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第十三話 シンナ

第十三話 シンナ


 1


2064年十月中旬。京都府某所。ダルレスト本部。通称『アフターケア』。


秋野(あきの)希莉絵(きりえ)の尋問の結果は、この報告書通りで間違いないんだな、浜家(はまや)?」

 渡された書類の束を机の上に置いた吉住(よしずみ)が目の前に立つ浜家に確認する。浜家は表情一つ変えずに頷いた。

「はい、今回の件で行方不明になっていたこの二人も、その場所に潜伏しているものと思われます」

「ふん、散々手こずっていて、ここにいるとはな……つくづく目障りな奴らだ」

 書類にクリップで挟まれた二人の写真。八重坂(やえさか) 真那(まな)梨折(なしおり)秀平(しゅうへい)を見ながら、吉住はタバコを取り出して火をつけ、一服した。その煙が部屋の天井へ立ち昇っていく。

「感動の再会となったわけだ。どうだった?」

「特に何も感想はありません」

「そうか。昔から変わらないな、浜家。だからこそ、この仕事が出来るんだろうがな」

 机の上に置かれた灰皿に煙草を置いて、吉住はもう一度浜家を見上げた。

「で、秋野希莉絵は?」

「指示通り、生かしたまま監禁しています。尋問中に舌を噛み切ろうとした時に出来た傷がありますが、命に支障はありません」

「仲間のためならそこまでやる……か。大した女だ。あんな奴らを守ることに何の価値があるのか」

 ふん、と鼻を鳴らし吉住は浜家を睨みつけた。

「浜家、いい加減に決断したらどうなんだ? お前が渋る理由もわからなくはないが、こうなってしまった以上選択の余地はないはずだ」

「……」

「それとも片腕がまだ完治していない字倉(あざくら)と、何を考えているかわからない伊月(いつき)に任せるつもりか? あの二人の能力の高さは俺も評価しているが、そこまで肩入れする必要はないだろ。この一件で充分理解できたはずだ。ダルレストの精鋭部隊とあいつを使えば速攻で決着がつく。何を躊躇う必要があるんだ?」

「……」

「今、使わなくていつ使うつもりだ、浜家?」

 口調を強めて問い詰める吉住に対し、浜家は何も答えなかった。


 2


 窓の外を見ると、空は灰色の雲に覆われていた。朝、目が覚めて快晴の空だったら少しは気分が晴れるというものだが、曇天だと沈んでいた気持ちはそのままだった。

「……」

梨折(なしおり)秀平(しゅうへい)、僕は一度君と会っている。十一年前、あの火事の時に』

 三重大学の講堂で伊月(いつき)が言っていたことを思い出した。断片的にその時の映像が思い浮かんだが、記憶にはなかった。いくら十年以上前のこととはいえ、少しは覚えているはずだった。なのに、思い出せない。どうしても、思い出せなかった。

「教えてくれ……弥生(やよい)

 俺が呼びかけても、弥生からの声は聞こえてこなかった。伊月に会ったあの時からずっと喋らないままだった。

『もうやめて、伊月お兄ちゃん。弥生は……弥生はもう……』

 あれはどういう意味だったんだろう。伊月と弥生は兄妹だったのだろうか。しかし、感動の再会とは言い難いものだった。弥生は何かに恐れているような感じに見えた。そして、伊月も俺に何かの協力をさせようとしていた。それが関係しているのだろうか。

「……はあ」

 ため息が出た。考えても仕方がない気がした。一人で答えを見つけようとしても、そんなものは全く見つからない。無駄に集中力を使うだけだった。それなら、もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか……。

「……」

 思い当たるところはあった。

『しゅ、秀平さん……どうしよう、シンナが……お姉ちゃんがいなくなっちゃった』

「あの話、聞く必要があるな」

 そう判断した俺はベッドから降りて、スーツに着替えた。身支度を済ませて寮の部屋を出る。

 男子寮を出て渡り廊下を歩き、顕光館へ入ると誰かの声が聞こえてきた。

千登勢(ちとせ)、もう休みな。これ以上やったら逆に体への負担が大きくなるだけよ!」

「大丈夫です。まだ出来ます、私!」

 体育館に定間隔に並ぶ六本の大きな円柱。その一つのそばで貝堂(かいどう)千登勢(ちとせ)の姿が見えた。

 貝堂が何かなだめるように言っていたが、千登勢は納得しなかった。

「もう一回やります」

「千登勢……」

 千登勢が柱のほうに体を向ける。次の瞬間、ごん、と床に何か大きな物を落としたような音が鳴り響いた。その直後に千登勢が円柱に向かって走り始め、止まることなく、柱に右足をつけた。

「うううう!!」

 その後に見た光景は信じられなかった。千登勢は踏み込んだ右足を軸にして体を宙へ上げ、左足で更に上の柱を踏み込んだ。

 見ると、その両足にサッカー選手がよく使うスパイクを履いていた。

「まさか、あれが……」

 驚いているうちに千登勢はどんどんと柱の上を登っていく。そのまま、天井まで行くんじゃないかと思った。

「あっ!」

 千登勢が声をあげた。柱を登っている途中で千登勢の履いていたスパイクが煙のように消えた。千登勢の身体がそのまま地面に落ちて行く。

「危ない!」

 咄嗟に俺は走って落ちてくる千登勢を受け止めた。かなりの勢いだったが、千登勢の身体が軽かったおかげで、何とか受け止めることが出来た。

「梨折さん!?」

「何してるんだ! 危ないだろ!」

「す、すいません……」

「梨折、ありがとう、助かったわ」

 駆け寄ってきた貝堂が礼を言う。俺は千登勢を降ろして二人を交互に見た。

「何をしていたんだ?」

「千登勢がねぇ、自分一人で理事長のこと助けに行くって言ってるんだけど、刀人の力をうまく制御出来ていないからあたしがサポートしていたのよ。この子の刀人の武器、他の子と違って癖の強いやつだから」

「う……だって、あいちゃんと葉作おじさんが死んじゃって、お母さんも捕まって……その上、真那さんも……。わ、私がやらないといけないって思ったんです」

「焦る気持ちはわかるけど、このままやってても足を痛めるだけよ。(のぼる)からも散々注意されていたでしょ?」

 肩をすくめて言う貝堂に対し、千登勢は顔を下に向けて落ち込んだ。この子の気持ちは俺もわかる。だから、伊月に会うなんて無茶な真似をしたんだ。だが、そのせいで沢村たちに迷惑をかけた。そして、八重坂にも……。

「貝堂、八重坂は自分の部屋か?」

「うん、部屋で休んでると思うよ。体調自体は特に問題ない。健康そのものよ。唯一、シンナの人格が表に出てこなくなっただけ」

「シンナは消えてしまったのか?」

「あたしにもわからないわ。たぶん、真那本人が一番わかっているんじゃないかしら」

「そうか……」

「見舞い、行ってあげなよ、梨折」

 どこか寂しげな表情を浮かべながら貝堂が言った。

「あたしは信じていないけど、もしシンナがいなくなっていたら……真那が一番に拠り所にするのはあんたよ」

「何故だ? 俺よりもお前や橘たちのほうが付き合いは長いだろ?」

「そうなんだけどさ、やっぱりあんたは……真那が大切に想っていた子の兄だからね」

 貝堂が笑みを浮かべながら言ったが、いつものような陽気に笑うあいつじゃなかった。その裏には誰か別のやつを思い浮かべているような気がしたが、今の俺にはわからなかった。


 3


 貝堂たちに別れを告げて、女子寮へ続く渡り廊下を歩いているとまた別の奴に出くわした。

「……」

「……」

 誰なのかはすぐにわかった。沢村のガードレディの佐東(さとう)未国(みくに)だ。思い返せば、こいつと二人で話したことは一度もなかったような気がする。何も話さずに素通りするのも良いかもしれないと思った。

「真那の見舞いに行くのか?」

 そう思った直後に佐東のほうから話しかけてきた。

「あ、ああ」

「そうか、早く行ってあげてくれ」

 一度目を逸らしてから佐東はもう一度俺のほうを見た。

「あいつの身に何が起こったのか、私にはよくわからないけど、良くない状況になっているのは間違いないと思う。それを治せるのは私よりあんたのほうが適任だ」

 あまりに意外な言葉を聞いたので、すぐに返事することが出来なかった。

「どうしてわかるんだ?」

「何となく……いや、そうじゃないな。沢村(さわむら)からあんたのことよく聞いていたからかもしれない。あいつは人を見る目がある。あんたのこと、すごく期待しているんだ。今、この嫌な空気を変えることが出来るのはあんたかもしれないって。沢村がそう言うなら、私もそうだと思う」

 佐東は正面に向き直って俺に頭を下げた。

「頼む、真那を助けてやってくれ」

「……」

 初めて会った時、俺は佐東に殺されかけた。あの敵意剥き出しで、他の仲間にも冷たかったこいつが今、仲間を助けてくれと俺に頼んでいる。沢村のおかげで佐東も大きく変わったということなのだろう。

「……わかった、努力する」

「礼を言う」

 それだけ言って佐東は顕光館のほうへ歩いていった。たぶん、沢村のところへ行くのだろう。その後ろ姿を見送ってから俺は女子寮のほうへ歩いた。

 

 4


「ん?」

 寮の玄関を通り抜けたところにあるロビーの所で、俺は一旦立ち止まった。上の階へ続く階段のそばで溝谷(みぞたに)が立っているのが見えた。スマホを時々見ながら誰かを待っているようだった。

「溝谷、何してるんだ?」

「お、ああ、梨折のおっさんか」

 俺に気付いた溝谷がスマホをポケットに戻した。

「いや、鶴香(つるか)を待っているんだ。真那の看病をもう少しやるっていうからさ。けど、もう結構時間かかってるんだ。これから、様子を見に行こうと思っていたところなんだが……。おっさんは?」

「八重坂の見舞いをしようと思ってな。ここに戻ってきてからまだ会っていないし」

「そうか……。せっかくだし、一緒に行くか?」

「ああ」

 俺は溝谷と共に八重坂たちの部屋のある階へ向かった。

「それにしても、本当におっさんが助かって良かったよ。急にいなくなるもんだから、俺たち必死こいて探してたんだぜ」

「それについては何度も謝っただろ。だが、俺にも理由があったんだ」

「沢村から聞いたよ。何だっけ? 謎の女の子の声が聞こえるとか、何とか。それのおかげでダルレストの奴らから襲われても大丈夫だったとか……。にわかに信じがたいが、実際、おっさんは今まで生き延びてこられたからなぁ。そんなことがあってもおかしくないと思うけど。んで、今回の騒動はその子のことを知っているやつが向こう側にいて、おっさんや潤一のことも詳しく知っていたとか何とか……」

「……」

「まあ、あまり話したくないなら聞かないぞ。俺、頭悪いから難しいことなんてわからないし。でも、真那を心配させんのはこれで最後にしてやってくれ。潤一に続いておっさんまで死んでしまったら、あいつはもう立ち直れないかもしんねえ。今、シンナが出てこなくなっても、踏みとどまっていられるのはおっさんのいるおかげだからな」

「……お前にまでそう言われるとはな」

「ん? 何か言ったか?」

「いや、何でもない。早く行こう」

 溝谷を促して、俺は八重坂たちの部屋へ向かった。

 思い返せば、ここに来たのは二度目だった。八月に入るか入らないかって時期にあいつが風邪を引いて、八重坂に負担がかかるからって理由でシンナが表に出てきて、ガードマンとガードレディとして活動することを改めて確認したんだっけな……。ほんの二ヶ月ぐらい前のことなのに、その間に色々なことがありすぎて、随分前のことのように思えた。

「鶴香、俺だ。梨折のおっさんが真那の見舞いに来てるぞ」

 部屋のドアをノックしながら溝谷が言った。

「今、開けるわ」

 部屋の奥から声が聞こえてきて、その後にドアが開き、金髪のツインテールの髪形をした橘が顔を出した。

「ごめん、文仁、ちょっと準備してて……」

「気にすんなよ。真那の調子は?」

「今、少し眠ってるけど……。梨折さん、お願いがあるんですけど」

「どうした?」

「あたし、これから文仁と外出するんでその間、真那のこと見ておいてもらいたいんです。今、あの子を一人にさせておくのは不安なので……」

「俺が?」

「お願いします」

「俺からも頼むぜ、おっさん。鶴香と大事な用があるんだ」

 橘に続いて溝谷にも頼まれてしまった。元々見舞いのつもりで来たから断る理由はなかった。

「わかった、あいつのことは見ておく」

「サンキュー、おっさん。よし、行くぞ、鶴香」

「うん」

 そう言って二人は階段のほうに姿を消した。俺はドアを開けて部屋の中に入った。

 八重坂の部屋は以前来た時とほとんど変わっていなかった。あの時は夏場だということもあってエアコンや扇風機がついていたが、今はどちらも動いていない。

 八重坂はベッドの上で目を閉じて横になっていた。特に目立った怪我はしていないようだった。無理に起こすのは良くないと思ったので、中央に置かれた椅子に座ることにした。

「……」

『おじさん……』

 頭の中に声が響いてきた。

「弥生か?」

『ごめんなさい……私のせいで……』

「なぜお前が謝る必要があるんだ? 最初にあいつに会おうと思ったのは俺だ。お前が責めを負う必要はない」

『優しいんだね、おじさん……』

「弥生、今なら答えてくれるか?」

『……』

「聞きたいことが山ほどある。俺はお前にどこかで会ったことがあるのか? 伊月が言っていたように十一年前の火事の時に……」

『やっぱり記憶を消されたんだね』

「似たようなことをあいつも言っていたな。そうだ、はっきりとは思い出せない。けど、断片的に記憶が流れてくるんだ。そこには確かに俺がいた。そしてお前もきっと……」

『知らないほうが良いよ』

 弥生ははっきりとした口調で言った。

『おじさん、知ると必ず後悔する。だから、知らないほうがいい』

「どうゆうことだ? 俺はいったい何を?」

『でも、これだけは言える。おじさんは悪くないよ。悪いのは私たち……私たちのせいでおじさんや伊月お兄ちゃんは今も苦しんでいる』

「私たち?」

『……』

「弥生?」

 呼びかけても、弥生の声は聞こえなくなってしまった。

「ん……」

 その代わりに別の声が聞こえてきた。ベッドの上で眠っていた八重坂がゆっくりと目を開いた。

「秀平さん?」

「悪い、起こしたか?」

「ちょっと声が聞こえたので……」

 八重坂は上半身を起こして俺のほうを見た。

「見舞いに来てくれたんですか?」

「まあな。他にも聞きたいことがあるんだが」

「……だと思いました」

 八重坂は寂しげに笑った。

「シンナのこと……ですよね?」

「もう一つ、あの時シンナが親父と言っていた男のことも、出来れば教えてほしい」

 八重坂はシンナが消えてしまったと言っていた。心に傷ができている今のこいつにそんなことを聞くのは更に傷を抉るような罪悪感を抱いたが、今だからこそ聞けるかもしれないと思った。

「……わかりました、お話します。でも、今日ではなく明日にしてもらっていいですか?」

「明日?」

「今はまだ疲れていて休みたいんです。それと秀平さんに……会ってほしい人がいるんです。だから、明日まで待ってもらっていいですか?」

 その時、見せた八重坂の表情は何か強い決意をしたような引き締まったものだった。

 八重坂が覚悟を見せるなら、俺もそれに応えなければならない。

「わかった、明日まで待つ」

「ありがとうございます、秀平さん」

 八重坂は深く頭を下げて礼を言った。


 5


 久しぶりに外の風景を見ながら絵を描こうと思って、俺は鉛筆を手にとった。特に何かのきっかけがあったわけじゃない。最近、描くことが出来なかったっていう単純な理由があれば、落胆している今の自分の気持ちを変えたいからっていう理由もある。

 とにかく絵を描けば気が晴れる。そう思っていた。

「ふぅ……」

 三十分ぐらいしてから、キャンバスと鉛筆を机の上に置いた。やっぱり絵を描くことに集中できなかった。趣味に没頭しているところで状況が変わるわけじゃない。理事長がいない今、みんなのことを仕切れるのは自分ぐらいだ。俺がしっかりしないでどうする?

「やれやれ、疲れるな……」

 ため息をついていると、部屋の呼び鈴が鳴った。

「誰だ?」

「……私だ」

「未国?」

 声こそ小さかったが、すぐに未国の声だとわかった。椅子から立ち上がり、玄関のほうに向かい、鍵を外してドアを開けた。

 未国は何も言わずに廊下に立っていた。こうして、俺のところを訪ねてくるのは珍しいことじゃなかったが、いつもと何か雰囲気が違うような気がした。

「中に入っていいか?」

「おう、いいぜ」

「すまない」

 礼を言って未国が部屋の中に入り、ベッドの上に座った。

「どうした? 元気なさそうだが」

「……」

 未国は鋭い目で俺のほうを睨んだ。

「何か変なこと言ったか、俺?」

 そう聞いても未国は答えなかった。その代わりに自分の座っている隣を指差す。

「?」

「むっ!」

 頬を膨らませながらもう一度指を差す。隣に座れってことなのか?

 そう思った俺は未国の隣に座った。すると、未国は何も言わずに横になって、俺の膝の上に頭を置いた。

「……」

「……あ、あの、未国さん?」

「何だ?」

「きゅ、急にどうしたんですか? これはいわゆる膝枕という……」

「知ってる」

「……」

「悪い、沢村」

 未国は頬を少し赤くして言った。

「お前が理事長を助けようと必死に考えているのはわかっているつもりだ。余計な負担をかけたくない。でも、今はこうしてもらいたいんだ」

 その身体が若干震え始めたのがわかった。

「未国……」

「私は馬鹿だからわからない。葉作や愛佳が死んでしまって、悲しんでいる他の仲間をどうやって慰めるのか、シンナがいなくなってしまって落ち込んでいる真那のことも、どう励ましたらいいのか、わからなくて梨折に頼んでしまった。自分でやるべきはずのことなのに」

 涙声で話をする未国の頭を俺はそっと撫でた。未国はわからなくても、他の仲間のことを考えて励まそうとしていたんだ。優しいな、お前は……俺なんかよりずっと優しいよ。

「一人で悩ませてしまったな、未国。すまない」

「な、何でお前が謝るんだ?」

「パートナーを泣かせてしまうなんて、ガードマン失格だ。お前のことずっと支えるって心に決めていたのにな」

「そ、そんなことないぞ! 沢村のおかげで私は今までやってこれたんだ! お前がいなければ、私はもうとっくに……」

 がばっと身を起こして未国は俺のほうを見た。

「……」

「私はもうお前なしでは……」

 未国が顔を近づけてくる。俺も未国の身体を抱き寄せた。そのまま、自然に唇と唇が触れた。

「……」

「……」

 しばらくして顔を離し、お互いに見つめあった。

「わ、私のファーストキス……奪った責任取れよ、お前」

「もちろん」

 そう言うと、未国は頬を真っ赤にした。でも、今まで見せたことがないくらい明るい笑顔になった。

「好きだ……愛太郎(あいたろう)

 未国に初めて名前で呼ばれた。その時の胸の高鳴りは気のせいなんかじゃなかった。もう迷うことはなかった。

「俺も……お前のことが好きだ、未国」

 今度は俺から未国にキスをした。そのまま俺たちはベッドの上に倒れ込んだ。


 6


 夕方になっても空を覆う灰色の雲が晴れることはなかった。幸いにも天気予報では雨が降る可能性はなかったので、外を歩くのは大丈夫だった。

 あたしと文仁は施設を出て、裏山を登っていた。大事な話があるんだとあいつから言われたのは数日前、梨折さんと真那を助け出した後だった。

 最近、良くない状況が続いている中で文仁は何を話すんだろう。外に出てから一言も話さなくなったあいつの背中を追って、あたしは山を登り続けた。

「よぅし、着いた、着いた」

 山を登ってしばらくして、文仁が一息つくように言った。体力に自信があったあたしも肩で息をしていた。

「着いたってまだ頂上じゃないわよ。上まで行くんじゃないの?」

「何言ってんだよ、鶴香。この場所、覚えてねえのか?」

「この場所って……あっ!」

 そう言われてようやく思い出した。この山の中腹に広がるこの草原。まだ子供の頃だったあたしたちがよく遊んだ場所だった。文仁や俊明(としあき)たちと授業や練習をさぼってよく鬼ごっこしたり、夜中に抜け出して肝試しをやったり、そのことがばれて先生によく怒られていた。

 本当にあの時のあたしたちはどうしようもない子供だったかもしれない。

「思い出したって顔してるぞ、鶴香」

「ええ。あたしの中では一、二位を争う黒歴史よ」

 半分呆れたように言うと、文仁は軽く笑った。

「あの時の俺たちは本当に馬鹿だったよな。何が良くて、何が悪いのか、そんなこと全然わからなかったし」

 文仁は草原の周りに生えている一本の木に触れた。

「それで何年か経って、大切なものを失って、あの時、もっとああしてれば良かったとか後悔して……葉作のおっさんや愛佳ちゃんにも、もっとしてやれることがあったはずなのにわからなくなって……」

「文仁……」

「だからさ、俺、もう後悔したくねえんだ。今のうちに言いたいこと言っておこうと思ってさ、お前に」

 文仁は振り返ってあたしのほうを見た。

「こんな馬鹿な俺の面倒を見てくれてありがとな、鶴香。これからもよろしく頼む」

「……」

「ど、どうした?」

「……ぷっ」

「鶴香?」

「ぷっ……ふふ……あははははは!」

 つい我慢できなくて大声で笑ってしまった。

「な、なんだよ、お前! 今、俺、結構良いこと言ったんだぞ!」

「あははは、ごめん、ごめん。いつものあんたと大違いだったから、おかしくって……」

「なっ……お前、馬鹿にするなよ!」

 顔を真っ赤にして文仁は後ろに向いてしまった。いけない、ちょっと笑い過ぎちゃったかな。

「……」

 あたしは何も言わずに文仁へ歩み寄り、その手を握り締めた。

「!」

「ごめん、文仁。笑いすぎたのは謝るわ」

 そう言って、自分の頭を文仁の背中につけた。小さい時はあたしのほうが背が高かった。それがいつの間にか抜かされて、自分より大きくなった文仁はあたしにとって大きな支えになっていた。

「ありがとね、勇気出してくれて……」

「鶴香?」

「ごめん……ちょっと背中貸して」

 色々なことを考えているうちに目に涙が溢れてきた。悲しいから泣いてるわけじゃない。あたしは嬉しかったんだ。文仁にお礼を言われて、すごくすごく嬉しかった。

「お前、まさか……」

「振り向かないで! 振り向いたらぶっとばわよ!」

「わ、わかったよ……」

 慌てて、後ろに向き直る文仁の背中を借りて、あたしはしばらくの間、泣き続けた。


 7


 窓から見える星空は今日も輝いていた。

 風で木が揺れる音と虫の鳴き声だけが聞こえてくる。秋が近づいているのに、まだ夏の名残を感じる風景だった。

「……」 

 ベッドの上で横になってその景色を眺めていると、隣からもそもそと何かが動く気配を感じた。

 視線を反対側に移すと、ちょうど肩のあたりに髪留めを外した未国の頭が見えた。その髪に触れると心地よい感触がする。

「……」

 未国が顔をあげた。眉間に皺を寄せていて、鋭い目つきで俺を睨んでいる。

「何、怒ってるんだ?」

 笑いながらそう聞いてみる。

「何回も痛いって言ったのに……。お前、私が初めてだったの、わかってただろ?」

 未国が不満そうな口調で言う。

 今のこいつは学校の制服や下着も何もつけていなかった。俺も同じ姿だった。心を閉ざして、他人の好意を拒絶してきたこいつと俺が寝ていたなんて、いったい誰が想像するだろう。

「いや、すまん。俺も久しぶりだったし」

「ひ、久しぶり!? お前、初めてじゃなかったのか!?」

 未国が驚いた表情をする。こいつがこんな反応するなんて思っていなかった。

「そりゃあ、俺だっていい歳した男だ。一度や二度くらい……いてて! 何で、頬をつねる!?」

「道理でうまいと思ったら、そうだったのか。お前、なぜもっと早く言わなかった!?」

「悪い悪い! でも、未国って結構攻められるのに弱いんだな……いてて! だから、つねるなって!」

「ふん!」

 未国を頬を膨らませて、プイッと顔を後ろに向けてしまった。

「お互い初めてなのよりはマシだっただろ?」

 そう聞いても、未国は何も言わない。

「悪い……良くなかったか?」

「……なことない」

「え?」

「そんなことない……すごく良かった」

 聞き取るのが難しいくらい小さな声だった。それでも、俺はこいつの言葉をしっかり聞いた。

 たまらず、背中から未国を抱きしめた。未国は驚いたように体をビクッと動かしたが、すぐに背中に回された俺の手を握り締めた。

 小さな体だと改めて思う。それでも、こいつはあの壮絶な出来事と血みどろの戦いを何度もくぐり抜けた過去を背負っていた。こいつを受け入れる責任は決して軽くはない。

 それでも、俺は守ってあげたいと強く思う。今の未国の支えになりたいと思った。

「愛太郎……」

「ん?」

 聞き返すと、未国は俺のほうに振り返り、そのまま自分の唇を俺のに重ねてきた。完全に隙を突かれた。しばらくして唇を離すと、未国は俺の体にしがみついてきた。

「お前は、お前はどこにも行くなよ……私を一人にしないでくれよ」

 涙声でそう言った未国がさらに強く抱きしめてくる。その体がすごく震えているのがわかった。

 やっぱりこいつは普通の女の子だった。挫折や辛いことがこれからもたくさん待っているだろう。守ってやらないといけない。それはこいつの過去を知っている俺にしか出来ないことだった。

 俺は未国の体を抱きしめ返した。

「心配すんな。俺はどこにも行かねえよ」

「……ありがとう」

「だから、もう一回してもいいか?」

「……」

「いてて! 背中に爪立てるなって!」


 8


 梨折秀平と出会ってから数日後、浜家たちによって僕と花麗はダルレストの施設に戻され、部屋の一室に閉じ込められた。朝からずっと同じ状況が続いていて、自分たちがどのような処分を下されるのか、わからない。

 今回の件で浜家たちは間違いなく、僕のことを警戒するようになるだろう。イチかバチかの賭けで梨折秀平と接触することは出来た。けど、本来の目的を達成することが出来たかどうかと言われると、それは無理だったと言わざるをえない。自分のわがままのせいで創路(そうじ)花麗(かれい)を巻き込んでしまった。

「……」

「どうしたの、伊月?」

「ごめん、花麗。僕のせいで君まで巻き込んだ」

「謝らなくていいわよ。私だってこれぐらい覚悟していたわ。それに、あなたに振り回されたこと今に始まったことじゃないし」

「そうかな?」

 そう聞くと、花麗は少し笑いながら頷いた。

「そうよ、昔から変わらないわよ、あなたは。他のやつはみんな同じ。死んだ魚のような目をして、上からの命令にただ従って人を殺して、自分のやっていることに何の疑問も抱いていない。私もかつてそうだった。でも、あなたは違うわ、伊月。あなたの目は自分の人生を諦めていない強い光が宿ってる。どうしてそんな目をしているのか、わからなかったけど、伊月と一緒なら何かを見つけられるかもしれないと思ったのよ」

「何かって?」

「自分の生きている意味よ」

 花麗は言葉を詰まらせることなくそう答えた。こんなふうに自分の気持ちを素直に言ってくれるのは彼女以外にほとんどいなかった。どうして、ここまで僕のことを励ましてくれるのか、その理由はわからなかったけど、花麗や創路の存在は今の僕の支えになっているのは間違いなかった。

「ありがとう、花麗」

「……」

「どうしたの?」

「私、何か恥ずかしいこと言ってなかった?」

「そんなことないよ。僕は嬉しかったよ」

「……」

「花麗?」

「げ、元気が出たなら良かったわ。それより大事なのはこれからのことよ」

 花麗は座っていた椅子から立ち上がって窓の外を見た。

「浜家のおじさんたちどうするつもりなのかしら?」

「わからない。僕たちを処分する可能性はあるけど、椚木(くぬぎ)桜夢(おうむ)が死んで、僕たちまで殺せば、戦力が欠けるのは間違いないよ」

「そうね、だとしたら……」

「うん、最悪の事態を想定しないといけなくなるかも……」

 頭の中に思い浮かぶ。吉住が以前から言っていたけど、浜家は一度も承諾しようとしなかった。浜家自身もあれを使うことがどれだけ危険なのか知っているからだろう。でも、秋野希莉絵を拉致することに成功し、今回の騒動で僕たちを戦力から外すとなるともしかしたら……。

「浜家が馬鹿なことをしなければいいけど……」

「伊月……」

「……いや、考えすぎだ。そんなことはない。絶対に……」

 両手で拳を作って強く握り締める。力が入りすぎて震え始めた。

 今はどうすることもできない。ただ、祈ることしか出来なかった。

 

 9


 翌朝、沢村たちに見送られて、俺と八重坂は車で山を降りて松阪の町へ向かった。

 助手席に座る八重坂はあまり話をしてこなかった。どこに向かうのか時々指示をくれるだけだった。

たぶんこれから行く先は八重坂にとってとても大事な場所なんだろう。そして、その場所で話すことも八重坂やシンナに関わる重要なことだ。気持ちの整理をしていると思った。だから、俺からもあまり話を振らずに、彼女の指示に従って車を走らせた。

「秀平さん、あそこです」

 松阪の町の通りを走っている途中で八重坂がある建物を指差した。

「あそこは……」

 そこは三ヶ月前、八重坂と再会したあの場所だった。

「そうです。松阪総合病院。ここが秀平さんに来てもらいたかった場所なんです」

「どうしてここなんだ?」

「ここには……私の、いえ、私たちの大切な人がいるんです」

 車を駐車場に停めて、先に降りた八重坂のあとをついて行く形で俺は病院の中に入った。

 八重坂は何度もここに来ているようで慣れた足取りで西のほうの病棟に移動していく。入り口の手前にある受付で手続きを済ませ、廊下の一番奥にある病室に向かった。

 病室の入り口の札にはこう書かれていた。


八重坂(やえさか) 香代(かよ)』。


「八重坂?」

「……」

 八重坂は何も言わずに病室のドアを開けて中に入った。俺もそのあとに続いた。

 病室の中は綺麗に掃除されていた。窓の外には松阪の町が広がっているのが見えた。そして、その部屋に置かれたベッドの上に一人の女性が眠っていた。四十代から五十代ぐらいだろうか。少し痩せている黒髪の女性だった。目は閉じていたが、呼吸をしているのはわかった。

「久しぶり……お母さん」

 八重坂はそばに歩み寄ってその女性の手を握りしめた。

 やっぱりそうか。

 病室を入るときに見た名札で確信していた。この女性の名前は八重坂香代。八重坂の実の母親だった。しばらく母親の手を握りしめていた八重坂はそっと離して近くに置かれた椅子に座った。俺もその隣に腰を下ろした。

「母は十年前からこのままの状態なんです」

「何?」

「目を覚ますことがなく、母はずっと、ずっと夢の中をさまよっています。たぶんこれからも……」

それはいわゆる植物状態というやつなのだろうか。呼吸や体温調節などの生命維持に必要な部分は機能しているが、脳に何らかのダメージを受けたせいでその活動が停止しているとかいう……。

 話に聞いたことはあるが実際にそういうのを見るのは初めてだった。

「秀平さん、お待たせしました。今からお話しします」

 八重坂は眠っている女性のほうを見ながら言った。

「彼女の名前は八重坂香代。私と……シンナの母です。そして、シンナの本名は八重坂深奈(やえさかしんな)。私の双子の姉です」

「シンナが……お前の姉?」

「はい」

 八重坂はこくりと頷いて、話し始めた。

 俺の知らない自分の過去を。


 10


 十年前。2054年。


「おい、真那! まだかよ? 先に行くぞ?」

「わーん、ちょっと待ってよ、深奈!」

 階段の下から深奈の「早くしろよ?」という声に返事をしながら私はランドセルを自分の部屋に置いて階段を降りた。

「深奈、置いてかないで?!」

「置いていかねぇよ。ほら、準備はいいのか?」

「うん、大丈夫!」

「真那、深奈、今日も遊びに行くの?」

 一階のリビングのほうからお母さんが顔を出した。

「あたぼうよ。今日は真那とジャングルジムのてっぺんを取らないといけねえからな」

「えー、私、高いとこ苦手だよぉ」

「だからこそだよ。ここで克服しないと後で後悔すっぞ」

「怪我だけはしないように気をつけなさいよ。あと六時までには必ず帰ること。わかった?」

「おう!

「うん、わかった、お母さん」

「行ってくるぞ?!」

 私と深奈は家を出て、近所の公園に向かった。

「今日も来てるかな?」

「はぁ!? 真那、お前またあいつのこと言ってんのかよ?」

 深奈が驚いた表情で私のほうを見てきた。

「だって明日も遊ぼって言ってくれたし……」

「あーあ、完全に惚れてしまってるじゃねえか。男なんてろくでもねえことしか考えてねえぞ」

「そんなこと……」

「まあ、あたしはそんなに乗り気じゃねえけどよお。真那がそんなにって言うなら止めはしないけどな……あいつなんかよりずっと良いやつなのは間違いないからな」

「え、何か言った?」

「いや、何でもねえ。早く行こうぜ」

「うん」

 先を歩く深奈についていって私は学校終わりによく遊ぶ公園に向かった。

 小学校から帰ってくると、私と深奈は決まってこの公園へ遊びに来た。いつからそういう習慣になったのかはもう覚えていない。でも、少し前まで私はここへ遊びに来るのが苦手だった。深奈と違って身体を動かすのがそんなに好きじゃなかったせいかもしれない。でも、今はこの公園へ行くのが楽しみになっていました。

「あ、深奈、潤一(じゅんいち)くんだ!」

「……」

 ブランコで遊んでいる一人の男の子がいた。私は走ってその子のそばに向かった。

「潤一くん!」

「あ……真那ちゃん」

 その子が私に気づいてブランコをこぐのをやめて、私たちのところに来た。

「今日は早いんだね」

「うん、真那ちゃんに早く会いたかったから……」

「えへへ、私も……」

 お互いに顔を赤くしてしまう。あの時の私たちはかなりの照れ屋だった。

「けっ……爆発しろ、リア充ども」

 深奈が小声で何か言ったけど、私には聞こえなかった。

 小学校ニ年生の時に出会ったこの子が、あの潤一だった。同じ小学校に通っていた私たちは偶然この公園で出会い、放課後に遊ぶのが日課になりつつあった。

「潤一くん、今日深奈がね、ジャングルジムに登りたいって言ってるんだ」

「そうなの?」

「はっ、何だビビってんのかよ、お前。あたしは簡単に登れるぜ」

「ぼ、僕だって出来るよ!」

「ほう……言うじゃねえか。よぅし、なら見せてもらおうじゃないか。ちゃんと登れたらお前のこと、少しは認めてやるよ」

 私と違い、深奈は潤一のことを敵視していました。たぶん、私が潤一に親しくしようとしているのが気に入らなかったんでしょうね。

「潤一くん……頑張って」

「大丈夫……兄さんみたいに僕だって!」

 そして、その結果は……。

「へっ、散々威張ってたくせに結局登れねえのかよ。情けねえな」

「ぐすっ……」

 潤一はジャングルジムの頂上まで行くことが出来なかった。私と同じように高いところが苦手だったみたいで、降りてきた時には半泣きでしゃがみこんでいた。

 それに対して、深奈のほうはものの数秒と経たないうちに頂上まで登ってしまった。男勝りな性格だけど、深奈は私と同じ女の子で双子だった。でも、深奈の運動神経は抜群だった。

 学校の体育の授業はどんな競技でも一位だったし、男の子と喧嘩しても負けたことがなかった。それぐらい深奈は凄く運動の出来る子だった。でも、だからと言って、今の状況を黙って見ているわけにはいかない。

「もう、深奈! 潤一くんをいじめちゃだめだよ!」

 我慢できなくなった私は潤一と深奈の間に割って入った。

「いじめてなんかねえよ。あたしはこいつを一人前の男にしようとしてるだけさ」

「どう見ても意地悪してるよ!もっと優しくしてあげて!」

「けっ……」

 深奈は不機嫌そうな表情をした。


 11


 夕日が沈みかけてきたので、私と深奈は潤一と別れて自宅に向かって歩いた。

「深奈、どうして潤一くんと仲良くしないの? もしかして嫌いとか?」

「けっ、嫌いだね、あんなやつ。あたしより弱い男に真那のこと任せられるかっての!」

「潤一くんは……強いよ、きっと。あたしたちよりずっと強くなるよ」

「真那、どうしてだよ? どうして、お前はあいつなんかのことを……」

「私は……あっ!」

 その時、自宅の前に誰かが立っていることに気付いた。

反対側の通りから歩いてくる一人の人物。背が高く、真っ黒なスーツを着たその人のことを、私は遠くから見ても誰なのかすぐにわかった。

「お父さん!」

「ん、真那か?」

お父さんも私に気づいてくれた。

「おかえり! 今日は早いんだね!」

「久しぶりに休暇をもらったんだ」

「じゃあ、今日は一緒にご飯食べれるの?」

「ああ」

「わーい、やったー! 深奈! 今日はお父さんと一緒にご飯食べられるよ!」

「へいへい、そーかよ……」

 私と対称的に深奈は心底つまらなさそうな返事をした。さっきからお父さんと目を合わせようとしない。そこでようやく思い出した。

 深奈はお父さんのことをあまり好きじゃないことを。

「ただいま、お母さん」

「うぃーす」

「真那、深奈、おかえり……あら、(とおる)さん、今日は早いですね」

「仕事が早くに終わったんだ。ご飯は足りるか?」

「大丈夫。今日は多めに作ってあるから。久しぶりに四人でご飯ね」

「うん!」

「……」

「真那、深奈、先に風呂に入っちゃいなさい。ちょうど沸かしてあるから」

「わかったー!」

「はいよ……」


 12


「ふぅ、良いお湯〜。今日はちょっと遊びすぎちゃったねえ」

 湯船に浸かると、身体に溜まっていた疲れが一気に取れたような気がした。

「……」

「深奈?」

「ん、どうした?」

「どうした、じゃないよ。さっきからぼうっとして、私の話聞いてないでしょ?」

「……」

「深奈?」

「真那、お前は何も思わないのかよ、親父のこと」

 桶にお湯を汲んで、頭に流した深奈が言った。

「お父さんが?」

「ああ、そうだよ」

 深奈も湯船に入ってきて、私の正面にしゃがんだ。

「あたしは気に入らないね、親父のこと。毎日何やってるか知らないけどさ、あたしたちのこといつもおふくろばっかりに面倒見させてよお。休みの日も家にいないことが多いし、この前あった真那の誕生日の時も来なかったし……」

「それはそうだけど……でも、私はお父さんのこと嫌いにはなれないよ。だってお父さんは私たちのために……」

「あたしたのため? そんなの一度もやってねえだろ! あいつはおふくろの苦労なんて何一つ知らずに……」

「し、深奈?」

「……わ、悪い、真那。大声出してしまった。あたしの悪い癖だ。気にしないでくれ」

「う、うん、大丈夫だよ。早く風呂から出よ。このままじゃ、のぼせちゃうし」

「ああ……」

 深奈の気持ちを理解していないわけじゃなかった。お父さんがほぼ毎日夜遅くまで仕事に行っていることで、お母さんが私たち二人の世話をしたり、家事をしていることは何となくわかっている。でも、お父さんが一生懸命仕事しているのは私たちのため……そう信じていた私はどうしても深奈と同じようにお父さんのことを嫌うことは出来なかった。

 久しぶりに一家揃ってごはんを食べている時も深奈は一度もお父さんと話をしようとしていなかった。

 お父さんのほうもお母さんや私と少し話をするぐらいで、自分から深奈に話しかけようとしなかった。 

 せっかく家族みんなでご飯を食べているのに、その日食べた大好物のハンバーグの味はいつもより美味しく感じることが出来なかった。


 13

 

 その日の深夜も、私は寝ることが出来なかった。隣の布団には深奈が目を閉じて眠っていた。今日のことは深奈にとって色々と不満が溜まる一日になったかもしれない。今になって罪悪感と後悔が混じった複雑な気持ちになった。そのせいで余計に寝つくことが出来なかった。

「トイレ行こ……」

 布団から起き上がって私は部屋を出た。廊下を歩いてリビングの手前にあるトイレに向かう。

「あれ……?」

 そこでリビングにまだ明かりがついていることに気付いた。

「誰か起きてる?」

 リビングのほうに近づくと話し声が聞こえてきた。

「深奈の様子は?」

「いつもと同じ調子です。特に変わったことは……」

「そうか」

「徹さん、どうしてそこまで深奈のことを?」

「少し気になっただけだ。それよりも、明日からまたしばらく帰れないから、二人を頼む」

「……どうして? どうして、そこまであの仕事を続けるんですか?」

 その声からお父さんとお母さんが話しているのがわかった。さっきまで深奈のことを話していたみたいだけど、どういう内容なのか細かいところまではわからなかった。

「香代、わがままを言うな。誰かがやらなければならないことなんだ。私は自分から望んで今の仕事を続けている」

「そんないつ死んでしまうかもわからないことをどうして……もし、徹さんに何かあったら真那たちにどう言えばいいのか……」

「あの二人はお前の思っている以上に強い。私がいなくても生きていける」

「いなくても生きていけるなんて……仮定でもそんな話しないでください!」

「大声を出すな。二人が起きるだろ」

 感情を露わにするお母さんと対称的にお父さんは最初からずっと落ち着いたままだった。

「今のこの時代、刀人は深刻化した高齢化問題を解決するために使わなければならない、奴らを管理する人間は必要不可欠。誰かがやらなければならないことだ。その意味はわかるな? こうしてお前にだけ話している意味も」

「……はい」

「なら良い。明日は早い。もう寝る」

 お父さんがそう言うのが聞こえて、私は慌てて自分の部屋に戻った。

 どういう話をしていたのか、よくわからなかったけど、お父さんはこれからも今の仕事を続けるらしい。またしばらく帰ってこない日々が続くだろう。それをお母さんはやめてほしいと思ってる。そして深奈のことも……。・

 刀人。高齢化問題。管理する者。その一つ一つの単語の意味はよくわからなかったけど、それらの言葉が私の心の中に大きな不安を募らせていた。

 身体が震え始める。もうトイレに行くことも忘れていた。


 14



 次の日、深奈が学校の用事で遅くなると言っていたので、私は一人いつもの公園でブランコに乗って遊んでいた。

「……」

 けど、気分は晴れなかった。昨日の夜にお母さんとお父さんが話をしていたことが頭から離れてくれない。雰囲気からしてあまり良くない話をしているのは間違いなかった。お父さんはそんなに危ない仕事をしているのかな。

 もしそうだとしたら、やめてほしい。気づかないうちにお父さんが死んでしまうなんてことがあったら……。

「おい、お前、早く代われよ!」

「え?」

 突然背後から声が聞こえてきた。後ろに振り返ると、同い年ぐらいの四人の男の子が立っていた。

「ここは今日から俺たちの縄張りだ。他の奴が使っちゃだめなんだぞ!」

「え、そんな……公園はみんなで遊ぶ場所でしょ?」

「うるさい! 僕たちが決めたんだ! 逆らったら容赦しないぞ!」

 その直後、四人のうちの坊主頭の子が前に出てきて、どん、と私の身体を押してきた。

「きゃあ!」

 全く身構えていなかった私はそのままブランコから落ちて地面に倒れた。

「おら、どっか行けよ!」

「そうだそうだ! 女は家で遊んでろ!」

「う……う……」

 次々と罵声を浴びせてくる男の子たちに対して私は何も言えなかった。目に涙が溢れてくる。私がもっと強かったら、この子たちにも負けなかっただろう。お父さんとお母さんのことで落ち込むこともなかっただろう。

 でも、私は弱い。私一人じゃどうすることも……。

「やめろぉ! 真那ちゃんをいじめるなあ!」

「!」

 その時、公園の入口のほうから声が聞こえてきた。見ると、潤一くんが一人で走ってきて、私と男の子たちの間に割って入った。

「なんだよ、お前!」

「女の子をいじめるなんて卑怯だぞ!」

「うるさい、お前には関係ないだろ!」

 男の子の一人が潤一くんを突き飛ばした。潤一くんは地面に倒れこむ。

「生意気なやつだ! みんな、やっちまえ!」

 四人の男の子たちが潤一くんを取り囲んで、殴り始めた。

「じゅ、潤一くん……」

「う……」

 潤一くんは抵抗しなかったけど、絶対に泣かなかった。私を守るために、潤一くんは必死に耐えた。どんなに殴られても、どんなに蹴られても、弱音一つ吐かずに耐えた。

「おい、こらっ!」

 その時、女の子の声が聞こえてきたかと思うと、四人のうちの一人が「うわっ!」と言って突き飛ばされた。誰なのかすぐにわかる。突き飛ばしたのは深奈だった。

「てめえら、四人でいじめるなんて良い度胸じゃねえか。あたしが相手になってやるよ!」

 深奈がボキボキと拳を鳴らして、残った三人の男の子たちに立ちはだかる。その勢いに圧倒されて男の子たちは後ろにさがった。

「ほら、てめえが先か? それとも、お前がやるか? 何だったらまとめてかかってきても良いんだぜ、ああ?」

「ひっ……に、にげろぉ!」

 その態度に怯えて男の子たちは倒れこんだ一人を助け起こして公園から逃げていった。

「ったく、久しぶりに手応えのある喧嘩ができると思ったのに、つまんねえ奴らだ」

 吐き捨てるように言うと、深奈は地面に倒れている潤一くんを見下ろした。

「ほら、いつまで倒れてるつもりだ。起きろよ」

 深奈が潤一くんに手を差し伸べる。潤一くんはその手を握って立ち上がった。

「あ、ありがとう……」

「へっ、礼を言うのはこっちのほうだ。ありがとよ、真那を助けようとしてくれて。ちょっと見直したぜ。お前、やる時はやるんだな」

 鼻で笑いつつも、深奈が潤一くんのことを褒めるのはそれが初めてだった。私はその様子を見て、深奈が潤一くんを認めてくれるようになったと思った。

 そのことがわかって嬉しかったのもあるけど、深奈が素直に笑っているのを久しぶりに見れたのも嬉しかった。最近、何かとイライラしていた深奈が純粋に笑ってくれる。そうしてくれた潤一のことを私はますます気になるようになった。

「潤一、そろそろ帰るぞぉ」

 しばらく三人で遊んでいると公園の入口のほうから声が聞こえてきた。見ると高校の制服を着た背の高い男の人が立っていた。

「あ、兄さん!」

「じいさんが早く帰れってうるさいんだ。帰って飯の用意するの手伝ってくれ」

「わかった! じゃあ、真那ちゃん僕帰るね」

 潤一はそう言うと、やや躊躇いつつも深奈のほうに視線を移した。

「し、深奈ちゃんも……」

「ちゃん付けするな。あたしは呼び捨てでいいよ、潤一」

「……うん! また、遊ぼうね、深奈!」

 潤一は嬉しそうに笑って手を振りながら、帰っていった。


 15


「そうか、あの時、俺が見た二人の女の子……それが八重坂とシンナだったんだな」

 八重坂の話を聞いているうちにようやく思い出した。潤一がよく同い年の子と公園で遊んでいるというのは聞いていたが、それが八重坂たちだとは思っていなかった。こいつのことを知ったのは中学の入学式の時に潤一から話を聞いた時だった。

「潤一のやつ、毎日必ず公園に行って帰るのが遅かったからな。よくじいさんに怒られてたよ。それだけ、お前やシンナと遊ぶのが楽しみだったんだな」

「ええ、私もそうでした。そして、深奈も潤一のことを認めてくれたんです。あのまま、三人でこれからもずっと遊べると思っていたんですけどね……」

「……」

「……」

 俺は目の前で眠っている八重坂の母親を見た。八重坂の言った意味を理解するのに時間はかからなかった。

「シンナが今、この世に存在しているわけじゃなく、お前の中にいること。そして、お前の母親がこうなってしまった理由……何があったんだ?」

「お母さんは……お母さんとシンナは私を守るために……」

 八重坂は手で拳をつくって、何かを我慢するように膝の上にそれをあてた。話すと自分が辛くなることを口にしなければならない時、人はそういう行動を取る。

「八重坂、やっぱり無理に話さなくても……」

「大丈夫です。今日ここに来たのはその話をするためでしたから」

 八重坂は俺のほうを見て笑った。その笑顔が弱々しく見えて、少し辛かった。

「それが起きたのは深奈と潤一が仲良くなってから数週間後のことでした」


 16


 その夜、何故か寝つくことが出来なかった。いつものように学校に行って、放課後に潤一たちと遊んで、家に帰ってきただけだ。これまでなら、深奈より早く寝ているはずだった。でも、今日に限って変な胸騒ぎがして段々と目が覚めてしまった。

「……深奈、起きてる?」

 隣の布団で横になっている深奈に話しかける。もう寝ていると思ったけど、もそもそと身体が動いて深奈が私のほうに振り向いた。

「どうした? 眠れないのか?」

「うん、何か今日に限ってね」

「奇遇だな。あたしもだ」

 深奈が仰向けになって部屋の天井を見つめた。

「真那、この前の話覚えてるか?」

「え……あーうん、手が急に熱くなるってやつだっけ?」

 そう聞くと深奈は黙って頷いた。

 何日か前の夜、深奈が突然うめき声をあげて目が覚めたことがある。その時、深奈はとても苦しそうな顔をしながら、右手を抑えていた。

 私から見たら何も変なところはなかったけど、深奈の顔には汗が浮かんでいた。

「熱い……何だよ、これ……」

 必死に我慢しながら深奈がそう言ったことをはっきり覚えてる。結局、それは五分も経たないうちに収まったので、お母さんを呼ぶことはなかった。

「あれは変な感じだった。あとで熱計っても何ともなかった。けど、本当にやばかったぜ。熱湯に手を突っ込まれている気分だった」

「今は大丈夫?」

「今は何ともない」

「私……あんなに苦しそうにしてる深奈初めて見たから、もしかしたら死んじゃうかもって思っちゃった」

「あたしが死ぬ? はは、何言ってんだよ、真那。あたしが真那より先に死ぬわけないだろ。この前みたいに馬鹿な奴らに会ったら誰が真那を守るんだよ」

「……」

「ま、潤一がもっと強くなったらあいつに任せられるけどさ、今はまだ駄目だ。もっとあたしが鍛えてやらないといけない」

「鍛えるって……深奈、潤一くんのことまだ認めてないの?」

「部分的には認めたさ。けど、真那を任せられるほどじゃねえ。と言っても、親父よりは充分頼りにしてるけどな」

「深奈……」

「真那、お前は嫌いになれないって言ったけどさ。あたしはどうしても好きになれねえよ、親父のこと。生活するために金が必要なのはわかる。そのために親父が働いていることも理解してる。けどさ、仕事のことばかり没頭してよ、親父があたしらのために何かをしたことが今まであったか? 一度もないだろ。いつも人形みたいに表情なくて、笑うこともねえし、怒ることだってない。何かのロボットみたいだ」

 深奈の口調がだんだんと強くなっているような気がした。

「……」

 お父さんがロボットみたい。そう考えてしまう深奈の気持ちはわからなくはなかった。

「……おい、真那」

 突然、深奈が鋭い声で言って、布団から起き上がった。

「どうしたの、深奈?」

「静かにしろ」

 深奈が自分の口に人差し指をあてた。思わず口を手で抑える。すると、一階のほうから誰かが廊下を歩いているような音が微かに聞こえてきた。

「お母さん?」

「にしては変だぜ。何人かいるみたいだ」

「だ、誰なの?」

「わかんねえけど、良くねえ連中なのは確かだな」

 深奈は部屋のドアに近づいて耳をあてた。

「一階のリビングあたりか……」

 そう呟いて深奈は真那のほうを見た。

「真那、おふくろ起こしてこい。あたしが奴らを引き付ける」

「そ、そんなの危ないよ、深奈」

「このままここにいても状況は変わんねえだろ。それに奴らがおふくろの所へ行ったら何されるかわかんねえぞ」

「それはそうだけど……深奈一人じゃ……」

「わかってる。無茶なことはしねえよ。じゃ、気をつけて行けよ」

 そう言うと、ドアを開けて深奈は部屋を出て行った。

「深奈……」

 私はぐっと拳を握って部屋の外に出ると、深奈の反対方向の廊下を歩いた。

「おい、いたか?」

「いや、この部屋にはいないみたいです」

「よく探せ、この家なのは間違いないんだ。あの人の指示で間違ったことがこれまでにあったか?」

「いえ、一度もないですけど......」

「なら、ごちゃごちゃ言ってないで奥の部屋見てこい」

 リビングのほうから知らない男の声が聞こえてきた。何の話をしているのか、よくわからなかったけど、奥の部屋……お母さんの寝てる部屋へ行こうとしてるのはわかった。

「急がないと……」

 私は足音を立てないようにして奥の寝室に向かった。ドアを開けて中に入る。もちろん電気はついていなかった。薄暗かったけど、もう目は慣れていたので部屋の中の様子はわかった。

「お母さん?」

 呼びかけても返事は来ない。もう一度呼ぼうと思ったけど、大きな声を出したらあの男たちに気づかれるかもしれなかった。

「……」

ドアを閉めて部屋の奥へ歩く。

「お母さん?」

 さっきまで眠っていたみたいだったけど、そのベッドにお母さんはいなかった。

「どこに……」

「おい、誰だ?」

 突然、背後から声が聞こえてきて後ろに振り返った。いつの間にかドアが開いていて、そこに一人の若い男が立っていた。顔も知らない人だった。でも、その手に持っている物に視線が釘付けになった。

 細長い金属の刀。お母さんがご飯を作っている時に使う包丁なんかよりもずっと大きかった。

「あ……あ……」

「いたのか?」

「ああ、こいつみたいだ」

 更に別の男の声が聞こえてきて、もうひとりも部屋の中に入ってきた。その男も手に刀を持っていた。

 何? 何なの、この人たち。どうして……あんなものを持っているの?

 頭が混乱して声が出なかった。逃げないといけないって頭の中では思っているけど、身体が凍りついたように動かなくなっていた。目からも涙が溢れてくる。

「ふ、普通の女の子じゃないか、本当にこの子が?」

「間違いない。顔も同じだ。こいつがそうなんだよ」

「で、でも……」

「油断するな。もう目覚めてる可能性もあるんだ」

 二人の男が何の話をしているのか、わからなかった。怖くて……ただ怖くて、足がすくんでいた。そのまま、後ろに倒れてしまう。

 男たちが手にした刀を持ったまま近づいてくる。流れてくる涙が止まらなかった。

「お母さん……深奈……」

 無意識のうちにそう呟いた直後だった。

「うわああああああ!」

 二人のうちの一人が叫び声をあげた。その肩から真っ赤な血が噴き出しているのが見えた。

 その後ろに深奈が立っているのが見えた。

「し、深奈……」

「お前ら……真那に……」

 深奈の声が震えていた。それは怖さなんかじゃない。怒りだった…強い強い怒りだった。

「真那に手を出すんじゃねえええ!」

 深奈がもうひとりの男に斬りかかる。信じられない速さだった。

「こ、こいつが……刀人!?」

 男が咄嗟に手に持った刀で防ごうとしたけど、それよりも先に深奈の刀のほうが速かった。ぶん、という風が唸る音が響いて肩から斜めに切り裂かれて倒れていく。

 ほんの僅かな時間で起きた出来事だった。喧嘩に強いとはいえ、大人の人を二人も一瞬で倒してしまうなんて……信じられなかった。

「……」

 深奈は何も言わずに私のほうを見た。全身に返り血を浴びていて、目が死んだ人のように光がなかった。普段の深奈とは別人のような気がして、怖かった。

「深奈! 真那!」

 その時、深奈の後ろから声が聞こえてきて、お母さんが姿を現した。

「……おふくろ?」

 深奈が後ろに振り返ってお母さんのほうを見る。お母さんの顔色が急に変わったのがわかった。

「し、深奈……あなた、まさか刀人に……」

 刀人。その単語は以前、お父さんが言っていた。どういう意味なのかわからなかったけど、さっきの人間離れした深奈の力のことを言っているんだと思った。

「どうして……どうして、あなたが……」

「悪い、おふくろ……あたし、何か変だ」

 深奈は手に持っていた刀を落として、床に膝をついた。

「深奈!」

 お母さんが駆け寄って深奈の身体を抱きしめる。

「ひどい……ひどいわ、こんなの……あんまりよ……」

 お母さんは涙を流した。泣いているお母さんと血まみれになった深奈を見た私は何も言えなかった。

 深奈が刀人になってしまった本当の意味を理解していなかった。


 17


 次の日の朝、お母さんが慌ただしく荷物をまとめはじめていた。箪笥にあった衣服や貴重品を大きなキャリーバッグに詰め込んでいく。

「真那! 急いで支度して!」

「きゅ、急にどうしたの、お母さん?」

「あとでちゃんと説明するから! 早くして!」

 お母さんが大声で言う。こんなに焦っているお母さんを見るのは初めてだった。火事や地震が起きた時と同じような感じだった。

「深奈が……深奈が目覚めてしまうなんて……それを知ったら、あの人……。真那、深奈は!?」

「ま、まだ部屋にいると思う」

「早く起こしてきて! 遠出するから着替えも用意して!」

「う、うん!」

 何が何だかわからないけど、とにかく急がないといけないのはわかった。私は走って自分の部屋に戻った。

「深奈、起きて! お母さんが――」

 ドアを開けて中に入ったところで私は立ち止まった。深奈はパジャマ姿のまま床に倒れていた。顔に汗が浮かんでいて息も荒かった。

「深奈!」

 そばに駆け寄って深奈の身体を揺らした。

「深奈、大丈夫!? 起きてよ、深奈!」

「う……ま、真那か?」

 深奈が少しだけ目を開けた。こんなに酷く疲れた深奈を見たのは初めてだった。

「大丈夫? 気分悪いの?」

「わかんねえ。昨日からこの調子だ。身体に力が入んねえ。あの意味がわからない力のせいか……」

 そう言われて昨日の光景が頭に浮かぶ。襲ってきた男の人たちの血を浴びて部屋に立つ深奈。手に握り締めた細長い刀。死んだように光のない目。その姿を見たとき、深奈が私の知る深奈じゃないような気がして怖かった。深奈のおかげで助かったけど、それでも怖くなかったかと聞かれたら嘘になる。

 私は深奈のことが怖かった。でも……。それでも、深奈は私の家族だ。たった一人のお姉ちゃんなんだ。だから、私は深奈の力になってあげたい。

 私は深奈の身体を起こしてその腕を肩に回した。力を振り絞って起き上がらせる。

「深奈、お母さんが呼んでる。今から出かけるって」

「よくわかんねえけど、わかったよ」

 私は深奈の腕を握る力を強めて部屋を出た。

「真那、深奈!」

 玄関の近くに立っていたお母さんが呼びかけてくる。お母さんは大きなキャリーバッグをそばに置いて、もう一つ大きなカバンも持っていた。

「お母さん、深奈の具合が……」

「……良くないわね。わかってるわ。しばらく安静にしておけば収まるはずだから。今はとにかくここから離れましょう」

 お母さんは顔色の悪い深奈のことについて特に驚かなかった。まるで深奈が今どんな状態なのか知っているかのように見えた。

「真那、深奈、聞きたいことたくさんあるかもしれないけど、今はお母さんの言うとおりにしてほしいの。わかった?」

「う、うん」

「ああ……」

「よし、すぐに行く――」

 お母さんがそう言って後ろに振り向いた直後だった。玄関のドアがゆっくりと開いた。そこに立っていた一人の男性。私にとってそれは何度も見たことのある人だった。

「お父さん?」

 お父さんだった。いつもと同じように真っ黒なスーツを着ていて、表情一つ変えずに私たちのほうを見ていた。

「と、徹さん……」

 お母さんが少し後ろにさがる。その声が震えていた。

「こんな朝早くにどこへ行くつもりだ、香代?」

「あなたこそ……どうしたんですか? 今日は帰れないって……」

「本来はな。だが、状況が変わった。この近くで刀人の反応があった以上、帰るわけにもいかなくなった。それにしても……」

 お父さんがお母さんから視線を離して私と深奈のほうを見た。

「本当にお前が刀人になるとはな……深奈」

「か、刀人? なんだよ……それ?」

「その姿は人であって、人ならざる者。この日本社会において、その存在を隠さなければならない存在。自らの感情を武器に戦うことが出来る能力者。こんな話をお前にしたところで理解できるとは思えないがな」

 お父さんは一度目を閉じ、やがてゆっくりと開けた。

「刀人を一般社会に野放しにすることは出来ない。奴らを管理し、社会の秩序と治安を守る。私はそういう仕事をしている」

「と、徹さん……まさか……」

「自分の娘であっても例外ではない。深奈、刀人になったお前をここに置いておくわけにはいかない。私と来てもらう」

「だめです!」

 お母さんが私たちとお父さんの間に入った。

「深奈は私の娘です。あなたたち……ダルレストのところになんて行かせません!」

「香代、刀人はお前一人に扱える存在じゃない。深奈が暴走を始めてからでは遅い。お前や真那を殺す可能性だってあるんだ。その意味がわかるはずだ、お前には」

「わかりません! わかりたくもありません! 刀人は人間です! 深奈も真那も私が……私がお腹を痛めて生んだ、正真正銘私の娘です!」

 お母さんが叫んだ。でも、お父さんは表情一つ変えなかった。

「戯言を……お前と話していては埒があかない」

 そういうのと同時に右手をあげる。すると、後ろの道路に止まっていたリムジンから何人ものスーツの着た男の人たちが出てきた。その手には拳銃が握り締められている。

「正気じゃない……狂ってるわ! こんなの!」

「正気を失ってるのはお前の方だ、香代。そこをどけ」

 お父さんが前に向かって歩く。でも、お母さんは道を開けようとしなかった。

「あなた、やめてください!」

 その直後、がん、と何かを叩くような音が響いた。いつの間にか、お父さんのそばに着ていた一人の男が銃の持つところでお母さんを殴った。

「うっ!」

 お母さんが頭を抑えて倒れこむ。抑えた手から赤い血がにじみ出てきた。

「お母さん!」

「おふくろ!」

 私と深奈が倒れたお母さんのそばに駆け寄る。お母さんは痛そうに目を閉じていた。

「てめえ……よくもおふくろを!」

 深奈がお父さんのほうを睨みつける。

「ダルレストに抵抗した香代が悪いんだ。我々に反抗するなど、愚かとしか言いようがない」

「お前……お前は人間じゃねえ! どうかしてるぞ、お前! 目の前で、目の前で自分の女が殴られてるのに、何で何も心配しねえんだ! 何で、気にかけてやらないんだ! お前には心がねえのかよ!」

「人間じゃない? 心がない? それはお前のことだ、深奈。刀人に情など何もない。この社会に存在してはいけないものだ。お前に感情を語る資格はない」

「てめえ!」

 深奈が大声で叫ぶ。それと同時に右手にあの時と同じ刀が現れた。

「覚醒したばかりで、身体への負担が相当なはずだが……」

「うおおおおお!!」

 深奈は刀を構えて、お父さんに向かって斬りかかる。けど、それよりも早くお父さんの右手が深奈の首を掴んでいた。

「がっ!」

 だん、と壁に叩きつけられた深奈が持っていた刀を落とした。

「この短時間でここまで能力を使いこなすとは、あの二人に任せたのは間違いだったか」

「な、なに?」

「ど、どうゆうこと……ですか?」

 頭から血を流したお母さんが少しだけ身体を起こしてお父さんに聞いた。お父さんは横目でお母さんのほうを見る。

「深奈には刀人の兆しが見えていた。同世代の子供では持ち得ない高い運動神経。何の兆候もなく、襲いかかる高熱。人間が刀人に目覚める際によく見られる現象だ。以前から目をつけていた私は確信を得るために試したのだ」

「う、うそ……じゃあ、昨日襲ってきたあの人たちは……」

「……」

 お父さんは何も言わなかったけど、それがどういう意味なのか、私にもわかった。

「な、なんてこと……。徹さん、あなたは……あなたは深奈が刀人になるかどうか見るためだけにあんなことを!?」

「確信を得るためだ」

「に、人間じゃない……人間じゃないわ! あなたは自分の子供を何だと思っているの!?」

「何を言っている? 香代、こいつこそ、もう人間じゃない」

「……けっ、どこまでも腐ってるな、てめえ」

 お父さんの右腕を掴みながら深奈が言った。

「さっさとくたばりやがれ!」

 深奈がそう叫んだ瞬間、いつの間にか、足に引っ掛けていた刀を宙にあげた。それを右手に持ってお父さんの顔に向かって突き出した。

 けど、刀の先はお父さんの頬のあたりをかすめただけだった。

「……」

 その直後、ごきっという嫌な音が鳴り響いた。木の枝が折れたような音だった。何の音が一瞬わからなかった。でも……。

「し、深奈……?」

 深奈の首が普通では考えられない方向に曲がっていた。もう言葉を発しなかった、手に持っていた刀も再び滑り落ちた。

「え……?」

「我々に歯向かう刀人の道は……死だけだ」

「と、徹さん……あ、あなた今……」

 お母さんが涙を流しながらお父さんを見る。お父さんは掴んでいた深奈を私たちのほうに投げた。どさっと音がして、深奈が床に倒れる。

「深奈?」

 呼びかけても返事は来ない。深奈は目を開けたまま、動かなくなっていた。

「ど、どうして……どうして深奈を!? 深奈を殺したのよぉ!」

 深奈を……殺した? お父さんが? う、うそ……うそだよね。あの深奈がこんな呆気なく死んじゃうはず……。

「……」

 そう思っていた私の瞳に映る深奈は何も言わない。呼吸もしていない。正真正銘本物の死体だった。

「深奈、深奈ぁぁぁ!」

 お母さんが倒れた深奈の身体に触れながら泣いた。その様子をお父さんは表情一つ変えることなく見下ろしていた。

「香代、真那、二人にはダルレストに来てもらう。刀人の記憶を消す必要があるからな」

「き、記憶を消す?」

 お母さんがお父さんのほうを見上げる。その表情が悔しさと怒りの混ざったに歪んでいた。

「あなたは深奈を殺して、私と真那の記憶からも深奈を殺すんですか!?」

「それがダルレストの決まりだ」

 お父さんが右手をあげる。それに反応して後ろに控えていた男の人たちが近づいてきた。

「徹さん、やめてください!」

「邪魔をするな」

 がん、と音が鳴ってお母さんがお父さんに頭を殴られた。お母さんは声を上げることも出来ずにその場に倒れた。

「お母さん!」

 お母さんからも返事は来なかった。

 目を見開いたまま、死んでいる深奈。動かなくなってしまったお母さん。残ったのは私一人だった。目の前に立つお父さんたちの姿が人間じゃない悪魔のように見えて身体が震えた。

「一緒に来てもらおう、真那」

 それはお父さんの声だったけど、いつものお父さんの声に聞こえなかった。

 どうして……どうして、こんなことになってしまったんだろう。私はただずっとお母さんやお父さん、深奈と一緒に過ごしたかっただけだった。それ以上何も望んではいなかった。お父さんと深奈は仲が悪かったけど、お母さんと私で何とか仲直りさせてあげようと思っていた。なのに……どうして、こんなことに……。

 その時、ふと死んでしまった深奈のそばに落ちていたものが目に入った。朝日に反射して輝いている銀色の刀。深奈がずっと握っていた刀がまだそこにあった。

「……っ!」

 何か考えがあったわけじゃない。私はそれを咄嗟に握った。

『……悪い、真那』

 その直後に頭の中に声が響いてきた。

『お前の身体、少し借りるぞ』

「深奈?」

「何?」

 お父さんたちの動きが止まる。刀を持った私はゆっくりと立ち上がった。いや、それも無意識だった。周りの状況は見えているけど、身体が勝手に動いた。

「いきなり殺すなんて、ひでえじゃねえか、クソ親父」

 それは私の口から出た言葉だけど、私の声じゃなかった。

「お前は……」

「可愛い娘のことぐらい大切にしろよ?」

 そう言った直後に身体が動く。一瞬でお父さんと距離を詰めて、その脇腹の辺りに蹴りを入れた。お父さんの身体が宙に浮いて後ろへ吹き飛ぶ。近くにいた男の人たちが拳銃を構えたけど、それよりも速く手に持った刀を横に振っていた。そのうちの一人が血を流しながら倒れていく。

『こ、これはいったい……』

 そこでようやく私の言葉が直接口には出ず、心の中に響いているのがわかった。さっきまで話していたのは私じゃない。深奈だった。さっき死んでしまった深奈が私の代わりに話して、身体を動かしていた。

「ば、化物!」

 男の人たちが銃を撃ったけど、深奈はそれを目で見てから避けた。

「あぶねえ、当たったらどうするつもりだよ、おらぁ!」

 深奈が大声で叫んで銃を撃ってきた人たちの中に突っ込み、刀を素早く振った。その人たちは肩やお腹の辺りから血を流しながら次々と倒れていった。

 それはほんの十数秒の出来事だった。

「はあ、はあ……ったく、これぐらいで疲れるとは、あたしもまだまだだな」

「愚かな奴だ」

 ふと声が聞こえてくる。深奈に蹴られて吹き飛ばされたお父さんが立っていた。

「深奈、ダルレストに歯向かうお前に未来はないぞ。今のこの世界でお前が生きる術などない。真那と香代をずっと巻き込んだまま、お前は……」

「うるせえよ、くそ親父。さっさとあの世へ行きやが――」

 その時、車のエンジン音が聞こえてきて、何台もの真っ黒な車がこっちに向かってくるのが見えた。

「ちっ、仲間を呼びやがったか」

 舌打ちした深奈は前で倒れているお父さんを睨みつけた。

「くそ親父、あたしはてめえを許さねえ。絶対に落とし前をつけさせてやる。いつか、必ずな!」

 言い終わったのと同時にそばで倒れているお母さんを抱きかかえ、深奈は全速力でその場を離れた。

 

 18

 

「その後色々あったんですけど、私たちは希莉絵さんたちアサガオの組織に保護されて、ガードレディとして生きていく道を選んだんです」

 話を聞いたあとで息をついた。

 あの男が八重坂の母親をこんなふうにして、実の娘である深奈を手にかけた。

 わからない。子供がいない俺に親の気持ちを理解することは難しいが、自分の妻や娘にそこまで非情になれるのだろうか。ただ刀人になったというだけで。

『人を殺さないと生きていけない。そうするしかないんだよ』

『僕たち刀人はどうして存在しているんだろうね』

 伊月の言っていた意味が少しだけわかったような気がした。刀人を徹底的に監視するダルレストとそれに抗うガードレディたち。深刻になった高齢化社会という問題を機にその争いは激しさを増していくだけだ。いつ命を失うことになるのかわからない。そんな状況に俺たちはずっと立たされていて……そして、八重坂は……。

「私はひとりぼっちじゃありません。鶴香や未国たちがいて、深奈がいて、秀平さんがいて、ダルレストの人たちと戦わなくてもいい。みんながいてくれるだけで充分なんです。なのに……」

 八重坂の身体が少しずつ震え始める。その目にも涙が溢れてきた。

「どうして……どうしてあの人は私から奪っていくんですか? お母さんを、潤一を、葉作さんも、愛佳ちゃん、そして今回はシンナまで。何で……どうして、私をそこまで苦しめるんですか……」

「八重坂……」

「もう嫌です。これ以上大切な人を失うのは……もう嫌! いやぁぁぁ!!」

 八重坂は泣き叫びながら、母親の眠る布団の上に顔を埋めた。

「……」

 俺は……何も言えなかった。何も言ってやれなかった。

 潤一が大切に想っていた少女に対して励ましの言葉を送ることも出来なかった。


 19


 部屋のドアが開いたのは夕暮れどきの時間帯だった。

 入ってきたのは浜家と数人の刀人。名前は覚えていないけど、腕の立つ奴ばかりだった。

 浜家は僕と花麗の様子をしばらく見てから口を開いた。

「秋野希莉絵の尋問の結果が出た。ガードレディとガードマンの潜伏先は三重県松阪市の堀坂山だ。吉住氏からの指示により、我々は全力を上げてこの拠点の制圧にかかる。そのため……」

 浜家は一度口を閉じ、驚くべきことを口にした。

「ダルレストの精鋭部隊、そして五人目を出す」

「……は、浜家、今なんて?」

「聞こえなかったか? 五人目を出すと言ったのだ。異論は認めない」

「ま、待て……待ってくれ!」

 僕は椅子から立ち上がった。

「浜家……それだけはダメだ、絶対に! 僕が! 僕が代わりにやる! だから、それだけは!」

「異論は認めない。そう言ったはずだ」

「だめだ……絶対にだめだ!」

 大声で叫んで浜家に向かって走った。でも、それより早く浜家の周りにいた刀人たちが動き出していた。一瞬で両腕を掴まれて、床に押さえつけられた。

「伊月!」

 花麗が椅子から立ち上がろうとしたけど、残りの刀人たちが手にした刀を彼女に突きつけて動きを封じた。

「お前たちは戦力から外れてもらうが、万が一の事態に備えて現場で待機してもらう。もう一度言うが異論は認めない。妙な真似をすれば……今度は容赦しないぞ」

「は、浜家……や、やめろ。五人目だけは……やめてくれ……」

「まだ奴に執着しているとは……お前も愚かだな、伊月。あきらめろ、あれはもうお前のことなど覚えていない」

 そう言い捨てて、浜家は後ろに振り返って部屋を出た。僕は必死に身体を動かそうとしたけど、完全に拘束されていて身動き一つ取れなかった。

「くそ……くそおおお!」

 僕は叫んだ。何も出来ない自分を悔やんだ。どうすることも出来なかった……。

 

 20


「ほら、千登勢。流石にもう休みな」

「はぁ……はぁ……まだ、まだ私は……」

「連日でやっても身体に負担がかかるだけよ。今日一日ぐらいは休みなさい」

 顕光館の体育館で訓練し続けて疲れ果てた千登勢の腕を自分の肩に回して持ち上げる。

 連日の特訓で千登勢はかなり上達している。向こうで昇たちに教えてもらったおかげで格段に強くなっているのは間違いない。

 でも、この子の持つ力は強いがゆえに扱いきれていないのが現実だった。うまく使いこなせばシンナに匹敵するかもしれなかったけど、まだ時間がかかるのは避けられそうになかった。

「……あ」

 ふと、ステンドグラスの外を見ると、雷の鳴る音が聞こえてきた。太陽が見えていた空も段々と曇り始めていく。

「今日は降ってきそうね……」


 21


 中庭に文仁と出ていると、雲行きが怪しくなってきた。ゴロゴロと雷が鳴る音も聞こえてくる。

「雷か……雨が降ってきそうだな。戻ろうぜ、鶴香」

「……」

「どうした、鶴香?」

「え、あ、ううん、大丈夫」

「本当か? 何かぼうっとしている気がしたけど」

「……ちょっとね、不安になっちゃった」

「不安?」

「何か嫌な感じがして……」

「よくわかんねえけど、心配すんな。俺がついてやるからよ」

「……うん、ありがとう、文仁」

「お、おう……早く帰ろうぜ。一雨来そうだ」

「そうね……」

 顔を赤くして先を歩く文仁の手が目に止まった。昨日のことを思い出す。あいつの背中がとても頼りに見えた。あの時、握りしめていたあいつの手の暖かさを、あたしはもう一度確かめておきたい。だから……。

「!」

 あたしが次に取った行動は文仁を驚かせてしまった。

「久しぶりかもね、あんたと手つないで歩くの。途中で恥ずがしがってやらなくなっちゃったけど」

「……ふ、ふん、どれだけ昔の話してるんだよ。俺はもうあの時とは違う、て、照れてなんかねえぞ」

 文仁は意地を張ってあたしの手を握り返した。口で言っている割に顔は真っ赤だった。

 やっぱり、照れてるじゃない。

笑いそうになったけど、あたしは何も言わなかった。そのまま、あたしたちは手を繋いだまま、寮へ戻った。

 でも、心の中にある不安は完全に取り除くことが出来なかった。

 その不安の正体があの時のあたしにはわからなかった。


22


「くしゅん!」

「風邪ひいちまったのか、未国?」

「昨日、お前があんなに激しくするからだろ。思い出すだけで恥ずかしい」

 頬を膨らませつつも、今日も未国は俺の部屋に来ていた。不満そうにしながらベッドの淵に座っている俺の膝の上に頭を乗せて、横になっている。その髪を撫でると、心地よい感触が伝わってきた。

「でも、良かったんだろ?」

「……うん」

「そっか。なら、良かった」

「愛太郎」

「どうした?」

「その、えっと……私、いつかやってみたいって思っていた事なんだが……」

「何だよ、随分歯切れが悪いな」

「……」

 未国は起き上がって俺のほうを見た。

「未国?」

「その……せっかく付き合うことになったんだから……て、テレビとかで良く見る……ゆ、遊園地とか、買い物とか……」

「もしかして……デートしたいのか?」

「……」

 顔を赤くしたまま未国が頷いた。あの未国がこんな素直になるなんて誰が想像していただろう。でも、本心を言ってくれるほど自分のことを信じてくれていると考えると、とても嬉しかった。

「良いぜ、明日にでも買い物しに行くか」

「い、いいのか?」

「もちろん。俺も未国とデートしたいからな」

「……愛太郎!」

 俺の名を言った直後に未国が抱きついてきた。何か凄くキャラが変わったような気がしたが……まあ、いいか。

 その時だった。

「沢村」

 ドアをノックする音と共に渡井(わたらい)のガードマンをしている藤原(ふじわら)の声が聞こえてきた。

「どうした、藤原?」

「緊急事態だ。すぐにみんなを集めてくれ」

「緊急事態?」

「ああ。さっき、雨森(あめもり)国枝(くにえだ)から連絡があって……」

 その次に聞いた藤原の言葉はあまりに衝撃的な内容だった。


 23


 浜家は静かな足取りで薄暗い廊下を歩いていた。表情は変わらなかったが、何かを覚悟するかのようにその口元は固く引き結んでいた。

 廊下を歩き進んで一番奥へ向かう。やがて、頑丈な鉄の扉の部屋が見えてきた。そこは伊月が時々見に行く部屋だったが、彼には決して開けることは出来ない。その扉の鍵を持っているのは浜家を含むごく僅かな人間だけだった。

 浜家はその部屋の手前で立ち止まり、一度息をついた。着ていたスーツの内ポケットから金属の長い鍵を取り出し、鉄の扉の鍵穴に差し込む。がちゃり、と音が鳴ったのを確認して、彼はゆっくりと鉄の扉を開けた。

 部屋の内部は電気がついていなくてとても薄暗かった。所々にあるろうそくだけが辺りを照らしているだけでどのような構造になっているのか、はっきりわからない。しかし、その部屋の奥に置かれた灰色のソファ。その上で横になっている人物がいた。

 銀色のワンピース、艶のある紺色の長い髪。体格からして高校生ぐらいの女の子だった。けど、その身体から感じ取れる雰囲気は異様だった。浜家は一度だけ、唾を飲み込んだ。

「起きろ」

 浜家がその少女に話しかける。

「お前に仕事だ。久しぶりに外へ出てもらう」

 横になっていた少女がそれに反応してゆっくりと起き上がる。その様子を見ながら浜家は続けた。

「準備をしておけ、黒刀(くろがたな)

 黒刀と呼ばれた少女が浜家のほうに振り返る。その顔の右半分と右腕が真っ黒な鱗のようなもので覆われていた。


 第十三話 シンナ 終。次回へ続く。



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