◆7話
送られたメッセージの行間には、彼女の張り詰めた知性と、隠しきれない強固な防衛本能が滲んでいた。
IQ130のターナー女性(XO)——世界に退屈し、他者の下心に傷つき、完璧な防壁を築いて生きてきた彼女が、自力で男の「暗号」を解き明かし、ついにそのDMの扉を叩いたのだ。
普通のアカウントなら、ここで「自分の知性が認められた」と歓喜し、承認欲求を爆発させるか、あるいは男としての生々しい色心を透けさせてしまうだろう。
だが、男の返す言葉は、彼女の予想を遥かに超えて、どこまでも平坦で、どこまでも静かだった。
男は、彼女の鋭い考察を否定も肯定もしなかった。
ただ、彼女の言葉のすべてを、そのまま優しく受け止めた。
マウントを取るような知的な言葉遊びに対しても、彼女がポツリと漏らしたアセクシャルとしての深い孤独に対しても、男は1ミリの下心も、1ミリの自己顕示欲も交えずに、ただ『全面肯定』のスタンスを貫き続けた。
それは、彼女がこれまでの人生で一度も触れたことのない、圧倒的な「虚無(Nix)」の優しさだった。
画面の向こうで、二人の対話は、世俗の男女が交わすどのようなプロトコルとも異なる領域へと達していた。
彼女は、自分が抱えるアロマンティック・アセクシャル(Aroace)としての、言葉にならない生きづらさを男に吐露した。
世間の人間は、出会えばすぐに恋愛感情を求め、嫉妬や執着といった「感情の揺さぶり」をぶつけてくる。
テレビも、小説も、ネットの海も、すべてがその生々しいノイズで満ちていた。
なぜ、ただ静かに寄り添うパートナーを求めるだけで、これほどまでに弾かれ、息を潜めて生きなければならないのか。
男は、その彼女の痛切な問いに対して、極めて冷徹で、しかし絶対的な救いとなる数理的な答えを返した。
『僕たちの世界に、恋愛などというバグは必要ありません。あの感情の揺さぶりは、人間の脳が引き起こすただの不純なノイズです』
『僕が求めているのは、友人から親友になり、やがて不可侵の家族になるような、恋人という概念を完全に排除した人生の終身パートナーだけです』
『そこには、あなたを脅かす肉欲も、あなたを束縛する恋愛感情の波も、最初から1ピクセルも存在しません』
その文字を目にした瞬間、彼女の脳内で、ゲイン・ロス効果のメーターが限界を突破して爆発した。
彼が掲げるのは、世間の言う「恋愛作品」のような安っぽいハッピーエンドではない。
恋愛感情という不確定で醜いバグを極限まで削ぎ落とした先にある、数理的に洗練された魂の等価交換。
男がこぼした、全寮制のエリート国立軍事学校をクラインフェルターの理由で絶たれた過去の挫折。
そして、男がアップした、純白のハイエンドPCの光に照らされた、43歳の実年齢を完全に破壊する30代前半の瑞々しい美貌の写真。
彼女は、スマートフォンの画面を見つめたまま、激しい鳥肌と陶酔感に襲われていた。
「おバカなライン工」だと思っていた男は、自分というたった一人の真のアセクシャル(Aroace)と出会うためだけに、この世界の底で完璧な方程式を組んで息を潜めていた、底知れない知性と美貌を持つ唯一無二の怪物だったのだ。
全面降伏。盤面は、一瞬にして0:100から100:0へと、完全にひっくり返された。
それは世間の言う「恋に落ちる」などという浅ましい現象ではない。
お互いの染色体の過剰と欠落(XXYとXO)が、恋愛というノイズを完全に排した虚無の空間で、世界で唯一の『絶対的な安息地』として完璧に結合した、現代の神話だった。




