天の三月。赤月なら赤の一月、赤の二月、赤の三月。深月なら深の一月、深の二月、深の三月」
最初は興味深そうに頷いていたのが、紙を見ながら難しそうに首を傾げ目を瞬かせ出した。思わず口元が弛む。こちらに気付くと目を丸くし、拗ねるように唇を尖らせた。
「ごめんなさい。馬鹿にしているわけじゃないのよ」
「いえ、気にしてませんから」
嘘だ。そんなにわかりやすい嘘はない。余計におかしくてさらに笑いながらシアの頭を撫でる。
「一月は三十日。それが三つで区切り月、さらにそれが四つで一年。ここまではわかった?」
「はい。わかりやすいです」
気を取り直して紙に書いた数字を囲えば、シアはそれを見つめてしっかりと頷いた。それに微笑み、「じゃあ次ね」と数字を一から五まで並べる。
「一月の中に六日お休みの日があるの。礼日と言って、五日に一度あるのよ」
言いながらその下に六から十までを上に合わせて。さらにその下に十一から十五まで、と五区切りで三十まで並べ、右端にそろっている五の倍数を四角く囲った。
「五日が初礼日、十日が第二礼日、十五日が第三礼日と順番に呼ばれていて、最後の三十日が終礼日。たとえば、そうね、渡の一月三礼日、みたいな言い方になるの」
「ちょっと難しいですね」
「そう、かしら? そうだとしてもすぐに慣れるわ。だって日記を書くんでしょう? 毎日使っていくのだもの。ちなみに、昨日は天の一月三十日よ」
「あっ終礼日、ですね!」
ぱっと嬉しそうに見上げてきたシアに「正解」と頷き頭を撫でる。はにかむ娘に頬が緩み、心が満たされるような気がした。
「そうだわ。日記をつけているなら、どうせだもの、特別なことを書きましょう」
そうしてふと、思いついた。
「ピクニックをするの!」
ファデルも三人で時間を取ろうと言ってくれていたし、丁度いい。
手を合わせて見つめれば、シアはきょとんと目を丸くし瞬きを繰り返した。一度視線を外したその仕草に駄目だったかと気が沈みかけた時、
「はい、是非。楽しみです」
シアは柔らかく笑い、そう頷いた。
「あなた! 起きて! 休みだからって寝ている場合じゃないわ!」
「ん? うん? どうした突然」
寝室に飛び入り、まだ眠っていたファデルの上に乗り上げる。目を擦りながら見上げてきた顔を両手で挟んだ。
「聞いて驚いて! シアとピクニックよ!」
カッと、しぱしぱ瞬きを繰り返していた目が見開かれる。それと同時に上体を起こし、私の両腕を掴んだ。わなわなと震える唇に堪えようもなく口元が緩み、だらしない笑みのままその驚愕を見届ける。
「本当に、ピクニックを?」
「ええ、本当に、ピクニックを」
挟んだままの顔に自分の顔を近づける。目の前の瞳はきょとりと瞬かれ、しかしまっすぐに目を合わせてきた。
「大変だ」
そう、大変だ。
「急いで準備をしなきゃ!」
「急いで準備をしなければ!」
声を揃えてベットから飛び降りる。布団をはぎとって起き上がったファデルはまだ寝間着だ。慌ててクローゼットを漁り始めた姿を見てうきうきした心を堪えられない。まるで少女のようにくるくると回りスカートを広げ、ああと握った手を胸に引き寄せた。
「念願の親子三人での時間よ」
たった一年しかないけれど、なにもそこで永遠の別れをするわけではない。年に二回は帰ってくるはずだし、もちろんあの子が帰りたくないと思えばそれまでだけど、それでも望みはある。
これから少しずつ、少しずつ、私たちは親子になっていけばいい。今朝のあの子を見てそう思えたのだ。焦る必要はない。時間ならある。愛する心もここにある。
柔らかな表情。親しげな態度。あの子は変わっていっている。ならば、怯えるばかりだった私も変わらなければ。歩み寄るのはあの子だけではない。私もまた、歩み寄るべきなのだ。
「楽しみね」
ほうと息を吐き、寝間着を手に私を見守るように微笑み見つめていたファデルに笑いかける。その表情は素敵だけれど、服は早く来た方がいいと思うわ。
着替えたファデルを連れてリリシアを呼び、ノイマン先生に事情を話し、準備万端で迎えたお昼。はしゃぎすぎて久し振りに料理をしてしまった。といってもサンドイッチを作っただけだけど、リリシアと二人で料理をするなんて久し振りで、それも楽しかった。あの子はおいしいと言ってくれるだろうか。先生の話ではバンズは食べられないようだったから、柔らかいパンでサンドイッチにしたのだけど。
そわそわと落ち着きのない私をファデルが苦笑して見ていた。朝は自分だってあんなに驚いていたのにと思いながら、やっぱり過ごした時間の違いかしらと少し拗ねるような心地になる。あの子の魔術は私が見れればよかったのに。ああでも、それではノイマン先生との出会いもなかったのね。あの子が先生を見る時の目は穏やかだ。そんな人を奪ってしまうわけにはいかない。
「ああほら、来たよ」
とんと背中に手を当てて言われ、裏口を見た。ドアが開き出てきたのはリリシアだ。そのまま戸を開けシアを通らせると振り向いて頭を下げてきた。
シアは邸の裏はもしかしたら初めて見るのかもしれない。呆気にとられたように草原を見つめていた。その様子に笑い、落ち着かない心のまま手を振る。
「二人とも、こっちよ」
声をかければこちらに気付いたシアが振り向き、小さく手を振り返してくれた。嬉しそうに笑うリリシアに手を引かれやってくると、私を見上げてくる。
「さあ、ピクニックといきましょう!」
にっこりと笑いかければ、シアは「はい」と頷いた。ファデルと目を合わせ、それぞれシアの手を取る。リリシアは後ろに静かに控え、歩き出すとそのままついて来てくれた。
シアは少し戸惑ったような様子で、けれどそこに気まずさは見えない。それに密かに安堵しながら、少しだけ握る手に力を込めた。窺うように向けられた視線に笑みを深める。
「今日はシアに、花冠の作り方を教えてもらいたいの」
「え?」
思いもよらない言葉だったのか、シアの足が止まる。それを見てファデルと頷きあい、事前に話し合ったとおり、手をほどき前に回り込んだ。ついていけないのかぱちぱちと瞬きを繰り返すシアに、二人して腰に手を当て胸を張る。
「さあ! 教えてちょうだい!」
「私にもだ!」
どんどこい、と構えれば、シアは一瞬きょとんと目を丸くしすぐに笑った。おかしそうに口元を隠しながら漏れた笑みにこちらが目を丸くすれば、咳払いを一つ。
「教えて差し上げましょう」
私たちを真似するように同じポーズで、笑ってそう言った。
思わずファデルと顔を見合わせる。シアを見れば、笑ったまま小さく首を傾げた。それをみて胸に満ちた感情はなんと言い表せばいいのだろう。震えそうになる腕で、なんてことないように笑うシアを抱きしめた。
――あの子は、私たちが思っているより私たちを受け入れてくれているのかもしれない。
ああ、ああ、本当にそうだったのかもしれない。私の怯える心がこの子を遠ざけていただけ。この子はこんなにも、私たちを見てくれていたのに。受け入れてくれていたのに。
「これでは教えられませんよ」
背中を叩きながらの、困ったようなその声音にすら喜びが滲む。「そうね」と頷きながらも離れがたくて、抵抗されないのをいいことにもう少し、もう少しと抱きしめ続けた。とうとうファデルに肩を叩かれ、そこでやっと離したくらいだ。シアは困ったように笑っていた。
教えてもらうためにも改めて、とシアの前に並んで座る。見上げれば、シアは地面を見回し首を傾げた。
「これでは一つしかできないと思います」
難しそうに口元に指を当てそう言ったシアに、私も地面を見回す。花は咲いているけど、これでは少ないのかしら。考えてみれば確かにシオル様に貰った花冠にはたくさんの花が使われていた。
「サイズを小さくしましょうか」
言いながらスカートを上手に畳んで座り、花に触れる。何かを確かめるように撫でて摘むと、「見ていてくださいね」と言いながらもう幾つか花を摘み、それを束ねるように器用に指を動かしていった。
「そう難しいことはないはずなので、とりあえずやってみましょう」
「わかったわ」
一度組んだ花を崩して花を摘むよう促され、意気込んで花を摘む。今度はゆっくりと指を動かしてくれて、それを見ながらこちらも同じように茎を曲げて行き……あら?
どうしてかしら、全然同じようにならないわ。
何度か繰り返すけど、どうしてもぽろぽろと手元から花が落ちてしまう。茎も曲げ過ぎたのか色が濃くなって、水分が滲みでていた。慌ててファデルを見れば、こちらには見向きもせず器用に指を動かしている。宛がう花ももう幾つ目か、シアの手元さえ見ていなかった。
(ええ? どうしてかしら。おかしいわ)
同じように動かしているつもりなのに、どうして同じような形にならないのか。そもそも組むことすらできていないのだから、本当に不可思議でならない。
どんどん自分の顔が険しくなっていくのを自覚しつつもどうしようもない。眉にも手にも首にも、どころか全身に力を入れながら何度も何度も繰り返していると、
「エー……」
シアの声が聞こえ、動きを止めた。反射的に顔を上げ、伸ばされた手と向けられた目を見る。いつものように私を、呼ぼうとしたのだろう。目が合うと、その目が僅かに細まり視線が逸らされる。下ろした手を組み、指を擦っていた。
静かだ。風さえも止んでしまったような気がした。ファデルも手を止め、私たちを見ている。リリシアに至っては辛そうに眉を寄せ、目を逸らしていた。
無理をしなくていいのよと、一言言えればよかった。けれど目を見るだけでシアの中で葛藤が渦巻いているのがわかって、なにも言えない。この子は今何を悩んでいるのだろうか。何を考え、なにを苦しんでいるのだろう。それをくみ取ってあげられないことが悲しかった。
意を決したようにぐっと口元に力を入れ、シアが顔を上げる。突然のことに目を丸くすると大きく口を開き、何かを言おうとして口ごもる。躊躇いを握りつぶすように拳に力が入り、再び口が開かれた。
「――お、かあ、さま」
小さな、小さな声だった。
それこそほんの僅かな風にすら掻き消えてしまいそうなほど小さな。
目を見張り、思考も体も動きを止めた。手から花が落ちるのも気づかず呆然と、居た堪れないというように顔を歪め視線を逸らしたシアを見つめ、
「と、お呼びするのと、母上とお呼びするのとお母さんとお呼びするのと、ママと、お呼びするの、どれがいいですか」
滲んだ涙に口元を押さえた。
指を折り、ぎこちない笑みを浮かべながらそう言い顔を上げたシアに首を振る。
「なんだっていいわ」
ぼやけだした視界では、もうシアがどんな顔をしているのかもわからなかった。
唇が、声が、息が震える。目頭が熱い。堪えようのない涙が、限界を越えて目じりを流れるのがわかった。
「なんだっていい。あなたがそう呼んでくれるのなら、なんだって」
頬を伝い、手まで濡らす涙が零れれば零れるだけ視界がクリアになる。きゅうと悲しげに歪んだシアの顔がはっきりと見えた。その目にも今にも零れそうなほどの涙が揺れていて、余計に涙があふれる。
そっと肩を抱かれ、見なくともファデルだとわかる腕に手を添えた。
「ごめんなさい」
震えるかすれた声で溢される謝罪に首を振る。謝るのは私だ。私たちだ。
ずっとずっと距離を感じていた。それを私たちが作り上げたのだと自覚もせずに、こんなにも前に進もうとしてくれていたこの子を見ずに。
「今まで、呼べなくて……ごめんなさい」
ぼろぼろと大粒の涙を零し、しゃくり上げながら告げられる謝罪に胸が痛んだ。
この子はどこまで気づいていたのだろう。
逃げようとは思わなかったのだろうか。向けられる期待から、わけのわからない状況から、笑顔の裏で怯える私に考えるのをやめて、逃げようと。
この子は今まで、どれだけ自分を責めてきたのだろう。悪いのは私たちなのに。間違ったのは私たちなのに。
こんなに苦しげに吐き出すほど、自分を責めてきたのだろうか。
待っていた。確かに待っていた。この時をずっと。けれどこの子が苦しんできたことも、知っていた。
ああ、だからこそ――
「今まで、待っていてくれて、ありがとう」
――今までずっと、逃げずに向き合おうとしてくれて、ありがとう。
まるであの日のようだった。
掻き抱くように腕の中に納めた小さな体。為されるがまま抱きしめられ、体を折る小さな、けれどあの日よりもしっかりとした体躯。
何よりあの日と違うのは、抱き締め返してくれるこの腕と、涙に濡れた頬だろう。
おずおずと触れてくる手が愛しくて、同じ柔らかな髪が愛しくて、私よりも少し高い体温も愛おしい。
「ああ、シア、シア。ごめんなさい。今まで苦しませて、ごめんなさい」
小さな頭に頬を寄せる。手を滑らせれば絡むことなく指を通り抜ける柔らかい髪。色も、質も私とそっくりだった。ゆるりと横に振られる頭に目を瞑り、「いいえ」と撫でる。
こんなに小さな子に、私たちは何を望んできたのだろう。何を押し付けてきたのだろう。
こんなことを言わせてしまうまで、気づかなかったなんて。
「ありがとう。私たちの元に、生まれてきてくれて」
読んでいただきありがとうございました。
↓用語説明
◇暦
一年は360日。一月は30日。五の倍数日に礼日という休みの日がある。
渡月 1月 2月 3月
天月 1月 2月 3月
赤月 1月 2月 3月
深月 1月 2月 3月
の計12か月
5日 初礼日
10日、15日…25日 二礼日、三礼日…五礼日
30日 終礼日




