第十五話 運命の出会い
第二部開始。
第十五話 運命の出会い
1
暗い山道を走ってからどれだけ時間が経っただろう。それがわからないくらい長い道が延々と続いていた。
「おい、湯川。この先で間違いないのか?」
バンを運転していた俺は助手席に座っている湯川に聞いた。
「反応があったのはこの先です。画面にも表示されています」
キャップ帽をかぶっていた湯川はスマホを見ながら答えた。続いて俺はバックミラーで後部座席のほうを見る。
「立石。後ろは?」
「ちゃんとついてきてるぜ」
後部座席に座っていた立石が車窓から後ろを確認する。俺たちのバンに続いてもう一台の車があとについていた。真夜中ということもあって、運転手の姿は見えないが、誰が運転しているのかは知っていた。
「しかし、あいつら本当に戦力になるのか? 上が必ず同行させろって言うから承諾したけどよ」
「実際に戦闘している場面を見たことがないんで何とも……。けど、あの連中は精鋭部隊とは違う……何か底知れない力を感じました」
「俺らと同類なのにか?」
湯川の意見が冗談に聞こえて鼻で笑った。
「狭山さんは何か感じませんでしたか?」
「さぁな。あいつらに感じたことと言えば、見てくれが良いからやらせてくれるかどうかってことぐらいだよ。最も、そんなことを考える余裕がないくらい海外で訓練を積んできたって話だけどな」
「本当に奴らの存在が俺たちを縛っているというのか?」
立石が後ろを走る車を見ながら言った。
「俺も半信半疑だよ。けど、浜家のおっさんが言うんだから間違いないだろう。あの人が冗談を言ったことなんて一度もねえからな」
言い終わると、バンの運転のほうに意識を集中させた。湯川の言う通りなら、反応があったところまではもうすぐだった。せっかくここまで追い詰めたんだ。逃すわけにはいかない。
山道を通り抜けると開けた場所に出てきた。
「おい、ここは……」
目の前の光景に唖然とする。そこにあったのは四階建てぐらいの高さがある建物だった。何かの工場だったかもしれないが、今は廃墟と化している。だが、それ以上に目に止まるものがあった。
「狭山さん、死体です!」
湯川が前方を指差す。俺は少し離れた場所にバンを停めた。廃墟の入口付近に死体が転がっている。死体は一つだけじゃなかった。三つ、いや四つの死体があちこちに倒れている。
「先に行った仲間だ」
バンから降りて一番近くにあった死体に近づく。その頭部は何かとてつもない力で押しつぶされたかのように大きくへこんでいた。別の死体は首が曲がっていて、血を流している。まだ死んでからそれほど時間が経っていないようだった。
「これは酷いな、全滅か」
「かなりやり手の連中だったんだぞ。それをたった一人に……」
「不意を突かれただけだ。奴は傷を負っている。湯川、どうだ?」
「建物の中にいるみたいです」
「よし、EC剤打っとけ。能力使うぞ」
二人に指示を出して、ポケットに入れていた注射器を首にさした。薬品の独特な匂いがしてきたが、何度も嗅いでいるせいか、あまり気にならなかった。
湯川たちと一緒に正面の玄関のほうに歩いていく。建物内部はどの階も明かりがついていない。月の光だけでその全体がうっすらと見えるのが不気味に思えた。
「随分と派手にやられていますね」
ふと背後から声が聞こえてきて、振り返ると女が歩いてくるのが見えた。紐で結んだ黒の長髪に、黒いフレームのメガネ、黒いスーツと、とにかく何から何まで黒い印象を受ける女だった。瞳は青く、日本人ではないが、言葉は流暢だった。
「この人数が一人の刀人にやられるものなのですか?」
「不意を打たれたんだろう。ただのまぐれさ。あんたたちはここで待っててくれ」
「……」
黒メガネの女の背後にいたもう一人に目がいく。女より一回り背が高い。黒い布のようなもので顔を覆っているため、素顔は見えないが、体格からしてこっちも女だった。背中に真っ黒の大きなケースを背負っている。
「我々の加勢は必要ないと?」
「さっきそっちのリーダーが言ったばかりだろ? 手出し無用だ。俺たちだけでやれる」
「それは頼もしいですね」
女がメガネをかけ直して言った。どこか馬鹿にしたような態度にいらついたが、今は無視した。
「行くぞ」
湯川と立石を促して、廃墟のほうに向かった。
中はより一層暗くなっていた。建物の近くにある川の流れる音だけが聞こえてくるだけで物音一つしない。
「狭山さん、血のあとがあります」
湯川が小声で言いながら前のほうを指差す。視線の先に何滴か血のあとが残っていた。血痕は廊下の奥へと続いている。
「奴は手負いだ。追い詰めるぞ」
俺がそう言うと、湯川と立石が頷いて刀を出した。俺も刀を握り締めながら慎重に奥へ進んだ。
血痕をたどっていくと、上の階に続いていた。三階まで上がっていくと、所々にヒビが入った窓ガラスが連なっている廊下に出た。
「あの部屋のようですね」
後ろにいた湯川が前方を指差す。血痕が前の部屋の入口に続いていて、そこで途切れている。
「……」
耳を澄ませると、微かに誰かの呼吸しているような音が聞こえてきた。肩で息している気がする。
湯川と立石のほうを見ると、二人にも聞こえたのか、何も言わずに頷いた。足音を立てないようにしながらゆっくり近づいていく。
「はぁ……はぁ……」
息づかいが段々と聞こえてきた。まだ奴は気付いていない。不意をつけば一発だった。
部屋まで数メートルのところまで近づき、湯川と立石に目配せする。その直後に一気に部屋へ踏み込んだ。
「!」
部屋の中に入った瞬間、その呼吸音がふっと消えた。
「なに!?」
二人じゃない刀人の力をすぐそばから感じる。視線を移すと、立石の背後に一つの影が天井から降り立つのが見えた。
「立石、後ろだ!」
立石が反応して刀を構えようとしたが、それより先に奴の体が横へ吹き飛んだ。立石はそのまま部屋の壁に激突して、全身から血を流して倒れた。
「くっ!」
立石のいたところに立っているのは一人の女だった。女と言っても高校生ぐらいのガキだ。だが、事前に写真で確認していた桃色の髪の女に間違いなかった。
「てめえ!」
女に向かって刀を振ったが、それは宙を切った。女の姿がゆらりと揺れて煙のように消える。
「残像!?」
「狭山さん! 上です!」
湯川の叫ぶ声を聞いて見上げると、女が逆さまになって俺たちを見ていた。その両脚に履いているスパイクを天井に突き刺してぶら下がっている。
あれが奴の武器。
刀人だからと言って、全ての刀人の持つ武器が刀だとは限らない。実際、ダルレストの上位にいたオリジナルの刀人達は全員異なる武器を扱っていた。こいつも例外ではない。
よく見ると女の腕のあたりから赤い血が流れ落ちていた。肩の辺りに切り傷がある。おそらく入口でやられた仲間たちがつけたのだろう。
「奴は手負いだ。恐れるな!」
言い終わったのと同時に女が天井を蹴って俺と湯川の間に降り立った。
「!」
振り向いたのと同時に女の蹴りが顔面に迫っていた。咄嗟に刀を前に構えて防御したが、その勢いは予想以上に強くて後ろへ吹き飛ばされた。
「くっ!」
すぐに起き上がって女に向かって斬りかかった。女が後ろに跳んで避けたが、その先には湯川がいた。
「もらった!」
湯川が刀を振る。確実にとらえたはずだった。だが、その一擊はあたらなかった。次の瞬間には湯川の身体が宙に浮いていた。目にも止まらない速さで女があいつの足をはらったんだ。
その湯川の腹部に向かって女が蹴りを入れた。
「ぐっ!」
骨の折れる音が鳴って湯川は口や目から血を出して後ろへ吹き飛んだ。そのまま、壁に激突して動かなくなった。
「……」
言葉が出なかった。傷を負っているにもかかわらず、女の動きの速さが異常だった。刀人である俺でも目で追いきれない。気づくと、女が俺のほうを見ていた。
地面を蹴る音が聞こえたかと思うと、女が俺のすぐ横に来ていた。こんなに速く移動できるなんて刀人でもそうはいない。
「こんなやつが敵にいたとは……」
俺の言葉が終わらないうちに女の回し蹴りがきた。刀で防ごうとしたが、間に合うはずもなく、やつの蹴りが胸にあたりに入った。
「!」
一瞬、息が詰まる。次の瞬間には俺の身体が後ろに飛ばされていた。床に倒れてしまって動けなくなる。
「あ……あ……」
声が出なかった。口から真っ赤な血が出てくる。心臓をもっていかれた。目だけで女を見る。顔についた血を手で拭って近づいてくるのが見えた。とどめを刺すつもりだろう。用心深いやつだった。
「一人でここまでやるなんて、さすがですね」
「!」
その時、女の背後から別の声が聞こえたかと思うと、一発の銃声が鳴り響いた。女の身体が大きく揺れる。
「くっ!」
女が後ろに振り返る。その肩に小さな穴が開いていて血がどくどくと流れ始めていた。部屋の入口にはさっきのメガネと黒い布で顔を隠した女が立っている。黒い布の女は手にスコープの付いたライフルを持っていた。
「あなたが自分の身を削ってまで彼らを殺し続けているのか、その理由は何となくわかりますが、無駄なことです。彼女が戻ってくることはありません」
「黙れ……私は全員殺す。殺すまでやめない」
女が肩で息をしながら言う。恨みのこもった声だった。けど、体中がぼろぼろで立っているのがやっとなくらいだった。
「復讐なんて愚かですね。果たしたとしても報われることはない」
メガネの女が手をあげる。それと同時に黒い布がライフルを構えた。
次の瞬間、大きな銃声が鳴り響いた。女はそれに反応したが、身体は動かなかった。銃弾はもう一度女の肩のあたりに命中して、そのまま奴の身体が後ろへとんでいった。
窓ガラスの割れる音が鳴って、女の身体が外へ消えた。ライフルを持っていた黒い布のほうが窓ガラスのほうに近づいていった。
「ターゲットが消えた」
「あの傷では助からないでしょう。そのうち死ぬから大丈夫です」
「こいつ、まだ生きてる」
黒い布がそう言うと、メガネをかけ直す音が聞こえた。
「これはもう無理ですね。助かりません。戻りますよ、クリス」
「了解」
黒い布とメガネが立ち去る音が聞こえてきた。結局、俺は身体を動かすどころか、言葉を出すこともできなかった。さっきの一擊から考えて、もうすぐ死ぬだろう。
俺たち精鋭部隊が相手にならなかった敵をあんなにあっさり……。恐ろしい連中が来たな……。
目を閉じた。そのまま、意識が途絶えてもう戻ることはなかった。
2
2066年二月。京都市山科区。
耳元で大きな音が鳴り響く。
「う、うーん……」
最初、それが何なのかわからずに寝返りをうつ。でも、数秒と経たないうちにそれがスマホのアラーム音だとわかって、目を開けた。
部屋の窓を見ると、太陽の光が射し込んできている。近くにある森林から鳥の鳴く声も聞こえてきた。
「朝……もう朝か」
目をこすりながら、身体を起こす。部屋の床には脱ぎ捨てられた衣服や下着が散乱していた。テーブルの上には昨日食べたカップ麺の容器がまだ残っている。洗い場にもここ数日使った食器が溜まっていた。
『おい、由美、また散らかってるぞ。ちゃんと片付けろ』
何年か前に言われたあいつの言葉が頭に響いてくる。
「……うるさいわねぇ、言われなくてもちゃんとやってるわよ」
そう呟きながらベッドから降りたあたしは、洗面所で顔を洗って後片付けを始めた。
一時間ほどで片付けは終わった。部屋の壁に架けられた時計を見ると朝の七時になっている。出勤するまでまだ時間の余裕はあった。
あたしは灰色のスーツとスカートに着替え、仕事に必要なものを鞄に入れた。それを終えると、トースターでパンを焼いて、お湯を沸かしてコーヒーを作った。それらをテーブルの上に置いて、椅子に座った。
「……」
テレビをつけて朝のニュースを見ると、今日の天気や昨晩に起こった事件などが報道されていた。
「ふぅ……」
こうして朝ごはんを食べながらテレビを見ていると、たまにあの時のことを思い出す。こことは違う部屋であたしはあいつと朝ごはんを食べていた。朝はいつもあいつにご飯を作ってもらっていたから、こうして一人暮らしをしていると、あいつにどれだけ迷惑をかけていたのか、わかるようになっていた。
『どうして、あんたはいつも仕事仕事仕事って! あたしのことなんかどうでもいいんでしょ!』
『最近事件が立て続けに起きてるんだ。仕方ないだろ』
『うるさい! あんたなんかもう知らないわ!』
自分が本当につまらないことで怒っていたんだなって思う。あいつがあたしのことをどれだけ考えてくれていたのか、わかっているはずだったのに……。
「……そろそろ行くか」
朝ごはんを食べ終えたあたしは鞄を肩にかけてアパートを出た。
3
朝の通勤ラッシュはあたしの最寄駅の山科駅も例外じゃない。駅の周辺はいつも仕事に行く人たちでいっぱいになっている。
駅の改札を通り過ぎる時に頭上から小さな電子音が鳴り響く。通行人の年齢を調べるエイジスキャンが設置されてから十数年以上。導入されたばかりの頃はその存在に違和感を抱く人が多かったけど、年月が経てばその装置はすっかり世間に溶け込んでしまい、行き交う人たちがそれに目を向けることはない。にもかかわらず、あたしがその装置について思考を張り巡らしているのは現在、進めている仕事が大きく関係している。ジャーナリストは自分の好奇心を掻き立てる物事をとことん追求していく職業だった。それがあたし自身の性格に近ければ尚更だ。
改札を抜けても駅のホームは大勢の人でいっぱいになっていた。賛否両論はあるけれど、女性専用車両があるのは救いだった。比較的空いていて、ストレスを溜めることが少ない。
地下鉄東西線の山科駅から二十分ほどで二条駅まで、そこから市バスに乗り換えて今宮神社前に降りるのがあたしの通勤ルートだった。
季節が冬ということもあって外は寒かった。スーツの上に厚手のコートを着ていたので防寒対策はばっちりだったけど、時々吹く冷たい風が顔に来るのが嫌だった。
バス停前に見える今宮神社は入口前に建ち並ぶあぶり餅屋が有名だった。あぶり餅は一口サイズの餅にきな粉をまぶして竹串を刺し、炭火であぶったあとに白味噌のタレをつけて食べる和菓子だった。とても美味しくてよく通っている。
今宮神社前の坂道を歩いていき、佛教大学紫野キャンパスの横を通り過ぎると、五階建ての株式会社『アドセント』の本社が見えてくる。
アドセントは京都以外にも九州や関東にも支社がある大手の出版会社だけど、二十年ぐらい前は沢山ある小さな企業の一つに過ぎなかった。スマホやインターネットなどのデジタル媒体を通じての情報のやり取りが主流になっていた当時、週刊誌や新聞などの紙媒体にこだわっていたこの会社は倒産寸前まで追い込まれていた。けれど、十六年前に実装されたアクセス権によって状況は一変した。
ネット利用に制限をかけられた若い世代は紙媒体による情報収集をしなくてはいけなくなり、その世代に習慣づけるために上の世代の人たちも紙媒体の需要を求めるようになった。その結果、昔から週刊誌や新聞の発行に力を入れていたアドセントは多くの需要を集めるようになり、前年比の何倍もの利益を出す結果になった。
そして今もこの会社は驚異的な発展を遂げている企業の一つとしてジャーナリストのあたし達の中でも注目されるようになっていた。
そんな企業と契約を結ぶことができたのは奇跡と言っても良いかもしれない。
「由美、おはよう」
後ろの方から声が聞こえてきて振り返る。焦げ茶色のセミロングに青の綺麗なピアスをつけた女性が立っていた。誰なのかは一目でわかる。
「おはよう、雫」
「あれ、ちょっと元気ないね? 大丈夫?」
「寝不足なだけ。昨日遅かったから」
「資料まとめるの大変だって言ってたもんね。頑張りすぎは良くないよ」
「わかってるわよ」
村瀬 雫はアドセント社内で唯一と言ってもいいくらい仲の良い同僚だった。食通な彼女は近畿地方の隠れた名店の情報をたくさん持っていて、休みの日によく連れて行ってもらっている。仕事の悩みやその他のことでも色々と相談に乗ってもらってる頼れる友人だった。
「あ、ところでさ、また新しいお店見つけたんだけど」
「もう見つけたの?」
「そうそう、私としたことが見落としていたのよ。京都駅の近くにある喫茶店でさ、そこのホットケーキがたまらなく美味しいのよ。今度行かない?」
「ホットケーキねえ。最近、食べてないから行ってみたいかも」
「よし、決まりね。今の仕事が一段落したら行こ」
雫が笑顔を見せながら言う。その笑顔を見ていると、自然と元気になるのは雫の魅力的なところだろう。あたしも笑ってあげていれば、あいつに愛想を尽かされていなかったかもしれない。
雫と一緒にアドセント社内の建物に入る。更衣室に荷物を置いて、いつも朝礼をしているオフィスに向かった。
あたしの働いている部署には大体二十人くらいの社員がいる。アドセントと契約を結んでいるジャーナリストの人数は多いけど、その担当している記事のジャンルによってそれぞれ別のオフィスに振り分けられている。
あたしの所属しているところは近代の日本政府の動向……簡単に言えば政治や制度のことだ。
二十一世紀も半分以上経ち、改めて今の日本がどういった経緯で制度を実施しているのか、その理由を突き詰めていくのが仕事になっている。
調べがいのある事柄が豊富な一方で政府絡みの案件となると、未知の部分が多く、政府そのものが情報を隠している傾向があるため、調べにくいことが大きな課題だった。
「よぅし、朝礼始めるぞ」
オフィスでしばらく待機していると、顎鬚を生やした初老の男性が入ってきた。あたしたちのリーダーを務めている小山係長だった。嫌味をねちねち言ってくることがなければ、ほとんど怒ることもない優しい上司だった。朝礼では彼からあたしたちの調べた記事を載せる雑誌についての説明や締切の期限などが伝えられる。また、取材に大きな進歩があれば、あたしたちのほうからもそれを報告することもあった。朝礼は他のメンバーの状況確認ができる場でもあった。
「みんな、おはよう」
「おはようございます」
係長の一言を受けて、集まったみんなが挨拶を返す。
「みんなもわかっていると思うが、春秋文花四月号の製本期日が近づいてきている」
春秋文花というのはアドセントが出版している雑誌の名前だった。月一で出版されている月刊誌で、二月号と三月号はすでに内容が完成されていて製本待ちになっている。今のあたしたちは四月号の内容をまとめる作業に関わっていた。
「春秋文花の需要は月を追うごとに高まってきている。本誌はこのアドセントの看板雑誌と言っても過言ではない。次の四月号が売れるか、どうかは君たちにかかっていると言ってもいいだろう。今までどおり、過剰な取材は禁物だ。結果的に自分の首を絞めることになる」
そう言いながら係長が一瞬あたしのほうを見たような気がした。お前に言ってるんだぞ、雛鳥とでも言いたげな目だった。
よく考えたら最近、係長があたしの取材状況を聞きに来ることが多かった。そんなに危険なことを調べているつもりはないんだけど……。
「何かあったら私に報告してくれ。それと今月からまた一段と冷えてきた。体調管理に気をつけるように。以上だ」
「よろしくお願いします」
あたしは他の人と同じように挨拶を済ませて、自分のデスクに戻った。
4
午前の仕事が終わって昼の休憩になった。あたしはいつものように雫と一緒に会社の食堂に向かった、あたしにとって食堂があるのはありがたかった。一人暮らしをしていると、自分で料理することが少ないから、カップラーメンやコンビニの弁当などで済ましてしまうことが多い。そうなると、どうしても栄養が偏ってしまう。一日の時間でちゃんとしたご飯を食べられる場所はこの食堂だけだった。
テーブル席に座って窓の外を見ると、いつの間にか雪が降り始めていた。奥に見えていた大文字山も霞んできている。今日は一段と降ってきそうな予感がした。
「由美、取材のほうは順調?」
ご飯を食べ始めると、対面の席に座った雫が言った。
「ぼちぼちってところかな。まだちゃんとした資料も出来てないし」
「由美の調べているのって何だっけ?」
「アクセス権よ」
「あー前に言ってたよね」
雫がご飯をつまみながら言った。
「インターネットを利用するためのライセンス。自動車免許と同じで二十歳からしか取れないから、未成年の子どもはネット利用できないって」
「そうそう。出会い系サイトやSNSを使った悪質ないじめの問題とかが深刻になって十年くらい前に始まったやつよね」
アクセス権は自動車教習所のようにインターネット教習施設に通うことで取得出来るようになっている。ネットを利用する時に気をつけることや、起こりうるトラブル、その対策などを講師から学んで、試験に合格すれば初めて手に入れることができる。今の時代、インターネットを利用するためにはこのアクセス権のIDが必要となっていて、スマートフォンを買うときにもこの免許を見せる必要があった。
「昔は若い子たちを狙った犯罪が多かったからね。アクセス権みたいなのが実装されても不思議じゃないわ」
「若い子って。何だか、あたしたちがおばさんみたいじゃない」
「あはは、ごめん、ごめん、私たちもまだまだ若かったわね」
あたしがむっと頬をふくらませると、雫が舌をぺろっと出して謝った。
「でも、どうしてアクセス権のことを?」
「あたしの考えなんだけどね。アクセス権が実装されたのって他にも理由があるんじゃないかなって思うの」
「どうゆうこと?」
「だってネット問題が起きたのは最近のことじゃないでしょ。そんなこと半世紀以上前から話題になってたわ。テレビのニュースで流れないことなんてないし。にも関わらず、十六年前に実装されたのって今更すぎのような感じがしたのよ」
「言われてみればそうね」
「あたし……政府がアクセス権を実装したのってもっと大きな理由がある気がするの。あたしたちの想像できない何か……」
それが何なのか、知りたい。
だから、あたしは調べることにした。アクセス権の実装の裏側を。
「へぇ、前から思ってたけど、由美っていつも目の付け所センスあるわよね」
「それなんだけどね、ちょっと問題が……」
「問題?」
「あら、おはよう、雛鳥さん、村瀬さん」
雫に言う前に、その問題の元凶が話しかけてきた。茶髪のロングヘアーに厚化粧をした女。あたしたちの一年先にアドセントと契約を結んでいた同僚の鴨目 緑だった。
「鴨目さん……」
話しかけられたのが少々不満だったけど、あたしは彼女の名前を呼んだ。鴨目はふふっと笑う。
「小山係長が心配してましたわよ。取材のほうは結構進んでいるみたいだから、今から別のに変えてなんて言いませんけど、私の書く記事の内容とくれぐれも被らないようにしてくださいね」
鴨目は最後まで笑っていたけど、念を押すような口調に聞こえた。「では、これで」と言って彼女は食べ終えた食器を返却台のほうに運んでいった。
「ちっ、いちいち言ってくるなんて。あんな嫌味なやつに彼氏なんか出来るわけないわ。ぼっちライフ確定よ」
「ちょっと由美、眉間にしわが出来てるよ。にしても、よりによって鴨目さんと書く記事の内容が同じだなんて運が悪かったわね」
「絶対ぎゃふんと言わせてやるわよ」
ふん、と鼻を鳴らして席を立ち上がった。
「雫、タバコ吸いに行こ」
「おっけー」
「……」
昼ごはんを終えたあとに喫煙所に移動する。成人したばかりの頃、タバコを控えておけとあいつに言われて禁煙していたけど、離れて暮らすようになってからまた吸い始めた。身体に害を及ぼすのはわかっている。けど、今のあたしにはタバコがないと色々なことでだめになりそうだった。
「雫は何について調べているんだっけ?」
「わたし? わたしは高校生の職業体験実習についてよ」
「ああ、そういえば前に言ってたわね」
「高校二年生から自分のなりたいと思う職業を経験して、大学でその職に就ける知識を身につけて、卒業したのと同時に就職。今の子たちって大変よねえ。十六、七歳で自分の人生を決めないといけないなんてさ」
雫は手に持ったタバコを一服した。
「わたしにも子供が出来たら、そういうことを真剣に考えてあげないといけないのかなぁ」
「こ、子供!?」
思わず手に持っていたタバコを落としそうになった。
「付き合ってる彼氏がそろそろ結婚しようって……あ、ごめん、由美」
何かに気づいたように雫は慌てて謝った。何に対して謝っているのか、想像するのは簡単だった。
「……気にしなくていいわよ、雫。そういうこと考えても仕方ないわ」
「それでも、私が軽率だったわ、ごめんね」
もう一度謝って、雫は手にしたタバコを灰皿の上に置いた。
「連絡のほうは相変わらず?」
「うん……たぶん、もう来ないと思うわ。あたしみたいながさつな女よりも良い女なんていくらでもいるし」
「由美……」
「……」
タバコを灰皿に捨てて、あたしは自分のスマホを取り出す。相変わらず電話やメールが来ている気配はなかった。
「あんたは何やってるのよ……秀平」
5
午後七時。
定時で会社を出たあたしは二条駅で雫と別れて一人、地下鉄東西線の電車で山科駅に向かって帰っていた。
電車の中は帰宅途中のサラリーマンが多く座っていたけど、通勤ラッシュの時より空いている印象を受ける。その表情を見ていると、ほとんどの人が疲れきっていて、何も話さずに無言でじっと座って新聞を読んだり、スマホを操作している。今の日本社会がどうなっているのか、この狭い車両の中で表現されているようだった。
生活するために身を削って毎日毎日働き、せっかくの休日も仕事疲れで色々なことに取り組むことができずに終わっていく。そういう毎日を繰り返して、生涯を終えた人はいったいどれだけいるだろう。
あたしはそうなりたくなかった。自分の人生に何か大きな意味を見出したい。他のみんなが知らなかった驚くべき真実を明らかにしたい。そういった思いを胸に今の仕事を始めた。それに気づかせてくれたのはあいつだった。どうしようもない性格だったあたしに手を差し伸べてくれて、面倒な性格だったあたしと付き合ってくれたのはあいつだけだった。
でも、そんなあいつをあたしは自分から手放してしまった。どうしようもないくらい些細なことで。
「はぁ……」
自分の悪い所ばかりに目が向かってため息が出る。こんな状態じゃだめだ。今の仕事だけでもちゃんとやらないと、今度あいつに会った時に胸を張れない。
ぐっと拳を握って、あたしは山科駅に到着した電車から降りた。
駅の改札を抜けると昼頃から降っていた雪の量が更に多くなっていた。地面に積もり始めていてアスファルトの道路も白に染め始めている。
「明日、休みで良かったかも……」
そう呟きながら折りたたみ傘を開いて、帰り道を歩き始めた。山科駅を北上して琵琶湖疎水のそばに沿った道を歩いていく。疎水の河川敷にも雪が積もっていた。
「……え?」
にもかかわらず、誰かが倒れている姿を見つけたのは奇跡だったかもしれない。
「ちょ、ちょっと、あれって!」
傘をたたんで河川敷に降りて、そばに駆け寄る。倒れていたのは一人の女の子だった。桃色の髪をして、全身がひどく汚れている。その肩には傷がついていて血の流れたあとがあった。何よりも目に付いたのは女の子の両足だった。何かで熱されたような火傷がついている。
「大丈夫! しっかりしなさい!」
女の子の身体を揺らした。
「う……」
女の子は傷を負っていたけど生きていた。苦しそうな声をあげる。
「このままだと……救急車? でも、早く手当してあげないと」
そう判断したあたしは女の子を背負った。子供の頃から運動神経が良かったおかげで子供一人くらいなら持ち運べる自信があった。そのまま、自分のアパートの部屋に運んだ。
アパートの部屋に運び終えたあたしはとりあえず濡れたタオルでその子の身体を拭いてあげた。タオルは血や土のあとで汚れてしまったけど、仕方ない。綺麗に拭いた。そのあとに少し前に間違えて買ってしまった小さいサイズのパジャマを着替えさせてあげた。口で言うのは簡単だけど、かなり苦労した。自分のはともかく他人に服を着せるのは時間がかかった。
「ふぅ」
ようやくひと段落して、女の子をベッドの上に寝かせてあげる。運び終わってから女の子は全く目を覚まさなかった。けど、呼吸はしていたため、命に別状はないみたいだ。それにしても……。
「この傷……」
肩に出来た傷は小さな穴には血の流れたあとがあった。
「まさか銃とかじゃないわよね……」
それと、両足の火傷。火傷はこの子の足全体を覆うように出来ていた。まるで熱湯に両足をつけたような……そんな感じに見える。見つけた時に裸足だったから、必死に走ってきて傷だらけになったのかもしれない。
「どうやったらこんな傷だらけになるのかしら……」
桃色の短い髪を少しよけてから、女の子の顔を改めて見る。とても可愛い子だった。ほっぺたをつんつんするととても柔らかい感じがする。
「か、かわいい……って、大の大人が何してるのよ!」
「う……」
一人でツッコミを入れていると、女の子が目を覚ました。
「あ、気がついた?」
「……」
そう聞いても女の子は何も言わずに辺りを見回した。ここがどこなのか、まるでわからないって感じの表情をしている。
「あなた、疎水の河川敷に倒れてたの。驚いたわ、傷だらけだし、死んじゃったらどうしようかと……」
「……」
女の子は何も言わずに身体を起こした。
「ここは……?」
ひどく小さな声だった。
「あたしの部屋よ。あたしは雛鳥由美。あなたの名前は?」
「名前……?」
女の子は首を傾げてあたしのほうを見つめた。
「わたしの名前……何ですか?」
「……え?」
「わたし、誰ですか……? 何で……わたし……」
一瞬頭が真っ白になった。こんなこと映画や小説の中だけの話だと思っていた。いや、実際にこういった現象はあるかもしれないけど、まさかあたしの身の周りで起こるなんて信じられなかった。
この子は記憶を失っていた。
「あ、そういえば……」
あることを思い出して、あたしは立ち上がった。洗濯機のそばに置いていた女の子の衣服。そのポケットの中に入っていたものを取り出して、女の子に差し出した。
「これ、あなたの服に入ってたの。勝手に中を見るのは良くないと思ったから、見てないけど……」
「……手帳?」
女の子はあたしの差し出した手帳を受け取って中を開いた。その時、ひらりと中に挟まっていた一枚の写真がベッドの上に落ちた。それを手にとってあたしは写真を見た。
「……うそ」
言葉が出なかった。それはどこかの海の近くで撮ったらしい写真だった。写っているのは目の前にいる女の子と同い年の子たちが数人、そしてそれと同じくらいの人数の男。その中に……。
「これって……まさか秀平?」
6
同日。午後八時。京都府河原町。
河原町の通りは夜になっても人通りが絶えることはない。一日中、歩いていても通りの店は賑わっていて大勢の人が行き来している。
とにかく騒がしい町だった。私はこんな町よりずっと静かな田舎のほうが好きだった。
「おい、何だよあの子、めっちゃかわいいじゃん」
「何言い出すんだよ。お前、ロリコンだったのか……って本当に可愛いな」
「ちょっと、俺話しかけてみる!」
表通りのほうから声が聞こえてきたかと思うと、誰かが近づいてくる足音がした。足音は私のそばで止まる。
「ねぇ、君、こんなところでどうしたの? もしかして迷子?」
「……」
何も言わずに顔をあげると、二十代くらいの若い男が二人、目の前に立っていた。
「お、まじで可愛い」
「綺麗な格好だね。迷子なら僕たちと一緒にお父さん、お母さん探さない?」
これはいわゆるナンパというものだろうか。もしそうだとしたら、この二人は何を考えているんだろう。一回り年下の子に声をかけるなんてどういう神経をしているのか、わからない。
「ねぇ、ねぇ、僕たちと行こうよ」
そう言いながら一人が手を伸ばしてきた。私はその手首を掴んでそのまま握った。
「い、いてえ!?」
ごきっと骨の折れるような音が鳴った。すぐに手を離すと、男が手首を掴んでうずくまった。
「お、おい、どうした!?」
「手、手が……俺の手が……」
「汚い手で触るな」
そう言いながら近くに立てかけていたヴァイオリンケースを肩で担いだ。自分の身長……二人よりも遥かに大きいそのケースはかなり重かったけど、もうすっかり慣れている。
「な、なんだよ、お前……に、逃げるぞ!」
「う、うう……」
二人は慌てた様子で表通りのほうへ逃げていった。何て貧弱なのかしら。ちょっと握ったくらいで骨にヒビが入るなんて……。
「どうも、ありがとうございました。もし、見かけるようなことがあったら、ご連絡を……はい、お願いします」
近くの店の戸が開いて、貝堂が姿を現した。中にいる店員にお礼を言うと、戸を閉めた。
「唄音、外で何か騒いでいたようですけど、大丈夫ですか?」
「別に。ちょっとめんどくさそうな男に絡まれてただけよ」
長い髪を払って貝堂のほうを見る。スーツの上に黒いコート、黒縁のメガネをかけた格好はアメリカにいた頃から何一つ変わっていなかった。
「唄音、わかっていると思いますが、一般人に乱暴な真似をしてはいけませんよ。刀人は世間では隠されている存在。能力を使えば、ダルレストに狙われる危険が……」
「そんなこと言われなくてもわかってるわよ、貝堂。心配しなくても能力は使ってないわ。それに私の得物が他の子と違って特殊なのは知ってるでしょ」
「そうでしたね、失礼しました」
「それよりどうだったの? 良い情報はあった?」
「千登勢の行方に関しては何とも。これまでの情報から京都市内にいるのは確かなはずですけど、人の多い町です。見つけるのは時間がかかるでしょう」
「……」
「それと杉下から連絡がありました。連中に動きがあるようです」
「奴らが?」
「彼らも千登勢のことを探しているのでしょう」
貝堂の言葉を聞いて唇を噛んだ。奴らもちーちゃんのことを探しているなら人数不足なこっちは圧倒的に不利だった。早く見つけないと大変なことになる。
「どこにいるのよ……ちーちゃん」
「失踪してから、何の連絡もありませんからね」
「私が甘かったわ。ちーちゃんがどういった気持ちで毎日を送っていたのか考えるべきだった」
「唄音だけの責任じゃありませんよ。不運が重なっただけです。それにダルレストの刀人が死んだという連絡が来ている以上、千登勢はまだ生きている」
「ええ、その通りよ」
私はヴァイオリンケースを背負い直した。
「聞き込みを続けるわよ、貝堂。私たちが奴らより先にちーちゃんを見つける」
「ええ、もちろんです、唄音」
私と貝堂は表通りに出て、ちーちゃんの行方を探した。
7
『それでその子どうしようと思ってるの?』
「記憶が戻るまで預かろうと思ってるの。作業は家で出来るし、次の出勤まで日もあるから」
翌日の朝、あたしは電話で雫に昨日助けた女の子について話していた。
『警察に預けたほうが良い気がするけどね……』
「本当はそのほうが良いと思ってるわよ。でも、この子……もしかしたら、知ってるかもしれないの」
『彼のこと?』
「うん……」
あたしは手にした写真を見ながら言った。
「秀平が今、どうしているのか、あの子は知っているはずなのよ。あたしはそれを知りたいわ」
『そうね……由美がそうするなら私は止めないわ』
「ありがとう、雫」
『こっちこそ電話してくれてありがと、由美。また、何かあったら言って』
「頼りにしてるわ。じゃあ、またね」
電話を切ったあたしは寝室のほうに視線を移した。まだ寝息が微かに聞こえてくる。
「……」
改めて写真を見る。何人かの男女が海を背景に集まっている写真。その中に写っているのは間違いなく秀平だった。みんなが笑顔なのに対して、無表情な顔をしている。
「相変わらずね。ちょっとは笑いなさいよ」
ふふっと笑って写真をテーブルの上に置いた。あの子が持っていた日記には数ヶ月前のことまで書いてあったけど、酷く汚れていてその内容を読み取るのは難しかった。ただ、日記の裏側に書かれていたおかげで、あの子が秋野 千登勢という名前だとわかった。
千登勢ちゃんは何らかの障害を受けて記憶を失っている。今のあの子から秀平のことを聞き出すのは不可能だった。でも……。
寝室の中を覗くと、千登勢ちゃんは布団にくるまってぐっすりと眠っていた。
一昨年の夏から連絡が来なくなった秀平のことをこの子は知っている。松阪の町に戻った秀平はあたしに何かを隠していた。長い付き合いだから、電話越しに声を聞いただけでもわかった。秀平とこの子は何か繋がりがある。それが何かはわからないけど。
「……」
この子はいったい誰なんだろう。見た目からして高校生ぐらいだと思うけど、身体に残っている傷は普通に転んで出来るようなものじゃなかったし……。
一人で思考を張り巡らしていく。けど、数分と経たないうちにそれが無意味だとわかった。
「……一人で考えても答えなんて出るわけないか」
とりあえず今は目の前のことに集中しよう。四月号のための資料をまとめないといけない。
あたしは椅子に座ってテーブルに置かれていたパソコンのワードを開いた。
『アクセス権実装の裏側』
ワードのテーマにはそう書かれている。
以前、雫と話していた時のことを思い出す。アクセス権はネット関係の問題やSNSを通じた陰湿ないじめの深刻化を改善するために実装されたシステムだ。未成年の子たちがネットを利用出来なくなれば、確かにそれらの問題は解決するだろう。けど、あたしはこのシステムが実装されたのは別の目的があるんじゃないかと考えている。
「……」
あたしの調べたところ、アクセス権を持っていてもネットで詳しく調べられない部分を見つけることが出来た。それは何気なく調べようとした項目だったけれど、他の情報に比べると圧倒的に少なかった。それが……。
「アクセス権が実装された同時期に制定された法律……高齢者保護法」
日本全国の高齢者の割合が総人口の五割を超えるか超えないかまでに至った高齢化問題。介護の負担や年金問題が深刻化し、テレビで話題にならない日がなかった時期もあった。その事態を受けて、当時の内閣が始めた介護制度。六十五歳以上になった人たちを全国各地に作られたアフターケアと呼ばれる施設に預け、その生活費用や管理を政府が請け負うことで、家族や身の回りの人たちの負担を減らす制度だった。制定された当時は賛否両論だったけど、いざ実行されると、とても高い評価を受けた。施行されてから都市部の高齢者の割合も減少する傾向を見せていた。
「でも……」
あたしはこの制度に関して疑問を持たずにはいられなかった。ただ、おじいさんやおばあさんたちをアフターケアに預けるだけで、それが彼らの割合を減らすわけじゃない。もっと他に大きな要因があるせいに違いなかった。そして、それが何なのか調べづらくするために……。
「日本政府はアクセス権を実装した」
タバコに火をつけて一服し、あたしはワードを下のほうにスクロールした。
その続きには高齢者保護法を実際に利用した人たちに聞き込みしたことが書かれている。
聞き込みした人数は十数人。これでもよく探し当てたほうだった。保護法の利用者を調べるのはプライバシーの侵害に関わるし、何より他の制度の利用者を調べることよりも圧倒的に困難だった。アクセス権を持っているあたしでも。
「そして、その聞き込みの結果は……」
驚いたことに全員が大変満足しているという結果になった。普通ならこういう制度を実施すれば何かしらの不満や反対の意見が出てくるはずだ。むしろそのほうが多い時もある。けれど、聞き込みをした人たちは口を揃えて介護する負担が減って助かる。生活費も国から出してもらえるから嬉しいなどといった意見ばかりだった。
それはとても良いことであるのは間違いない。けど、あたしの中には疑念がくすぶっていた。たまたま満足した人たちにだけ聞き込みしていたのかもしれない。その可能性は捨てきれない。けれど、その疑念がどうしても残り続ける出来事があった。
二週間ほど前、神戸市内に住んでいる白石さんという人を尋ねた時だった。
彼女は祖母の夜奈子さんの介護をしながら暮らしていたけど、白石さんが仕事に追われ始めたのがきっかけでアフターケアの制度を頼むことにしたらしい。
その結果、夜奈子さんの生活はアフターケアで管理してもらうことになり、白石さんも負担が減ったおかげで助かっていると笑顔で言っていた。けれど……。
8
「今日は大変貴重なお話ありがとうございました」
「いえいえ、私の意見が少しでも参考になったのなら嬉しいです。記事のほう楽しみにしていますよ」
「完成したらご連絡させて頂きます。では……」
白石さんからの聞き込みを終えたあたしは家を出た時だった。
「おや? 白石さんのところに誰かが来るなんて珍しいわね」
「え?」
横から声が聞こえてきて視線を向けると、隣近所の家の庭で掃除をしていたおばさんが話しかけてきた。
「あ、ごめんなさい。あまりに珍しかったから、つい……。最近、悪い噂がとびかってたせいで彼女の家を尋ねる人、いなかったのよ」
「……どうゆことですか?」
言っている意味がわからずそう聞くと、おばさんは声を小さくして言った。
「白石さん、去年からまるで人が変わったみたいになったから。悪いわけじゃないのよ。今の彼女はとても優しく見えるから」
「何がだめなんですか?」
「あまりに人が変わったみたいだからさ。夜奈子さんを預けてから」
「え?」
「預ける前の彼女、夜奈子さんの面倒は意地でも自分で見るんだっていつも言ってたのよ。アフターケアの人が来るたびに大声で怒鳴っていたわ」
おばさんの話の意味がよくわからなかった。さっき本人に聞いた時には自分から夜奈子さんを預けたように思えた。
「頑なに拒んでたのにねえ、夜奈子さんがいなくなった後よ。まるで人が変わったように悪口言わなくなって、それどころかあたしや他の人にも勧誘を始めたのよ。あまりの変わりようでみんな気味悪がってたわ。まるで記憶を書き換えられたみたいに」
「……」
記憶を書き換える。過去に起こった出来事をなかったことにして、別の記憶を植え付ける。記憶操作は今の日本社会で不可能ではない技術に発展していた。けど、そんなことを他人に強要するのは明らかな人権侵害だ。ましてや、政府がそんなことをしていると言うのかしら。
とても信じられなかった。けど、もしそれが本当だとしたら……。
日本政府がそうまでして隠したいものは何なのだろう。
9
「由美さん……」
寝室のほうから声が聞こえてきて、ふと我に帰る。パソコンを前にずっと考えていたせいで気づかなかった。視線を移すと、部屋の入口で千登勢ちゃんが顔を覗かせていた。
「おはよう、千登勢ちゃん。ゆっくり眠れた?」
「おはようございます。おかげさまでよく眠れました」
千登勢ちゃんは控えめに笑ってお辞儀した。とても律儀な子だ。高校の時のあたしとはまるで違う。
「怪我のほうは大丈夫なの?」
「はい。ちょっとひりひりするだけで問題ありません」
「……」
肩の傷、両足首の火傷がどうやってついたものなのか、千登勢ちゃん本人は覚えていない。記憶を失っている以上、秀平の写っている写真のことや自分の家族のこともわからなかった。
「お腹すいてない、千登勢ちゃん? 何か食べる?」
「はい、頂いて良いのなら」
「良いに決まってるじゃない」
「あ、ありがとうございます」
そう言って明るく笑う千登勢ちゃんはめちゃくちゃ可愛かった。思わず頭を撫でたくなったけど、ぐっと我慢してご飯を作り始める。トースターで食パンを焼いて、卵焼きを作って、お湯を沸かして味噌汁を作って……昔は当たり前のように作っていた朝食を全然作らなくなっていたんだなって思った。そして、それ以上に。
「あたし、誰かにご飯作るの初めてかも」
「そうなんですか?」
「作ってもらってばっかりだったからね」
苦笑いを浮かべながら出来た朝食をテーブルに並べて、椅子に座った。
「はい、お待たせ。遠慮なく食べて」
「い、いただきます!」
千登勢ちゃんは嬉しそうに笑って、ご飯を食べ始めた。
「……」
もし自分に子供がいたらこんなふうに朝ごはんを一緒に食べるのかなと思った。この部屋で一人暮らしをしてからだいぶ経つけど、心のどこかで寂しさを感じていたような気がする。人の気持ちをよく考えないまま、感情的になっていたあの頃の自分が嫌になる。
『どうしてあんたはいつも仕事のことばかり! ちょっとはあたしのことも考えなさいよ!』
「……」
「由美さん?」
「え、な、なに?」
物思いにふけていると、千登勢ちゃんが心配そうな表情であたしを見ていた。
「どうかしたんですか?」
「あはは、ごめんごめん、ちょっっと考え事してただけ」
笑ってごまかして卵焼きを乗せた食パンを食べる。
「千登勢ちゃん、どう? 食パン、美味しい?」
焼いた食パンにマヨネーズを塗って、上に卵焼きを乗せるのが好きだった。友達に話すといつも変わった食べ方だと言われるんだけど……。
「すごく美味しいです、これ。もう一枚食べたいくらいです!」
明るい笑顔を見せながら言う千登勢ちゃん。本当に純粋な子だなと思った。
「本当? 良かったわ。そう言ってくれるとあたしも嬉しい」
「とても……とても美味しいです」
千登勢ちゃんはテーブルに置かれたご飯を眺めながら言った。その表情がさっきと打って変わって寂しそうに見える。
「……やっぱり思い出せない?」
「はい。でも、私は何か……何かをやらないといけない気がします。それが何なのか早く知らないといけないような……。でも、忘れてしまいました」
そう言って笑う千登勢ちゃんを見ていると、胸が痛くなる。記憶喪失した経験はないけど、過去のことを思い出せないのはとても辛いことなのかもしれない。あたしだって良いことばかりじゃなかったけど、自分の過去のことを忘れるのは嫌だった。
この子の力になりたい。そう思ったあたしは椅子から立ち上がった。
「千登勢ちゃん、朝ごはん食べたら出かけようか」
「え?」
「しばらくここに居てもらうとなると、服とか買っておかないといけないし」
「そ、そんな……良いんですか?」
「当たり前じゃない」
はっきりと言った。誰かのためにここまでしてあげようと思ったのは初めてだった。あいつのことすらあまり考えてあげなかったあたしにとって。
10
大阪湾に浮かぶ関西国際空港。平日でも飛行機を利用する人の数が途切れることはなく、ターミナルのロビーは大勢の人で賑わっていた。
「時間までまだある。何か食べるか、浜家?」
「朝食は済ませています。問題ありません」
そのロビーの中を歩く二人の男。その場の雰囲気には合うようで合わない黒のスーツに身を包んでいる。片方は白髪の混じった小太りの男、もう一人は背の高い短い髪の男だった。二人の男の背後には同じ格好のスーツを着た男が数人警護にあたっている。その雰囲気に圧倒されてロビーを行き来する人たちは自然と避けていた。
「ふん、相変わらずしっかりしてる奴だな、お前は」
「吉住課長は?」
「帰りに車で食べる。そんなに時間もかからないだろ」
吉住と呼ばれた小太りの男はスーツポケットからタバコを取り出そうとしたが、ロビー内部が禁煙だったことを思い出して、舌打ちしながら戻した。
「時間通りならまもなく到着すると思います」
「他のメンバーはもう来ているのに、なぜ奴だけ遅れたんだ?」
「向こうでの仕事を終えるのに時間がかかっていると言っていましたが……」
「なんだ? 他に理由があるのか?」
吉住が重ねて聞くと、浜家は少し間を空けて答えた。
「奴は常に強者を求めています。自分と命を張り合える者がいなければ動かない。それに……奴がどういった人間を好んでいるのか、課長もご存知でしょう?」
「……なるほどな。本当に最低最悪の奴だ。何であんな奴が仕切っているのか理解に苦しむ」
「それには同意しますが、かの組織のおかげで我々ダルレストが機能しているのも事実です」
「そんなことはわかっている。それでも……奴は頭がイカれてる。そんな奴が興味を持った相手となると……」
「最近、報告に来ている例の娘かと」
「あの小娘か。以前、拉致しそこなった刀人。母親を取り戻すために一人で戦うか。愚かな奴が生き残ったものだ。あの時に死んでおけば良かったのにな」
「報告によれば三日前、奴に傷を負わせることに成功しました。ですが、死体は発見されておりません。まだ京都府内のどこかに潜伏しているかと」
「たった一人の刀人に手こずるとは、ダルレストも落ちぶれたものだな。奴の手下の力を借りないと成り立たないとは……」
「あの二人が失踪したことも大きな痛手になっています」
「以前から様子がおかしいとは思っていたが、まさか字倉まで裏切るとはな。見つけたらきっちりけじめをつけさせてやる」
「裏切った理由に思い当たるところはいくつかありますが、五人目を抑えている限り、あの二人は必ず行動を起こす。その時を待てばいいだけです」
吉住が苛立ちを隠さずに言う一方で浜家の口調は依然として冷静さを保っていた。
「まぁ、奴らを見つけるのも殺すのも、ダルレストの今の戦力じゃ明らかに不足している。遅かれ早かれあいつらの力を借りないといけなかったってわけか……」
ふん、ともう一度鼻を鳴らして吉住はロビーにあるソファに座った。浜家がその隣に立つ。
「あの二人はともかくとして、小娘のほうはなぜあんな目立つような真似をするんだ? 母親を取り戻したいだけなら、そこまでする必要はないだろ」
「秋野 希莉絵の奪還は目的の一つかもしれませんが、もう一つ大きな理由があると考えられます」
「なんだ、それは?」
吉住がそう聞くと、浜家は視線を前に向けたまま答えた。
「仇討ちです。仲間の」
「……ふん」
それを聞いた吉住は鼻で笑った。
「仲間のために復讐か。おめでたいことだ。そうすることで生き残った他の仲間がどこにいるのかばれるかもしれないというのに」
「憎悪は人の中で最も大きな負の感情です。どんな人間でも些細なことで苛立ち、不満を募らせている。そんな人間が憎しみを抱いたとしても不思議じゃない」
「大切な者のために復讐する刀人か。まるで五十年前の再現みたいだな、浜家」
「課長、その言葉を口にするのは禁止されています」
浜家が珍しく吉住に厳しい言葉をぶつける。
「ああ、そうだった、そうだった、つい口が滑った。今後は気を付けるさ」
「……来ました。奴です」
浜家のその声を聞いて、吉住は顔をあげた。
国際線の到着ゲートから歩いてくる人物。艶のある金色の長い髪。サングラスをかけていて素顔は見えないが、その体格からして女性であることは紛れもない。周りにいた人々の誰もが目に止まるくらいの美女だった。だが、彼女の姿を見た吉住は不満そうに顔を歪め、浜家も口元を引き結んだように見えた。
「お久しぶりですね、ミスター吉住、ミスター浜家」
「長旅ご苦労だったな、アダムス・エリザベート」
「エリザ、で構いませんよ、ミスター浜家」
エリザは笑ってサングラスを取った。その透き通った碧い瞳が二人の心まで見透かしているようだった。
11
ターミナルの正面玄関に停まっていたリムジンが出発して、関西国際空港の連絡橋を走っていた。
「日本に来るのは三度目です。やっぱり良いところですね、ここは。美味しい料理がたくさんある」
後部座席で窓の外を見ていたエリザが楽しそうにつぶやく。隣の席にいた吉住がふん、と鼻を鳴らして、ポケットからタバコを取り出した。
「観光するためにお前を呼んだわけじゃないぞ、アダムス。目的はわかっているだろうな?」
「ふふ、もちろんです、ミスター吉住」
エリザはサングラスをかけ直して吉住のほうを見ると、どこからともなくライターを取り出して、火をつけて吉住のほうに差し出した。吉住は嫌な顔をしつつも、タバコを近づけた。タバコに火がついて車内に煙が漂う。
「ところで彼は元気ですか?」
「誰のことだ?」
「あの少年です。名前は……たしか桜夢。そう、桜夢です。彼は元気ですか?」
「あんな奴はとっくに死んでる」
「オー、それは残念です。あんなに良い子はそうそういません」
吉住の答えにエリザはそう言ったが、それほどショックを受けているようには見えなかった。
「残念だったな、お気に入りのおもちゃがくたばって。最も、あいつがあらゆる感情を失った原因はお前以外の誰でもないがな」
「やはり私を楽しませてくれるのはあの子たちみたいですね」
「アダムス……お前、すでに」
吉住が何かを察してそう言うと、エリザはふふ、と笑って一枚の写真を取り出した。そこに写っているのは秋野希莉絵と一緒に車へ乗り込もうとしている桃色の髪の少女だった。
「特にこの子のこと、シャノンたちから聞いています。良い目をしています、この子。一つの目的を達成するために決してあきらめない、そんな目です」
「そいつの行方はわかっていないぞ」
「ええ、ですが、日本の管理システムの良さは以前来た時から知っています。特に都市部は大勢の人が集まっていますが、誰がいつ、どこで、何をしているのか、把握出来るようになっている。それに先に送った私の部下は優秀です」
「アダムス、一応言っておくが、その小娘を捕まえても殺すなよ」
「もちろんですよ、ミスター吉住。せっかくの情報源です。それに……」
千登勢の写真を見つめるエリザの目つきが変わった。僅かな変化だが、吉住も浜家もそれに気付いた。
「こんな綺麗な目をしている子を殺すなんてとんでもない。捕まえたらじっくり堪能させてもらいますよ」
12
京都の町には観光地や美味しい食べ物を売っている店が数え切れないほどある。
「お、美味しい! このオムライスすごく美味しいです!」
「本当ね。この上にかけられているタルタルソースが美味しいわ」
やってきたのは河原町の通りにあるオムライス屋だった。隠れた名店と言われていて、地下にあるにもかかわらず開店前から人の列ができる。昼ご飯の時間帯にあたしは千登勢ちゃんを連れて、この店に来ていた。
「はい! これならおかわりだって出来ちゃいます!」
オムライスを食べた千登勢ちゃんはとても喜んでいた。出かける前までちょっと落ち込んでいたみたいけど、明るい笑顔を見せてくれて安心した。
「以前、友達に連れて行ってもらったことがあってね。京都の美味しい店は大体わかるわよ」
「すごいです、由美さん。わたしにも……」
千登勢ちゃんは途中で言うのをやめた。
「千登勢ちゃん?」
「友達……わたしにもいたような気がします」
スプーンをテーブルの上に置いて頭を手で抑える。
「忘れちゃいけないような……大切な友達がいたような……でも、わたし」
「焦っちゃだめよ、千登勢ちゃん」
あたしは彼女の手に自分の手を乗せた。
「大丈夫。千登勢ちゃんがそう思っているってことは記憶が完全に消えていないってことよ。きっと思い出すわ」
「由美さん……ありがとうございます」
くぅ、かわいいわね、この子! 何て素直なの!
笑顔を見せる千登勢ちゃんがまた可愛くて抱きしめたくなったけど、何とか我慢した。
「ごほん、じゃ、お腹いっぱいになったし、また歩きに行くわよ」
「はい!」
それからあたしは店を出て千登勢ちゃんと河原町の通りを歩き始めた。雫と何度も来た町だけあって色々なお店を知っていた。アクセサリーなどの雑貨屋に寄ったり、服屋の建ち並ぶ通りで千登勢ちゃんの服を買ってあげた。この時に色々な服を試着させてみたけど、どれも似合っていてうらやましかった。スタイルもあたしより良くて……いや、そんな話は置いといて、服選びが終わったあとはゲームセンターに立ち寄った。
「な、何かすごいところですね、ここ……」
「最近、ご無沙汰してたけど、楽しいわよぉ」
そういえば、昔も秀平を無理やり連れて何度かゲーセンに足を運んだことがあったっけ。何だか懐かしい気がした。
「由美さん、あれは何ですか?」
「ん? ああ、レーシングゲームね。車を運転して競争するゲームなの」
「へえ、すごいですね!」
「やってみる?」
「はい! やりたいです!」
千登勢ちゃんは目をキラキラ輝かせながら言った。
「じゃあ、ここに座って……」
「はい」
「これがアクセルで車が前に進むわ。こっちがブレーキで車を停めて、ハンドルで走る方向を変えられて……」
「ふむふむ」
操作の仕方を教えて、実際にプレイさせてみる。
「そこでハンドル切って!」
「はい!」
「今よ、アクセル全開!」
「了解です!」
最初こそ不慣れな部分が目立ったけど、千登勢ちゃんは覚えるのが早くて二、三回遊んだだけで基本的な操作が出来るようになっていた。
「すごいわ、千登勢ちゃん。あんなすぐに上手くなるなんて。もう少し練習したら良いタイム出るかも」
「すごく楽しいです。スピードを出して思いっきり走れるなんて……」
また、千登勢ちゃんは途中で話すのをやめた。
「千登勢ちゃん?」
「どうしてかわかりませんけど、わたし、すごく走ってた気がします。無我夢中で……」
「記憶戻ったの!?」
「いえ、思い出せないんですけど、何となくそんな気がして……」
千登勢ちゃんは控えめに笑って手を伸ばすとあたしの手を掴んだ。
「千登勢ちゃん?」
「由美さん、通りを歩いてる時に気になってた場所があるんです。連れて行ってもらえませんか?」
13
如意ヶ岳。通称『大文字山』と呼ばれる標高四百六十メートルほどの小山は、河原町の通りを走る市バスで銀閣寺前に向かい、そこから登山するルートが初めて登る人にオススメだと言われている。
八月中旬になると、五山の送り火という、この山に大文字の送り火が灯される行事が京都の夏の風物詩とされていて、大勢の人で埋め尽くされる。けれど、今は季節が冬ということもあって訪れる人はあまり多くなかった。
千登勢ちゃんが行ってみたいと言った場所がまさにその大文字山だった。あたしは彼女の手を引いて山道を歩いていた。
「遠い、遠い昔にわたし……誰かと手を繋いで歩いてた気がします」
「誰かって?」
「わかりません。けど、わたしにとってすごく……すごく大切な人だったような気がします」
「……」
あたしは千登勢ちゃんの話を聞きながら彼女の持っていた写真のことを思い出した。
写真と言っても、秀平たちが写っていた海の写真じゃない。実はあの日記にもう一枚別の写真が挟まっていた。
それは十五年ぐらい前に撮られた古い写真だった。写っていたのは三人。ベッドの上で横になっている髪の長いおばあさんと、その手前に幼い頃の千登勢ちゃんともう一人別の女の子が笑っているものだった。
あの写真は千登勢ちゃんにとってかけがえのないものなんだろう。でも、今の彼女にはその記憶がない。
もし、このまま千登勢ちゃんの記憶が戻らないのなら、せめてあたしが調べてあげたい。
秀平たちのことも、写真に写っているおばあさんや女の子のことを。
木々に覆われた山道を歩いていくこと四十分。あたしたちは大文字の火床地点にたどり着いた。
到着した時には辺りがすっかり暗くなっていて、人影はなかった。でも、目の前に映る京都の町の夜景が言葉で表現できないほどに綺麗だった。
「良い眺めね」
「はい」
「千登勢ちゃん、疲れてない?」
「大丈夫です」
はっきりとした声が聞こえてくる。ここまで歩いてきたのに、千登勢ちゃんは息切れすることが全くなかった。
「あたしはよく運動してたから自信あるけど、千登勢ちゃんもすごいわね。普通の子だったら途中で疲れてるはずなのに」
「そんなことないですよ、由美さんにはかないません」
そう言いながら千登勢ちゃんは近くにあったベンチに座った。あたしもその隣に座った。
「どう、何か思い出した?」
「いえ……。何となく、この山に登ってみたら色々なことを思い出すかなって思ったんですけど、うまくいきませんね」
「……」
「これからわたしどうしたらいいんでしょうか……」
「心配することないわよ。親御さんがきっと探しているはずだし」
「親御……さん?」
「お母さんとお父さんのことよ。千登勢ちゃんの」
「お母さん? お母さん……?」
その言葉を繰り返した千登勢ちゃんが少し目を見開く。
「お母さん……わたしのお母さん……そうだ、わたし、もしかしたら……う、うう……」
突然、千登勢ちゃんが頭を手で押さえ始めた。
「千登勢ちゃん! 大丈夫?」
「わたし、こんなところで何を……違う、私は……」
「千登勢ちゃん、いったい何が……!」
その時、視界が大きく揺らいだ。強い眠気が襲いかかってきてまぶたが急に重くなっていく。
「あれ……どうしたの、あたし……?」
身体のバランスが保てなくなって、その場でふらつき始める。
「……ゆ、由美さん!?」
目の前にいた千登勢ちゃんがあたしを両肩を掴んだ。
「しっかりしてください!」
「ち、千登勢ちゃん……」
千登勢ちゃんの声が聞こえてきて、眠気がすっと消えた。霞んでいた視界もだんだん戻ってくる。
「ごめん、何か急に眠くなっちゃって……千登勢ちゃんは大丈夫?」
「はい。すいません、ちょっと頭が痛くなって……」
「安心したわ。千登勢ちゃんに何かあったらどうしようかと――」
「これは奇妙だ」
あたしの言葉を遮って誰かの声が聞こえてきた。さっきまで人の気配を感じていなかったのに。
「確か、フィールドの中で活動できるのはガードレディの刀人であるお前だけのはず」
その声は男言葉だったけど、れっきとした女のものだった。
「もう一人も普通の人間ではないということか」
歩く音が聞こえてきて、木々の中からそいつは姿を現した。
14
その人が誰なのか私にはわからなかった。短い灰色の髪、透き通った水色の瞳を見てもやはりわからなかった。けど、何故かその知らない人にわたしは近い存在のような気がした。
「だ、誰?」
そばにいた由美さんがそう聞くと、彼女はふふっと笑った。
「私がエリザ様に指示を受けたのはお前の確保。だが、この状況ではそいつも殺さないといけなくなってしまった。全て、お前の責任だ、秋野千登勢。お前はそいつを巻き込んだ」
「巻き込んだ? どうしてわたしの名前を知ってるんですか? 私はいったい……」
「ん……ああ、そういうことか。今日一日の行動に違和感があったのはそれが原因。記憶を失っている。クリスたちとの戦闘の後遺症か」
女の人がゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「それはそれで面倒。しかし、エリザ様の元へ連れていけば問題はない。私はその任務にだけ集中すればいい」
「さっきから、何言ってるのよ、あんた」
由美さんが強気に言うと、女の人はまたにやりと笑う。
「何も知らないようだな。秋野千登勢が何者なのか、どんなことをしてきた奴なのか」
「千登勢ちゃんが?」
「おっと喋りすぎは禁物だと言われていたんだった」
女の人がそう言ったとたん、地面に何かが落ちる音が鳴った。
「えっ!?」
それは黒くて大きな鉄球だった。鉄球から鎖が伸びていて、それを女の人が手にしている。
「由美さん!」
何かを感じたわたしは咄嗟に由美さんのほうに飛びついた。風を切るような音が聞こえてきて、すぐそばをさっきの鉄球が通り過ぎていくのが見えた。
「うっ!」
「くっ!」
わたしと由美さんはそのまま地面に倒れ込んだ。
「今のを避けるとは、記憶は無くても感覚は私たちと同じか」
女の人が感心したように言う。さっきまで手ぶらだったのに、いつの間にあんなものを取り出したんだろう。それに私たちと同じって……。
「だが、無駄なあがきだ」
言い終わったのと同時に女の人が手にした鉄球を投げつけてくる。それはわたしの顔に向かってまっすぐ飛んできた。避ける暇はなかった。
「千登勢ちゃん!」
がん、と音がした。何かが鉄球にぶつかる音だ。一瞬、どうなったのかわからなかったけど、わたしの身体を由美さんが覆っていることだけはわかった。
「え……?」
由美さんの身体から力が抜けて、横に倒れる。その口から赤い血が流れ始めた。すぐに理解した。由美さんはさっきの攻撃からわたしを庇ってくれたんだ。
「ゆ、由美さん!」
わたしは慌てて由美さんの身体に触れた。由美さんはまだ息をしていたけど、苦しそうな声をあげた。
「ふん、大した奴だ。今のをくらってまともに生きている人間がいるとはな」
「な、何で……何でこんなことするんですか!? 由美さんが……由美さんが……」
「ん? くだらない質問だな。まあ、記憶を無くしてるから自分が何をやってきたのか、わかっていないから仕方ないか」
女の人が鉄球を肩に担いだ。
「その女が傷ついたのはお前のせいだ、秋野千登勢。お前が全ての原因を持っている」
「私の……私のせいで? 私が何を……?」
「さ、その女共々ここで死んでもらおう。そうすれば、一件落着だ」
「……」
あの人は何を言っているんだろう。
確かにわたしは記憶を失っている。自分が誰なのか、何をしていたのか、何もわからない。でも、由美さんはそんな私に優しくしてくれた。わたしのことを励まそうとしてくれた。なのに……どうして、由美さんがこんな目に遭っているんだろう。どうして、あの人はわたしから大切な人を奪おうとするんだろう。
許さない。
無意識のうちにそう思った。
わたしから大切な人を奪うのは許さない。
『ちーちゃん、やめて。もうこんなことはやめて、ちーちゃん』
女の子が叫んでいる。ちーちゃん……わたしのことかな。その子が悲しそうな目でこっちを見ている
『許さない……私は絶対に許さない。みんなを殺したあの人たちを殺すわ! 一人残らず!』
もう一人別の子の声が響く。その声はわたしの声にとても似ていた。いや……それはわたし? わたしの声なの?
感じる。とても強い感情が。これは……深い、深い憎しみだ。
『一人残らず殺す!』
「……っ!」
また叫び声が聞こえてくる。気づけば、わたしは走り出していた。
「なっ!?」
女の人が驚いた表情をしているのが見える。わたしは信じられない速さで女の人との距離を詰めていた。
「こいつ記憶を失ってるのに刀人の力を!?」
舌打ちして手にした鉄球を投げてくる。さっきは目で追い切れない速さだったけど、今のわたしの目にはっきりと見えていた。
すぐに横へ避けてさらに距離を詰める。
「なんだ、その動き!?」
後ろへ下がって鉄球を戻して、それを上から振り下ろしてきた。
「!」
咄嗟に地面を蹴った。すると、普通の人では到底跳べない高さまで宙にあがった。
「っ!」
両足に何かで熱されたような痛みがはしる。見ると、わたしの両足にはさっきまでの靴とは違う、底から刃の出ているスパイクシューズに変わっていた。
「死ねぇ!」
女の人が宙に浮いたわたしに向かって鉄球を飛ばしてくる。わたしはその場で回転してそれを避けると、鉄球についてた鎖をつたって女の人に向かって走った。
信じられない。こんなこと普通の人に出来るわけがない。わたしなんかに……。
けど、まるで何度もこういったことをしてきたようにわたしの身体は動いてた。気付けば、女の人のすぐ目の前にまで来ていた。
「お、お前はいったい……」
「……」
わたしは右足を後ろに反らせた。
この人は由美さんを殺すといった。それだけは絶対にさせない。由美さんが殺されるぐらいなら!
そして、後ろに反らせた右足を胸のあたりに向かって思いっきり蹴り出した。
「ぐっ……!」
骨の折れる音が鳴ったのと同時に女の人の身体が後ろの木々に向かって吹き飛んだ。そのまま、一本の大きな木にぶつかって、動かなくなった。
「はあ……はあ……」
いつの間にか息が乱れていた。さっきまでの自分の動きを思い返したけど、何が何だかわからなかった。
どうして、わたしにこんなことが出来るんだろう。
どうして、あの人に対して強い殺意を持つことが出来たんだろう。
聞こえてきたあの子の声は? わたしはいったい……。
「う……」
怖くて身体がだんだんと震えてきた。それは人を殺してしまった罪の意識のせいではあるけれど、それだけじゃない。
「わ、わたしはいったい……」
怖かった。人の命を奪うことに躊躇いがない自分がわからなくてとても怖かった。
第十五話 終。次回へ続く。
雛鳥 由美
秀平の元婚約者。京都の出版会社「アドセント」に務めるジャーナリスト。
秋野 千登勢
ガードレディの一人。刀人としての得物はスパイクシューズ。驚異的な脚力を発揮できる。




