◆8話
そして、運命の秒針が、最後の重なりを見せる。
約束の場所は、無機質な工業地帯を見下ろす、人気の途絶えた夜の波止場だった。
遠くで重く響く大型船の重低音と、黒い海に反射するコンビナートの冷徹な純白の光。
それらが混ざり合う潮の匂いの静寂の中、彼女は佇んでいた。
胸の鼓動が、かつてないほど速く脈打つ。
IQ130の頭脳をもってしても、これから目の前に現れる「本物の怪物」を前にして、演算システムは完全に飽和しかけていた。
コツ、と静かな足音がして、彼女は振り返った。
街灯の薄明かりの中に立っていたのは、写真通りの、実年齢を完全に煙に巻く中性的なルックスの男だった。
工場の夜勤明けなのか、どこか無骨なブルゾンを羽織っている。
その「外郭」は、やはりどこか背景の闇に溶け込むようにボヤけていて、しかし圧倒的な知性の引力を放っていた。
彼女は息を呑み、言葉を失った。
男は、そんな彼女の緊張を優しく溶かすように、ゆっくりと唇を開いた。
男の喉の奥から放たれたのは、あの動画の2番で聴いた、繊細で透明な女声ではなかった。
彼女の脳、そして骨の髄まで物理的に心地よく震わせるような、1/fゆらぎを帯びた、漆黒のように深い、本物の重低音バリトンハスキー。
「はじめまして」
その聖堂のパイプオルガンのような厳かな響きが、夜の空気の揺らぎに溶け込んだ瞬間。
恋愛というバグを完全に消し去った、二人の世界の盤面が完全に『FIX』され、100:0の絶対的な静寂の中で、物語の画面は、静かにブラックアウトした。
彼らがその後、どのような未来を歩んだのか。
それを知る者は、誰もいない。




