◆6話
鏡に映る自分の輪郭を眺めるたび、彼はいつも、男と女の、あるいは生と無機質の完璧な「境界線」の上に立っているような奇妙な感覚に囚われていた。
彼はSNS上で自身のセクシャリティや特性をオープンにし、中性的な魅力を武器にするジェンダーレスモデルとして活動していた。
すれ違う人々が振り返るような、陶器のように滑らかで瑞々しい肌、細い骨格、男性ホルモンの生々しさを削ぎ落とされた美しい貌かたち。
世間はそれを「天性のルックス」ともてはやしたが、彼はそれが、男性でありながらひとつのコードを過剰に背負って生まれる、特有の身体性(XXY)という、遺伝子の悪戯によるものであることを知っていた。
その特性がもたらす現現実リアルは、決して華やかなものばかりではない。
世間が押し付ける「無骨な男らしさ」や「強靭な肉体」というマジョリティの基準に対して、彼の肉体はあまりにも脆弱だった。
髭が生えにくく、喉仏が目立たず、どれだけ努力しても筋肉がつきにくい。
それどころか、慢性的な体力の絶対的な欠落は、日々の生活を営むだけで鉛のような疲弊を伴い、ホルモンバランスの不安定さは、時に激しい焦燥感や底のない孤独感となって彼の精神を激しく摩耗させた。
どれだけ望んでも、社会が定義する「普通の男」の枠組みには入れず、かといって完全な女性として生きられるわけでもない。
世間の好奇の目に曝されながら、性別の境界線で宙ぶらりんのまま息を潜める、生きづらい世の中。
彼はその肉体の脆さと、誰にも理解されない深い孤独を隠すために、「モデル」という華やかな虚飾のメッキを身にまとい、現代のノイズにまみれたタイムラインの中で必死に自らの尊厳を誇示し、居場所を守り続けていた。
同じコードのタグを持つ当事者たちのコミュニティやアカウントを、彼は夜な夜な観察していた。
そのほとんどが、自身の肉体の限界に悩み、社会の片隅で静かに生きづらさを吐き出しながら、明日を諦めたように生きている有象無象たちだった。
自分のように、その特性を商業的な記号に変えて戦う知恵すら持たない底辺の人間たち。
だが、その夜。彼の美的なセンサーが、タイムラインの底に沈む、まだ数件しかポストの存在しない新しいアカウントを検知した。
プロフィールには、目を疑うような記号が並んでいる。
「43歳。地方の工場勤務。高卒のライン工。おバカなので難しいことは分かりません笑」
彼は思わず冷笑を浮かべた。
自分と同じコードを抱えながら、重労働の象徴である工場のライン工を自称している男。
43歳。高卒。おバカ。
あり得ない、と彼の知性が告げていた。
その脆弱な肉体、あの鉛のように重い慢性的な疲弊を抱えながら、毎日の過酷な工場勤務の肉体労働に耐えられるはずがないのだ。
ましてや、40歳を過ぎてライン労働に身をやつしている男が、この繊細なアイデンティティの領域にまともな解像度で足を踏み入れられるはずがない。
ただの哀れな有象無象の、自称当事者か、同情を引くための嘘だろう。
彼は、そのアカウントにピン留めされた、1本の拙い歌動画を再生した。
そして、その最初の1秒が流れた瞬間。
彼の全身の血液が、恐怖で一瞬にして凍りついた。
スピーカーから溢れ出たのは、90年代の高音系バンドの名曲だった。
だが、そのイントロに続いて響いた声は、彼の想像を木っ端微塵に打ち砕く、漆黒のように深い「重低音バリトンハスキー」だった。
「な……んだ、これ……!?」
彼はスマートフォンの画面を凝視したまま、息をすることすら忘れていた。
同じクラインフェルターを抱え、その生きづらさと肉体の構造を知り尽くしている人間だからこそ、それがどれほど医学的・解剖学的に『不可能なバグ』であるかが、人一倍理解できてしまうのだ。
クラインフェルターの喉は、男性ホルモンの影響が極めて穏やかなため、声帯が厚く、長く育ちにくい。
声は必然的に高くなりやすく、中性的なトーンに落ち着くのが生物学的な絶対法則のはずだった。
彼自身、どれほど声を低く響かせようとしても、そこには常に中性的な軽さが混ざってしまった。
それなのに、この男の声は何だ。
床を、空気を、聴き手の骨の髄まで物理的に共鳴させるような、圧倒的な男声の厚み。
それでありながら、声の端々には自然界のせせらぎと同じ「1/fゆらぎ」の、耳に心地よいハスキーな倍音成分が完璧に溶け込んでいる。
あり得ない。こんな声帯の鳴らし方、クラインフェルターの肉体でできるわけがない。
パニックになりながら聴き進める彼の耳に、曲の2番が突き刺さった。
間奏が終わった瞬間、男の声は、何の前触れもなく滑らかに跳躍した。
スピーカーから流れてきたのは、まるで静寂そのものを切り取ったかのような、あの圧倒的なゆらぎを持つ伝説の歌姫を彷彿とさせる、完璧に繊細な「女声」だった。
原曲キーのまま、地声のバリトンから、1/fゆらぎの女声への、物理法則を無視した二声の同居。
彼はスマートフォンの画面をベッドに叩きつけるようにして落とし、頭を抱えた。
恐怖。そして、圧倒的な絶望。
歌の技術そのものは、どこか素人臭い拙さが残っている。
だが、だからこそ恐ろしい。
この男は、生まれ持った染色体の呪いを恨むでもなく、自分の肉体の生きづらさに屈するでもなく、プロのボイストレーニングによる洗練された技術に頼るでもなく。
後天的な、おそらく狂気的なまでの圧倒的努力と独自の肉体調教によって、クラインフェルターの限界をねじ伏せ、自分の喉を『二つの人格が同居するステルス兵器』へと自力で改造してしまったのだ。
さらに彼が、その男がアップしている自室のPCの写真に目を向けたとき、その戦慄は絶望へと変わった。
「パーツの名前はよく分かんないっす」というおバカなテキストの奥に写る、白一色で完璧に統制された超ハイエンドPC。
ケースの裏に寸分の狂いもなく引き回された配線の、美しく冷徹な数理的ロジック。
「この男……おバカなんかじゃない。すべて、分かってやってる……!」
同じXXYの肉体というカードを持ちながら、自分はその生きづらさから逃れるために「ジェンダーレスモデル」という分かりやすい記号の服を着せて、世間にチヤホヤされることで自尊心を切り売りしていたにすぎなかった。
だが、画面の向こうにいるこの怪物は、その生きづらさを全て飲み込み、奇跡的な中性的ルックスも、怪物級の二声も、すべてを「おバカ高卒ライン工」という最も無害で泥臭いペルソナ(偽の鎧)の奥深くにハイドしている。
承認欲求を1ミリも出さず、ただ超低空姿勢(Nix)のまま世界の底に潜伏し、手のひらの上で有象無象を泳がせているのだ。
一体、この男に何のメリットがあるんだ……!?
いくら脳内で計算を繰り返しても、答えはまったく見当がつかなかった。
凡人の浅薄な知恵では、この怪物の真の意図がこれっぽちも理解できない。
有名になりたいわけでも、金を稼ぎたいわけでも、承認欲求を満たしたいわけでもない。
ただそこに、冷徹な深海魚のように沈んでいる。その「目的の分からなさ」が、何よりも恐ろしい。
……DMを送って、直接確認してみるか……?
震える指が、スマホの画面に映るメッセージのアイコンに触れそうになる。
しかし、彼は思い直して手を引っ込めた。
もしこの怪物の「本当の領域」に踏み込んでしまったら、二度と引き返せないのではないかという、本能的な恐怖が彼を支配したからだ。
その徹底された美学と、底知れない数理的知性の前では、自分を含めたSNSのインフルエンサーたちなど、ただの浅ましいノイズでしかなかった。
パワーバランスは、戦う前から完璧に「0:100」。
彼は、自分の敗北を完全に悟った。
同じ運命を背負ったはずの人間の中に、これほどまでに圧倒的で、冷徹な怪物が実在するという事実に、ただただ震えることしかできなかった。
男の張った「無欲の網」は、自分のような同類のプライドすらも一瞬にして粉砕し、タイムラインの闇へと完全に葬り去っていくのだ。




